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このページは、ポール・ギャリコの本の感想のページです。

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「トンデモネズミ大活躍」岩波書店(2005年11月読了)★★★

イギリスのど真ん中のタニゾコドンの村に住んでいる年をとった陶芸職人が作るのは、本物そっくりの可愛らしいネズミの陶人形。ネズミばかり、朝から晩まで作っていました。そんなある日のこと、友人の娘の結婚式でほろ酔い気分になった職人は、気分良く大傑作のネズミを作り上げます。しかし翌朝焼釜から出してみると、これが大失敗だったのです。全身の色は濃い灰色になるはずだったのに青一色。小さな丸っこい体はフクロネズミのようですし、後ろ足はカンガルー、前足はサルのよう。耳はウサギの耳そっくりで、内側は毒々しいオレンジ色。しかも尻尾もほとんどなく…。しかしその出来損ないのネズミの顔立ちはとても可愛らしいものでした。職人はそのネズミをマン島のネズミ、トンデモネズミだと言って自分の寝室に置いておくことに決めます。しかしその日の晩、時計が13を打った時、トンデモネズミに命が宿り、大冒険に出かけることに。(「MANXMOUSE」矢川澄子訳)

行く先々で、自分がトンデモネズミであること、そしてトンデモネズミはマン島のトンデモネコに食べられる運命なのだということを聞かされるトンデモネズミ。命が宿った当初は何も知らなかったトンデモネズミですが、あまりにみんなに「トンデモネコ」のことを言われるので、だんだんとトンデモネコと出会うのが、予め決められた運命のように感じられてきます。しかもいざこのトンデモネコと出会ってみると、それは昔から伝わる「サダメ」にも書かれているというのです。
しかしトンデモネコに一飲みにされるという既に動かしようのないようにも見える運命を、トンデモネズミはひっくり返すことになります。これは自分の手で切り開いていく物語だったのですね。トンデモネズミがその道行きで出会う冒険の物語の中にも、さりげなく含蓄のある言葉が含まれており、トンデモネコの妻・マージョリーの「子どもなんて、いざ生まれてみなければどうなってることやら、わかりやしませんもの」もその1つ。冒険の中では、飛行機の離着陸の真似をする鷹のキャプテン・ホークや、サーカスから逃げ出したいくじなしのトラのブーラ・カーンが楽しかったです。
「訳者のことば」によると、献辞の「グレースに」はモナコの故グレース・ケリー王妃で、この物語が生まれるきっかけとなったのは彼女が陶芸を始めた時に最初に作ったネズミの人形なのだそうです。グレース・ケリー王妃が作ったネズミはトンデモネズミのような姿だったのでしょうか。見てみたくなりますね。


「ジェニィ」新潮文庫(2004年5月読了)★★★★★お気に入り

ピーターは8歳の少年。両親ともに留守勝ちであまりピーターのことを構う時間がないため、普段はスコットランドから生まれのばあやと過ごしています。そんなピーターが一番欲しいのは猫。4歳の頃に子猫がいっぱい入った籠を見て以来、ずっと猫を飼いたいと思っていたのです。しかしばあやは猫が大嫌い。母親もばあやの味方をするので、家の中に何度こっそり猫を持ち込んでも、見つかっては捨てられるの繰り返し。そんなある日、道の向こうの広場の公園の柵のそばで可愛らしい子猫が身づくろいをしているのを見たピーターは、思わず道に飛び出してしまいます。しかし丁度その時やってきたのは石炭トラック。次に気が付いた時、ピーターはなんと真っ白い猫となっていました。ベッドの上で丸くなっていたピーターは、ばあやに見つかって外につまみ出され、慣れない野良猫生活をする羽目に。そして死にそうになっていたピーターを助けたのは、雌猫のジェニィでした。(「JENNIE」古沢安二郎訳)

8歳の男の子の意識を持ったまま猫になってしまったピーターと雌猫のジェニィの心温まるファンタジー。猫の物語はいくつか読んだことがありますが、これほど濃密な猫の世界が描かれている物語は初めてのような気がします。ピーターがジェニィに身づくろいの仕方を教わる場面を始めとして、皿に入ったミルクに悪戦苦闘し、身のこなしを練習して立派にネズミが取れるようになるまでなど、沢山の猫の描写がありますが、どの場面をとってみても、普段余程猫と親密に暮らし、尚且つ相手を観察していなければ、書けないのではないでしょうか。人間と猫との係わり合いの場面も、猫同士の付き合いの場面も、読んでいると本当にこういう世界なのだと思えてきます。作者の猫に対する愛情がひしひしと伝わってきますね。そしてジェニィの造形もとても正直でしなやかで、いかにも猫らしいもの。褒められると嬉しさを隠せないところなど、とても可愛らしいです。ただ、ピーターとルルウのシーンだけは、取ってつけたように感じてしまったのですが…。そしてその後のジェニィの包容力のある愛情深い態度も、少々出来すぎの印象を受けてしまったのですが…。しかしそちらに関しては、最後まで読んでみて納得。ピーターが心から望んでいたことが、ジェニィとの冒険の中で叶えられていたのですね。
ピーターとジェニィの冒険部分ではワクワクさせられ、ラストは切なさにほろり。ちょっぴりほろ苦さが残りますが、しかしとても暖かくて素敵な物語でした。


「ハリスおばさんパリへ行く」fukkan.com (2005年10月読了)★★★★

ロンドンで通いの女中をしているアダ=ハリスおばさんは、工場主である大金持ちの男爵夫人・レディ・ダントの部屋を掃除している時に、衣装戸棚にかけられた美しいドレスに目を奪われます。それまでは色とりどりの花を育てることで満ち足りており、「ボーグ」や「エル」といったフランスのファッション誌に載っているドレスを見ても、自分とは関係ないものだと割り切っていたハリスおばさん。しかし絹とタフタとシフォンで出来ている生き物のような芸術品を実際に自分の目で見てしまってからというもの、自分のクローゼットにもディオールのドレスが欲しくてたまらなくなってしまうのです。しかし完璧なドレスは値段も高く、なかなか手が届かないのです。フットボールの懸賞で当てたお金や、これまで貯めていたお金を足してもまるで足らず、ハリスおばさんはこつこつと倹約と忍耐の生活を2年間も続け、ようやくパリ行きの飛行機に乗ることに。(「MRS. HARRIS GOES TO PARIS」亀山龍樹訳)

ハリスおばさんシリーズ第1弾。
コクニー訛りの庶民中の庶民の通いの女中をしているおばさんが、最高級のドレスを手に入れるという、夢物語のようなお話。外国に行くのも初めてなら、衣料品に5ポンド以上使うのも初めて。それがフランスのディオール本店で350ポンドから450ポンドもするドレスを買おうとするのですから、痛快です。日本では、シャネルやディオールといえば誰でも知っているブランドですが、海外ではそれを手に入れることのできる階級の人間以外はあまり知らないと聞いたことがあります。実際、バターフィルドおばさんはディオールのことを知らないようです。これは日本人が感じる以上の大事件なのかもしれませんね。冒険物語という言葉が相応しいかも。
もちろん見た目だけで通いの女中さんだと分ってしまうハリスおばさんですから、一筋縄ではいきません。ディオールの店に辿り着いても、マダム・コルベールの門前払いに遭いますし、ようやくサロンに入れてもらっても、隣の席の夫人が騒ぎ出す始末。しかし暖かい人柄と明るく前向きな姿勢が魅力のハリスおばさん、知らず知らずのうちに会う人会う人を皆幸せにしてしまうのですね。そしてハリスおばさんと友達になった人々には、それぞれに幸せが訪れることになります。人のために頑張ることが、逆に自分のために頑張ることに繋がっているのですね。
最後はちょっぴりほろ苦い結末が待っているのですが、それでもやはりドレスは大切な宝物。デザイナーはもちろんお針子さんや裁断師、その他ディオールの店にいる全ての人の暖かい愛情がこもっているのです。ハリスおばさんの明るく前向きな姿勢のおかげで、とても爽やかな読後感です。


「ハリスおばさんニューヨークへ行く」fukkan.com (2005年10月読了)★★★★

ハリスおばさんのお得意先の1つ、ジョエル・シュライバー夫妻がアメリカに戻ることになり、ハリスおばさんにミセス・シュライバーと一緒にアメリカに行くことになります。夫人はハリウッドやニューヨークで良いお手伝いさんに恵まれたことがなく、なかなか働こうとしない使用人にいつも苛立たされていたのです。そんなアメリカの使用人に比べると、手早く器用で仕事の能率もとても良いハリスおばさん。ハリスおばさんは「親友のバイオレット・バターフィルドおばさんも一緒に行けるなら」と答え、2人の渡米が実現。そしてハリスおばさんは、かねてから気になっていた隣家の8歳の少年・ヘンリーを連れて行く決心を固めます。ヘンリーのアメリカ人の父は本国に帰ってしまい、イギリス人の母は行方不明。隣のガセット夫妻に引き取られたのですが、最近では日々苛められていたのです。(「MRS. HARRIS GOES TO NEW YORK」亀山龍樹訳)

ハリスおばさんシリーズ第2弾。
「ハリスおばさんパリへ行く」の時にお得意さんだったジョエル・シュライバー氏がアメリカに栄転となり、ハリスおばさんとバターフィルドおばさんも同行することになります。しかしハリスおばさんの本当の目的は、ヘンリーの父親探し。もちろん根から良い人のハリスおばさんは、父親の方もヘンリーに会いたがっていると信じ、父親さえ見つけられれば全てが丸く収まると信じています。アメリカに行けば、すぐにでもジョージ・ブラウン氏が見つかると信じているのです。しかし現実はそれほど甘くありません。
世間を知っているようで知らないハリスおばさんのこと、ヘンリーを密出国させてしまって大騒ぎ。運良くパリで知り合ったシャサニュ侯爵に助けてもらえたのですが、あまりにも無謀すぎます。アメリカに着いてからも、そうそう物事は上手く運ぶわけではありません。もちろん最終的には、無事にヘンリーの父親が見つかったるのですが、その現実はハリスおばさんが描いていたものとは大きく異なり… あくまでも人が良いおばさんだけに、どうなるのかヤキモキしてしまいましたが、最後には全てが丸く収まってくれて、本当にほっとしました。おばさんにはいい薬となったかもしれませんね。
「幽霊が多すぎる」のアレグザンダー・ヒーローの名前が登場します。


「ポセイドン」上下 ハヤカワ文庫NV(2006年12月読了)★★★★★

アフリカと南アメリカの港を巡る1ヶ月のクリスマス・クルーズを終えて、リスボンへと向かっていた巨大客船・ポセイドン号は、突然原因不明のうねりにはまり込み、安定性の悪い船体は酷い横揺れをし始めます。それは軽い海底地震によるもの。一旦はうねりも収まるものの、安心したのも束の間、初期微動で既に弱くなっていた断層が何の前触れもなく激しく移動、何十億トンもの海水を吸い込みます。周囲の水の激しい流れに翻弄されたポセイドン号はよろけて傾き、巨大な地震波を受けてあっという間に転覆。船体はさかさまになり、あちらこちらで犠牲者が続出します。生き残ったのは、ダイニングルームにいた船客たちなどわずか数十名。いつ助けが来るのか、いつまで船は沈まずに耐えられるのか全く分からない状況下、そのまま助けを待つつもりのない人々は、スコット牧師の先導で、かつて船底だった部分へと上り始めます。(「POSEIDON」高津幸枝訳)

1972年の「ポセイドン・アドベンチャー」、2006年の「ポセイドン」と2度に渡って映画化された作品。最初あのパニック映画の原作者を書いたのが、数々のファンタジー作品を書いているポール・ギャリコだと知った時は驚きましたが、ポール・ギャリコ自身は元々スポーツライターだったのだそう。表面はパニック物でありながらも、登場人物それぞれの描き方はやはりポール・ギャリコならではでした。脱出のために上を目指すのは牧師のフランク・スコットを筆頭に、自動車メーカーの副社長のリチャード・シェルビーとその妻・ジェーン、2人の間の子供・スーザンとロビン。ニューヨークの敏腕刑事のマイク・ロゴとその妻で元女優のリンダ。デリカテッセン経営から隠退したマニー・ローゼンとその妻のベル。独身貴族の生活を謳歌していたヒュービー・マラーと、ダンサーのノニー・バリー。酒びたりのイギリス人トニー・ベイツとそのガールフレンドのパメラ・リード。イギリス人の銀行員でオールド・ミスのメアリー・キンセール、アメリカで紳士用品店を経営しているジェームズ・マーティンの15人。
読み始めてすぐ気になったのは、プリンストン大学時代から全米のスターだったスコットが、なぜ牧師という道を選んだのかということ。そして今、何が彼をここまでさせる原動力となっているのかということ。船の転覆は神からの試練だと受け取り、時には神に対する挑戦ともとれる言葉を吐きながら、そして脱落者は容赦なく切り捨てながら、スコットは他の面々を着実に上の階へと導いていきます。もちろん、1人でも多く助けるためには中途半端な情けは命取りだということは分かりますし、他人の意見によって自分の意見が左右されるような人間には、こういった困難な場面で上に立つ資格はないというのもよく分かります。しかしスコットという人物は、本当は一体どういった人間だったのでしょう。映画では、アウトロー的な部分を持つ牧師が、そのアウトロー的な部分から来る行動力と決断力を発揮して皆を先導していたような記憶があるのですが、この原作の中では何度もスコットが「勝ち組」であることが強調されています。常に「勝ち組」としての人生を送ってきた自信が、今また1つの勝利を目指して邁進しているような描き方です。しかし「勝ち組」としてのスコットと、聖職者としてのスコットがどうしても1つのイメージに重ならないのです。率先して皆を救う道を模索する行動自体は聖職者らしいものかもしれませんが、やはりどうしても聖職者らしくない部分が目につくのです。そして読み続けると、その2つの面の葛藤そのものが彼を破滅させたように思えてならないのです。
作中では、スコットだけでなく、ミセス・シェルビーのスコットや夫に対する複雑な思いなど、それぞれの人間の中に潜んでいた葛藤が、極限の状況の中で吐露されていきます。パニック物としても十分面白いのは確かですが、やはりこの作品の一番の良さは、そういったギャリコの人間観察、人間描写ではないでしょうか。心理ドラマとしても非常に面白い作品でした。


「ほんものの魔法使」大和書房(2005年11月読了)★★★★

魔法都市・マジェイアに現れたのは、1人の青年魔術師・アダムとものいう犬のモプシー。アダムは魔術師名匠組合(ギルド)に加入させてもらおうと、年に一回の魔術師ギルド加入試験に参加するために、わざわざストレーン山脈の彼方、グリモアからやって来たのです。マジェイアには、ありとあらゆる魔術師、手品師、奇術師、幻術師、早業使い、篭脱け師、読心術師、香具師などが集まっている場所。都に入ったアダムは早くも道に迷い、しかしマジェイアの市長・偉大なるロベールの娘のジェインに出会います。ジェインに助手をしてもらうという約束を取り付け、アダムは早速魔術師ギルド加入試験の予選に参加することに。(「THE MAN WHO WAS MAGIC」矢川澄子訳)

魔法都市という表現から、本物の魔法使いが沢山登場する物語なのかと思ったのですが、実はそうではありませんでした。魔術師ギルド加入試験も、本当の魔法ではなく、手品師や奇術師が技を競う場。ここにはアダムが使うような本物の魔法を使うことができる人間などいません。最初はアダムのやってのけた卵の魔法に対する妬みや僻みだったものが、まるで中世の魔女裁判のような様相を帯びてくるのがとても不気味。しかし悪意に晒されても飄々としているアダムと、そんなアダムが大好きなモプシーがいいですね。
アダムの言う「ただの、あたりまえの魔法」とは、その辺りにふんだんにあるもの。「わからないかい、ジェイン。われわれのまわりには魔法がみちみちているってことが。」と言う通り、周囲の自然にも自分の中にも満ちみちている魔法。そしてその話をしているピクニックでの情景がとても素敵。アダムの言葉1つ1つによって、ジェインの目には自然の豊かさが改めて鮮やかに感じられるようになるのが、白黒からカラーに切り替わる映像のようにありありと感じられます。そしてそんな素朴な色彩とは対照的な、最後のステージで見せるアダムの魔術の華麗さも凄いですね。色鮮やかな情景が目の前に浮かぶようです。
本筋とは関係ありませんが、聖書の出エジプト記のアロンがパロのもとでエジプトの魔術師らに杖を投げて見せるシーンを手品的に解釈しているのが面白かったです。私もニニアン同様、そのようなことは一度も考えたことがありませんでした。


「ハリスおばさん国会へ行く」fukkan.com (2005年10月読了)★★★★

ロンドンに戻ったハリスおばさん。相変わらずのかよいのお手伝いさんをしています。新たに木曜日の夜に、バターフィルドおばさんとジョン・ベイズウォーターさんがハリスおばさんの家にやって来て、テレビを見てお茶を飲むという週刊が出来ていました。そんなある木曜日のこと、ハリスおばさんはテレビに出演していた国会議員のロナルド=パークルの話していることを聞いて、すっかり怒ってしまいます。「あんなのがいるから政府はだめなんだよう」と力説するハリスおばさんは、その日ベッドに入った中で、政府のやり方についての演説を考えることに。そして翌日、お得意先のウィルモット卿が風邪で寝込んでいるのをいいことに、その演説をウィルモット卿にぶつけてしまいます。実はウィルモット卿は、中央党の黒幕的存在。ハリスおばさんの「あんたもわたしも楽しく生きなきゃ」というスローガンに感銘を受け、おばさんを選挙に出馬させようと考えたのです。(「MRS. HARRIS GOES TO PARLIAMENT」亀山龍樹訳)

ハリスおばさんシリーズ第3弾。
今回のハリスおばさんは、ウィルモット卿に乗せられて、なんと国会議員になってしまうことになります。しかしその背後には、色々な思惑があったのですね。ハリスおばさんは、前回の「ニューヨークへ行く」で知り合ったロールスロイス専門の運転手のベイズウォーターさんを始めとする、おばさんのことが大好きな人々の働きによって当選することになるのですが…。純真で人を疑うことを知らないハリスおばさんにとって、今回の一連の出来事はかなりきついです。「ニューヨークへ行く」でショックを受けた時は、自分自身の失敗が大きかったのですが、今回は自分だけの問題ではないのですから。夢と現実のギャップに加え、他人の悪意、喪失感…。こんな愛すべきハリスおばさんなのに、なぜこんな目に遭わなくてはならないのでしょう。しかしそれもまた現実なのでしょうね。
それでも何が起きてもハリスおばさんのことが大切な人々の気持ちは変わらないのです。ハリスおばさんがハリスおばさんらしくある限り、やはり周囲を魅了し続けるのでしょうね。悲しい出来事でしたが、それが逆にベイズウォーターさんを始めとする人々の優しい気持ちを浮き彫りにしてくれたようで、それがとても良かったです。


「七つの人形の恋物語」角川文庫(2005年10月読了)★★★★★お気に入り

パリに来て芝居で身を立てようとしたものの、長続きする仕事に恵まれず、とうとう街頭興行のストリップ・レビューでも首になってしまった、22歳のムーシュ(蝿)ことマレル・ギュイゼック。今にもセーヌ河身投げしようとしていたムーシュに声をかけたのは、人形芝居の「キャプテン・コック一座」の赤毛の人形、「にんじん」でした。不躾に呼び止められたのが妙に腹立たしく、思わず人形の言葉に反応してしまうムーシュ。しかしそのうち、次々と登場する人形たちとすっかり意気投合。ムーシュと人形たちのやり取りは通りすがりの客たちにも喜ばれ、ムーシュはその人形芝居一座に加わることになります。(「LOVE OF SEVEN DOLLS」矢川澄子訳)

7つの人形を動かしているのは、キャプテン・コックことミシェル・ペエロ。ミシェルや黒人のゴーロが、まるで人形たちを生きているかのように扱うので、最初は人形が生きているというファンタジーなのかと思いましたが、人形は人形にすぎず、本当にミシェルが動かしていたのですね。とはいえ、この人形芝居が、しばしばミシェルの思い描いていた台本から飛び出してしまうというのは不思議なところ。赤毛の少年・にんじん、金髪の巻き毛の娘っ子・ジジ、赤狐のレイナルド、巨人のアリファンファロン、ペンギンのデュクロ博士、門番の中年女・マダム・ミュスカ、おもちゃの製造や修理をしている老紳士・ムッシュ・ニコラという7つの人形たちが本当に個性豊かで楽しいです。そんな人形の後ろにミシェルが隠れて演じているという光景は、あまり想像できませんが…。
死ぬことしか考えていなかったムーシュは、この人形たちによって救われることになります。皮肉や意地悪を言いながらも、本質的にはとても優しい人形たち。となると、その動かし手であるミシェルもそういう人間なのかと思ってしまいそうになるのですが、話はそれほど単純ではありません。優しさも憐れみも知らずに育ったミシェルは、とても冷酷な人間。ムーシュの侵し難い純粋さを憎み、単に人肌が恋しかったこと、そしてこの先部屋が1つで済めば安上がりだという考えからムーシュの部屋に忍び込み、彼女を陵辱します。その行為には愛情などまるでないのです。それからというもの、ムーシュは毎夜のように手ひどく痛めつけられることに。
しかしそういった冷酷な人間が動かしているはずの人形たちは、本当に人情味に溢れて温かいのです。ミシェルがムーシュに辛く当たれば当たるほど、人形たちは翌朝ムーシュに優しく親切になり、様々な形でムーシュを慰めます。ミシェルの冷酷さとは裏腹の、人形たちの暖かさ。ミシェルの冷酷さが人形たちの優しさを際立たせ、逆に人形たちの優しさはミシェルの冷酷さを際立たせています。しかしムーシュにとっては、絶えず両極端の現実に苛まれることになります。苦しみと魅惑。絶望と喜び、憎しみと愛。そんな生活に疲れていた彼女が優しく接近した男に靡いても、まるで不思議はありません。 しかし7つの人形は、やはりミシェル自身でもあるのです。冷酷なミシェルを合わせると8つの人格が、それぞれにミシェル自身。そしてミシェルは本当は、この7つの人形を通してムーシュに救いを求めていたのですね。最後の「でも、僕らって誰なんだ」という言葉が何とも言えません。
角川文庫版には、「白雁(スノーグース)」も一緒に収められています。


「マチルダ」創元推理文庫(2005年10月読了)★★★★

ブロードウェイに建つすすけたビルの小さな事務所で、ナイトクラブやカーニバル、男性限定のパーティに売れない芸人を斡旋しているビミーことソロモン・ビムスタイン。いつかは大物になるという野心を持ちながらも、現在は業界の古株ボクシングマネージャー、パトリック・アロイシャス・エイハーンと、ボクシングのミドル級チャンピオン・リー・ドカティを抱えるピンキー・シュワブの事務所の片隅に置いて貰っている状態。恋人のハンナ・レイバンスラウムとのデートの費用の捻出にも困っている、26歳の青年です。しかしそんなビミーに幸運が訪れます。ロビンズ・ブラザーズ・サーカスで見世物をしていたイギリスの元ライト級チャンピオンのバーモンジー・キッドことビリー・ベイカーが、ビミーを訪ねて来たのです。ビリーの芸は、カンガルーのマチルダと組んだボクシングの見世物。ビミーは、丁度ナイフ投げの芸人が欲しいと電話してきたマトソンズ・カーニバルにビリーたちを売り込みます。そしてマチルダはなんと500ドルを賭けた飛び入り参加の試合で、匿名で参加したリー・ドカティをノックアウトしてしまうのです。それをマーキュリー新聞の有名コラムニスト・デューク・パークハーストが記事にしたことから、マチルダは一躍有名カンガルーとなることに。(「MATILDA」山田蘭訳)

副題は「ボクシング・カンガルーの冒険」。その副題通り、ボクシングをするカンガルーの物語です。元々カンガルーは自分の好きな雌を勝ち取るために、雄同士でボクシングのように殴り合いをして闘う習性があるとのこと。しかしマチルダはその習性を越えて、ボクシングを紳士のスポーツとして愛しています。
元々はビリー・ベイカーとマチルダが純粋に見世物としてやっていたボクシングが、口達者なビミーや有名なコラムニスト・パークハーストが絡んで思わぬ方向へと展開。そしてそのマチルダが倒したボクサーが、アンクル・ノノとして呼ばれるマフィアのドン・ジオ・ディ・アンジェレッティのお抱えボクサーだったことから、話はさらに大きく、ややこしくなります。マチルダは純粋にボクシングを楽しんでいるだけなのに、周囲の人間が自分たちの思惑のために右往左往しているのが何とも皮肉ですし、可笑しいですね。しかし、周囲の喧騒など知らぬが仏のマチルダ。愛情がたっぷり篭められたキス攻勢や、ハーシーのチョコレートバーを喜ぶ「アック、アック、アック」という声が、さらに可愛らしく感じられます。
人間の登場人物たちも、それぞれにユーモアたっぷりに描かれていて、とてもリアル。一見ファンタジー作品に見えながらも、実はとても現実味があるところが、この作品の良いところなのでしょうね。登場人物の中で特に気になったのは、ジオ・ディ・アンジェレッティ。ハーバート卒で、ユーモアたっぷりの人柄が周囲に愛されていたのに、寝耳に水状態でマフィアのドンに就任し、いつしか笑うこと、特に自分をネタにした笑いを忘れてしまった彼の姿に哀愁を感じてしまいました。
最後の幕引きにはあっと驚かされます。夢があり、同時にとても爽快な作品です。


「トマシーナ」創元推理文庫(2005年9月読了)★★★★★お気に入り

1年半前、友人・アンガス・ペディ牧師の誘いに乗って、グラスゴーから故郷のインヴァレノックという小さな町に戻ってきて、引退する獣医の後を引き継いだアンドリュー・マクデューイ。妻のアンは、入院していたオウムの病気に感染して4年ほど前に亡くなり、一緒に暮らしているのは7歳になるメアリ・ルーと猫のトマシーナ。しかしそんなある日、メアリ・ルーがヒューイ・スターリングと共に町の波止場に汽船を見に行った時のこと、汽笛の音に驚いたトマシーナは、メアリ・ルーの肩から落ちて怪我をしてしまうのです。翌朝、トマシーナの様子がおかしいことに気付いたメアリ・ルーは、トマシーナを連れて父親の診療所へ。しかし丁度タマス・モファット老人の盲導犬が車に轢かれて運び込まれたため、診察どころではなくなってしまうのです。手術中の父親に食い下がるメアリ・ルー。しかし動物に対して何の愛情も感傷も関心も抱いていない父親の答は、安楽死させるしかないという冷たいものでした。(「THOMASINA」山田蘭訳)

妻が亡くなって以来、1人娘のメアリ・ルーを溺愛するマクデューイ。家政婦にもメアリ・ルーを抱くことを許さず、メアリ・ルーがどこに行く時も連れて行くトマシーナをに嫉妬を感じてしまうほど。そんな2人は仲の良い父娘なのですが、トマシーナの死によって事態は一変してしまいます。
マクデューイが良かれと思ってしてきたことは、たとえそれが正論ではあったとしても、人間らしい感情の欠落しているもの。「自分の大切な家族(ペット)と少しでもいいから長く一緒にいたい」という飼い主の感情などお構いなしに安楽死を勧めるような医者。命を永らえさせることしか頭にない医者や、患者を実験体のようにしか考えない医者も考え物ですが、それでもそちらの方がまだ周囲の人間にしてみたらありがたいはず。自分では娘のことは愛していると思い込んでいますが、獣医でありながら動物に一片の愛情も感じられない彼に、本当に人間が愛せるものでしょうか。彼にとってのメアリ・ルーは、人形のような存在だったのではないかとすら思えてしまいます。家政婦のマッケンジー夫人にメアリ・ルーを抱くことを禁じている部分など、まさにそのもの。メアリ・ルーのためではなく、自分のためにメアリ・ルーを愛して独占するマクデューイ。結局は自分のことしか考えていないのですね。もちろん、本当は人間の医者になりたかったのに、父親のために獣医になるしかなかったこと、病気の動物のせいで妻のアンが亡くなってしまったことなど、マクデューイにも同情の余地はかなりあるのですが。
そしてメアリ・ルーは、実は自分のことなど全く見ていなかった父親の姿に気付いてしまったのでしょう。トマシーナの死後、ペディ牧師相手にメアリ・ルーがトマシーナのことや父親のことを話す場面がすごいです。生きる望みを失い、意識の中で父親を殺してしまうほど追い詰められたメアリ・ルーは、痛々しくて見ていられないほど。しかしそれほど娘を追い詰めておきながらも、マクデューイはトマシーナのことなど何とも思っておらず、なぜ娘がそのような頑なな態度をとるのか不思議に思う程度。トマシーナのことを思い出しても、娘もそのうち忘れるだろうと楽観的なのです。
この作品は、ファンタジー的な要素はあるものの、現実にいつでも起こり得る物語。マクデューイもメアリ・ルーもトマシーナも、<アードラス峡谷の赤毛の魔女><変人ローリ>などと呼ばれるローリの無償の愛情によって救われることになるのですが、現実には手遅れになってしまうことも多いはず。親が知らず知らずのうちに子供を傷つけてしまうというのは、良くあることだと思いますが、手遅れになってから気付いても、この物語のローリのような存在がいるとは限らないのです。もちろんローリだけでなく、マクデューイの親友・ペディ牧師やストロージ老医師の存在も忘れられません。しかしそんな風に、いつ誰の身に起きてもおかしくないような厳しく深い現実を含んだ物語を、子供にも十分楽しめるような可愛らしいファンタジー作品にしてしまうギャリコは凄いですね。
猫のトマシーナの語りもとても可愛らしくて楽しかったですし、古代エジプトに君臨していた猫の女神バスト・ラーの語りも面白かったです。トマシーナは、「ジェニィ」に登場するジェニィ・ボールドウィンの親戚。毛皮の色以外は大叔母であるジェニィに生き写しとのこと。物語同士に直接の繋がりはないようです。

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