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このページは、矢川澄子さんの本の感想のページです。

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「わたしのメルヘン散歩」ちくま文庫(2007年11月読了)★★★★

文化出版局の「すてきなお母さん」誌に連載されていたエッセイを1冊の本にまとめたもの。「本の中の子供」「夢を追う子ら」という2章に分けて、様々な児童文学作家たちをとりあげています。I章で取り上げられているのは女性作家。ローラ・インガルス・ワイルダー、エリナー・ファージョン、ヨハンナ・シュピーリ、ケート・グリーナウェイ、ルイザ・メイ・オルコット、ルーマー・ゴッデン、ビアトリクス・ポター、ジョルジュ・サンド、イーディス・ネズビット、セルマ・ラーゲルレーヴ、メアリ・シェリィ、ベッティーナ・フォン・アルニムの12人。II章で取り上げられているのは男性作家、マーク、トウェイン、ルイス・キャロル、オスカー・ワイルド、ジュール・ヴェルヌ、ジョナサン・スウィフト、宮沢賢治、巌谷小波の7人。

児童文学論というよりも、児童文学作家論となっているエッセイ。19人の作家の作品のうち、全く読んだことのないのは巌谷小波だけで、特にファージョンやオルコット、ゴッデン、ジョルジュ・サンド、ルイス・キャロル、ジュール・ヴェルヌの作品は大好きで何度読んだか分からないほど読み返しているのですが、それだけ読んでいながら、作家のことについてはまるで何も知らなかったことに改めて気づいて愕然とさせられました。もちろんローラ・インガルス・ワイルダーの作品は、そのまま彼女の歴史でもありますし、ファージョンのように「ムギと王さま」のまえがきで「本の小部屋」のことに触れていて、読書一家の中で相当本を読んで育ったのだろうなと想像できる作家もいるのですが。そしてヨハンナ・シュピーリのように、死ぬ前に個人的な手紙やメモ書きなどを全て焼き捨ててしまった作家や、セルマ・ラーゲルレーヴのように死後50年経たないと他の作品が発表されないという謎に包まれた作家もいるようですが。
特に興味深かったのは女性作家を取り上げたの章。男性作家に対しては、どこか異性に対する遠慮のようなものが感じられたのですが、女性作家の場合はやはり同性同士、分かる部分が多いのでしょうか。例えば、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品に関する考察はとても興味深かったです。ローラの生活は全て手作り。家も家具も服も日用品も食べ物も全てローラの両親やローラたちによって作り出されています。外は荒々しい自然そのままの世界ですが、一旦家の中に入ってしまえば、そこはお母さんの手によってきちんと整えられ、手作りの暖かさと家族の愛情で満ち溢れている空間。そんな暖かさがこのシリーズの大きな魅力の1つでしょう。しかしそこで矢川澄子さんは「手作りの味わいはたしかに捨てがたい。ただしそれはあくまでも現代、二十世紀後半のわたしたちにとっての話であって、フロンティアの開拓者たちはかならずしもそう考えてはいなかったことをよくよく顧みなければならぬ。」と書いているのです。実際、この作品は1950年代から邦訳されていたそうなのですが、戦後の荒廃の記憶も生々しい頃にはあまり読まれることもなく、注目を集めるようになったのはようやく70年代になってからだったのだそう。確かに戦後の窮乏を知っている人間にとっては、この生活描写は生々し過ぎるのかもしれませんね。手作りを趣味として楽しむことができるのは、今の時代ならではのことと言えるのですから。そしてこの作品の中でローラのお父さんが初めて脱穀機を使った時の言葉は、今でも鮮明に覚えています。「機械ってものはたいした発明だよなあ! 旧式なやりかたのほうがいい連中は、かってにそうするがいいが、わたしは進歩派だよ。われわれはすばらしい時代に生きているんだ」。確かに手作り・手作業信奉者というわけではありません。
他の章にも興味深い考察が色々とあり、ここで様々な作品の背景を知って、それらの作品を改めて読み返してみたくなりました。大人になってから読む児童書は、子供の頃の視点とはまた別の視点で読めるので、新たな発見もありそうです。


「兎とよばれた女」ちくま文庫(2007年11月読了)★★★★

196x年秋の夜更け。権田原から外苑の並木道にそって車を走らせていた男は、行く手のヘッドライトの明るみの中におぼろなすがたが浮かび上がるのを見ます。それはスウェーターもスラックスも白ずくめの小さな後ろ姿。その姿は宙に浮かんでいたのです。濃い霧のために一瞬でその姿を見失い、悔やむ男。しかしその時、その白ずくめの姿をした女が、車に乗り込んできて…。

不思議な女の語る不思議な物語。しかしこれは矢川澄子さんの自叙伝的作品なのですね。人妻だという女は矢川澄子さんご本人ですし、彼女が語る「主人」とは、かつて結婚していた澁澤龍彦氏のこと。私は、このご夫婦のことについては全くと言っていいほど何も知らないのですが、それでも読み始めてすぐにぴんと来ましたし、ここで語られる普通とは少し違う夫婦の姿に、澁澤龍彦氏との結婚生活がどのようなものだったのかとても納得できるような気がします。夫婦のやりとりの1つ1つに納得したのですが、その中でも特に分かる気がしたのは、子供は欲しくないというくだり。子供に妻を奪られないために、妻をひとり占めしておくために、「いっそのこと、ぼくが子供になってしまおう。」という「主人」の言葉。時には夫と妻として、時には子と母として、そして時には兄と妹として、幸せな「おうちごっこ」に明け暮れる日々。そんな生活に徐々に疑問を感じるようになりつつも、「主人」のことが好きで堪らなかったという彼女の思い。そして、そんな彼女が次に物語る「神様」とは、澁澤龍彦氏との離婚前に再婚を考えていたという詩人の谷川雁氏のことなのだそうです。
この作品の中で「主人」のことを語る人妻の女と、「神さま」と1つの家に住んでいる兎は、明らかに矢川澄子さん本人。「かぐや姫」についてのノートを書いたのは誰なのでしょう。それも矢川澄子さんなのでしょうか。しかもそこで考察されている「かぐや姫」と、オデュッセウスの妻・ペネロペイアもまた矢川澄子さんのことのような…。入れ子構造になっているだけでなく、捩れて螺旋になっているような物語なのですね。しかし、ただ伝わってくるのは、矢川澄子さんの女としての思い。あまりに正直な気持ちの発露に、読んでいるこちらまで痛くなってしまいそうです。

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