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このページは、酒見賢一さんの本の感想のページです。

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「陋巷に在り6-劇の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

ようや、の背後に子蓉がいることに気付いた五六。しかし本人も気付かないうちに、すっかり、の媚蠱術に取り込まれてしまっていたのです。そしてとうとう顔回が動きます。しかし、を苛んだ媚蠱があまりに深すぎたため、ようやく救い出された、は瀕死の状態。このままでは助けられないと悟った顔回は、、を尼丘へと連れて行くことに。そして費では、悪悦による卑劣な手口によって踊らされた公山不狃が、篭城するはずだった費城を捨てて撃って出ます。

費と魯の戦闘。一度は悪悦を疑い、その話術を破っていながら、老父母の死体を見た瞬間鬼神が憑いたような戦いぶりを見せ、そして孔子によって憑き物が落ちる公山不狃の変化が見所。ラストに至って、孔子がようやくいいところを見せます。しかしそれでも、孔子自身が政治や自分の野心にばかりかまけずに、もっと周囲をきちんと見ていれば、と思ってしまいます。権謀を好まないといいつつ、実際には権謀術数を図り巡らしてしまっている孔子。それが孔子の孔子たる所以かもしれませんが、公山不狃があまりにも哀れです。


「陋巷に在り7-医の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★★お気に入り

司寇であるばかりでなく、定公や季桓子の相談役となり、ますます忙しい孔子の元を子蓉が訪れます。子蓉の媚蠱術にはかからないものの、少正卯一派の実力を侮っていたことを痛感する孔子。そして長老や冉伯牛、、の治療のために、顔氏の里・尼丘を南方の医者・医げい(鳥+兒)が訪れます。

この巻は、医げいによる治療が中心。そしてこの医げいがまた非常に強い個性の持ち主。医者とは言っても諸国を巡り歩いている医げいは、巫医であると共に商人芸人。けれんとも言える見芸や、尼丘の人々との駆け引きが面白いですし、この巻のほとんどを占めているいる、の治療場面がそのまま子蓉との緊迫した呪術対決になっており、これがまた息をもつかせぬ展開となっています。この対決は、この「陋巷に在り」という作品13巻を通しても屈指の見所なのではないでしょうか。そして純粋に治療の面からみても、現代的な医療とは全く違うのがとても面白いですね。人の呪いによる病が当たり前に存在していたこの時代だからこその治療。超自然的な世界に見えながらも、相当のリアリティがあるのはさすがです。身体の病と心の病の付加分離というのも説得力がありますね。
そしてそれらの治療を通して語られる薀蓄部分もとても面白かったです。特に面白かったのは、依り憑く鬼神精霊の素性によって巫女は神々しくも卑猥にもなり、その憑依させる神の品格や霊力によって巫女のランクが決まるという部分。現代の巫女にも十分通じそうですね。


「語り手の事情」文春文庫(2005年7月読了)★★★★

性倫理に厳格で、いかがわしさを連想させるものは机の脚ですら布で包み隠されたというヴィクトリア王朝の英国。そこには、性に対する様々な妄想を抱いた紳士が招かれる屋敷がありました。その屋敷に住むのは、屋敷の主人と3人のメイド、そして「語り手」。「語り手」は、彼らの妄想を導くように予め主人に言い含められており、紳士たちは「語り手」の前で自らの妄想を開放します。そして奇態な性の饗宴が繰り広げられていくことになるのです。

15歳の少年・アーサーの童貞喪失、中年のハノーヴァー氏の性倒錯、性奴隷を求めるジョージ・メンケンやSMなど、様々な性的妄想が描かれていきます。一見突飛な妄想が、冷静な「語り手」の視点からごく真面目に語られているところが、何とも言えず可笑しいですね。作中では相当エロティックな場面が描かれているのですが、冷静で理性的な語りをする「語り手」のこと、そこには隠微さはまるでなく、むしろ上品な軽快さがあるような気さえしてきてしまいます。しかも「語り手」はこの世界の歴史を過去から未来まで俯瞰しているおり、その知識を持った上で男性たちの妄想を導いていくのです。そんな彼らの微妙に噛み合わない会話や、史実的にはあり得ない展開なども楽しいところです。
時によってメイドの格好をしていたり、女主人のように見えたり、執事であったり、と性別不明な「語り手」。しかも「語り手」には確固たる「語り手の事情」があるようなのですが、それは最後まで明らかにされません。そんな正体不明な「語り手」なのですが、終盤では1つの選択を迫られ、変貌することになります。それまであくまでも冷静だった「語り手」だけに、この変貌ぶりがとても可愛らしく感じられますね。そして作者によると、これは「メタ・フィクション」などではなく、「恋愛小説」だとのこと。読み終えてみると、それにも納得。この作品が「文學界」に掲載されたというのには、さすがに驚きましたが…。


「陋巷に在り8-冥の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★★お気に入り

2夜にわたる治療ではあまり成果を挙げられなかった医げい。月は完全に満ち、医げいはここで一気に勝負をつけるべく、南方の巫医の神・祝融の力を借りての最後の戦いに臨みます。、に薬草漬けの酒を含ませて一時的に意識を殺し、同じくその酒を飲んで意識を殺した顔回は九泉へ。本来なら医げいが自分で行くべきところ、月蠱の始末だけは何としてでも医げい自身が外にいて行わなければならないのです。顔回は、気付くと洞窟のような場所に立っていました。そこは九泉の手前の場所。そして祝融の力を借りながら、その世界の奥にある九泉へと進むことに。

前巻にも増して息をつかせぬ展開。酒見さん自身に戻っての解説部分で、ようやく一息つけるほどです。 、の身体から分かれた病の本体との闘いにも十二分の迫力がありましたが、やはりクライマックスは顔回と子蓉、孔子、そして自分自身との闘いでしょうね。ここでは、今までの飄々として何事にも動じない顔回ではなく、あくまでも1人のか弱い人間であり、しかしそれでも誠実であろうとする顔回を見ることができます。神話などに時々、生身の人間が冥界に行くエピソードを読むことができますが、それらのエピソードと比べても遜色ないどころか、相当の迫力がありますね。圧倒的な存在としての神と人間の差も思い知らされます。
この巻の顔回、特に子蓉や、と直接対する前の顔回の20歩の間の様々な記憶を通して、ようやく孔子の孔子たる所以が見えてきたような気がします。そしてその後で顔回と対決する孔子の問答は、この後重要なポイントとなってくるのでしょうね。


「陋巷に在り9-眩の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★★

ようやく、と子蓉の元に辿り着いた顔回。子蓉が力を借りていた女魃を祝融が引き受け、顔回は子蓉を説得するのみとなります。しかし、あくまでも3人で脱出することを主張する顔回に対し、子蓉は九泉の理によって陰陽2人しか出ることができないのだと説明。それでも顔回は、生身の人間の生命力を吸い上げていく九泉という場所を一刻も早く抜け出すために、2人の手を取って歩き出します。一方、魯では、三都毀壊計画の最後に残された成城の取り壊しが行われようとしていました。しかし成城の宰である處父は、孔子の思惑に乗るまいと意気込んでいるのです。

九泉の影響を受けることを避けられない子蓉と顔回ですが、積極的で自信たっぷりな顔回が見れるのが楽しいです。九泉を出るために選んだ策は何とも奇想天外なもの。想像するとなかなかエロティックですね。この辺りは少々作りすぎのような気がしないでもないのですが、しかし九泉の描写はとても面白かったですし、祝融などの存在も真に迫っていて良かったです。子蓉の何ともいえない哀しさも感じられました。さてこの体験を経て顔回がどのような成長ぶりを見せるのか、これからの展開も楽しみです。


「陋巷に在り10-命の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

いまだ尼丘にいる、は、まだまだ体力が戻らないながらも、順調に快復していました。そして1人で外に出た時に尼丘の子供たちに悪戯をしかけられ、それきっかけに太長老の家へと招かれることに。太長老は、今まで数十年にわたり顔氏のタブーとされ、顔回や五六ですらほとんど聞いたことのない、太長老の娘であり、孔子の母である徴在の話を語り始めます。そして医げいはようやく魯に向かい、蠱に取り込まれた冉伯牛の治療に取り掛かることに。

今まで太長老や顔穆などの回想で登場するのみで、謎に包まれていた徴在、そして孔子の出生の物語がようやく語られることになります。この徴在がとても生き生きとしていて魅力的。彼女は本来季女(末娘)であり、季女は結婚せずに親の面倒を見るのがしきたり。徴在も本来なら、孔子を産むはずではなかったのですね。しかし礼を尊ぶ尼山の神その人によって結婚を予言され、そして産んだのが孔子という顔儒に新しい風を吹き込む人間。何とも言えませんね。物語としては大きな進展はないのですが、医げいによる蠱術の治療もなかなか面白いですし、この巻での孔子の行動は、今後大きく影響しそうです。


「周公旦」文藝春秋(2003年5月読了)★★★

周王朝の事実上初代の王となった武王の弟、周公旦。礼を知り、文字に明るく、しかも神官であった彼は、父・文王には及ばないものの強烈なカリスマである武王の右腕として、主に内政、特に殷を倒した後の諸侯の封地問題などに手腕を発揮します。しかし兄・武王は、太公望と共に殷を滅して周建国を果たして間もなく没し、その後を継いで、まだ幼い息子・成王が即位。周公旦は成王の後見人となり、摂政として、まだまだ安定していない周の政務のほとんどを引き受けることに。しかし周を安泰に導くその手腕は、周公旦の他の兄弟たちやを始めとする周囲の人間の反感を招くことになります。そして佞臣たちが幼い成王に讒言を吹き込むのです。

第19回新田次郎文学賞受賞作。孔子が「礼」の理想として深く慕った周公旦の物語です。
物語冒頭に、周公旦が成王に疎まれた時、なぜ亡命先に南蛮の地である楚を選んだのか、という疑問が提示され、それを解き明かす方向に物語は進んでいきます。あまりに淡々と進むので、「後宮小説」や「墨攻」との雰囲気の違いに始めは少々戸惑いました。やや散漫で、盛り上がりにも少々欠けるようですし、屈原の「天問」などを文中に多く引用しているのも、中国物に慣れていない読者には読みやすいとは言えないはず。しかしこの書き方が古い時代の雰囲気を良く出していて、政治家でありシャーマンでもある周公旦のイメージに良く合っているようにも思います。
この中ではやはり、周公旦が実際に「礼」を催し、祈祷を行う場面が非常に興味深いですね。「言葉」がその奥底に持つ力を良く理解していた周公旦だからこそ、このようなことが出来たのでしょうか。超自然的な存在に呼びかけ、その答を得る周公旦の姿を見ていると、古代中国という、未だに神話が色濃く残っている世界を強く感じます。それらの超自然的なものがこの世界にあまりに普通に存在し、生きていることに対して、全く違和感を覚えないというのが不思議なほどです。そして太公望の描かれ方がいいですね。この物語に登場時、既に80歳を越えていながらも、冷徹な視野と策略の妙により、恐ろしいほどの存在感を放っています。決して日がな一日釣をしている老人ではありません。天下と権力を望み、隙あらば周公旦を陥れるような行動をとることもある太公望。周公旦にとっては、あまりに恐ろしい存在。たとえ一度味方につけたからといって、その後ずっと味方についていてくれるような人間でもないのです。太公望の魅力によって、存在感としては負けている感のある周公旦の姿も、際立ってくるようです。


「陋巷に在り11-顔の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

三都毀壊策の最終段階となる成城討伐は、成の城宰・公斂處父の抵抗にあって膠着状態。孔子は成城包囲政策を取っていました。その背後にいたのは、狂巫に身をやつした悪悦。悪悦は公斂処父を説得して尼丘襲撃に2千もの兵を向わせます。その頃尼丘では太長老による徴在の物語が終わり、、は尼山の祠に参詣することに。しかしそこに、、を快く思わない顔氏の術者たちが現れるのです。そしてその頃、子蓉も1人尼丘に向かっていました。そして医げいと共に成へと向かおうとしていた顔回もまた、すぐに尼丘に行かねばならないと感じ…。

前巻に引き続きの徴在の物語が終わり、太長老が徴在のことを長く語った理由もこの巻で明らかになります。この巻では、これまでも太長老の言葉などに登場していた八長老が登場。やはりこういった閉鎖的な集団、しかも選民意識のある集団では、このように形骸に囚われ、自滅していくというのは致し方ないことなのでしょうね。確かに、たとえ八長老が理解できないとしても、太長老にきちんと言葉を尽くして説明する努力をするべきであったと思いますし、真っ先に彼女を迎えなければならなかったのも太長老だと思います。それでも、太長老が最後まで自分の行動を悔やんでいるのが痛々しくはあるのですが、この人物の飄々とした味わいにかなり救われているのかもしれませんね。そしてこの巻で圧巻なのは、1人で顔儒に立ち向かう子蓉。子蓉が救われるのは素直に良かったと思いますし、祈っている姿は美しいと思うのですが… いつの間にここまで強くなったのでしょう。これでは人間とは思えません。そしてこの作品が書かれた時にどうだったのかは分からないのですが、現在では「癒し」という言葉はあまりに使われすぎて重みが足りなくなっているように思います。尼山が父性というのも少々がっかり。徴在との関連ももう少し強くあって欲しかったところです。


「陋巷に在り12-聖の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

太長老を中心ととした長老たちの禁術に阻まれ、尼丘を攻める成兵たちもさすがに祠に近づくことはできない状態。しかし悪悦だけは単身、自分を護るための禁術によって、じわりじわりと祠に近づいていたのです。そして悪悦が祠に辿りついた時、そこにいたのは子蓉でした。一方、成城の宰である公斂處父は、尼丘に派遣した二千の兵が戻ってくるのを待ちながら時間稼ぎをしていました。そんな時、孔子は自分の故郷尼丘が成兵によって蹂躙されたことを知り、心労から病に倒れることに。そして成城の守りが手薄だということを知った孔子は景伯に全てを打ち明け、魯兵は一斉攻撃にかかります。

顔氏の長老たちも最早いなくなり、そして顔回によって尼丘の祠が壊されるというのはとても意味深長。これが太長老が予感していた変化なのですね。死と再生を経て顔氏が生まれ変わることになるのでしょう。そしてその時に重要な役回りになるであろう人物が孔子と顔回。この巻では、この2人が久々に再会することになります。急ぎすぎた三都毀壊が孔子に与えた衝撃は大きく、しかしこの計画の完遂が成らなかったこと、そして尼丘が破壊されたことが、孔子にも魯の国の政治にも非常に大きい影響を与えることになります。しかしこのような事態を経て、どのように再生へと向かっていくのか興味が湧きますね。そして尼丘が悪悦をも受け入れたということにまた人間とは違う神々という存在らしさを感じます。今後の彡一がどのような役回りになるのかも楽しみです。


「陋巷に在り13-魯の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

三都毀壊策は、公斂處父の自決によってうやむやのうちに終わることになり、成城はそのまま残されることに。孔子に対して疑惑をぬぐいきれない三桓家は、孔子の実権を奪うために大司冠に祭り上げます。そして病床の孔子に対して、ようやく病の癒えた少生卯は裏で立ち回り、悪悦による顔氏尼丘崩壊が孔子の思惑によって為されたことという風評を流そうとするのです。しかし少生卯は斉から帰ってきたところを孔子と顔回によって捕らえられることに。そして斉の宰相・黎しょ(金+且)は、少生卯の「媚を使う」という言葉を思い出し、総勢80人にもなる媚女による女楽を、斉国王から魯への贈り物として送り込みます。

「陋巷に在り」最終巻。この巻にももちろん女楽との対決という盛り上がりはありましたが、意外とあっさりと終わってしまいました。それでも酒見さんがあとがきに書いてらっしゃるように、「小説は必ず最後まで書かれなければならない」ということはありませんし、「途中経過がおもしろければそれはそれでよい」というのは同感。そしてこの作品の途中経過は最高に面白かったです。
全13冊という長大な物語ですが、結局孔子が司寇職にいた3年間の物語だったのですね。この作品を読む前は、儒教といえば、ひたすら祖先や年長者を敬い道徳を重んじるというイメージであり、孔子といえば、庶民の手の届かない聖人というイメージがありましたが、この作品は見事に覆してくれました。まず孔子を始めとする登場人物たちそれぞれに人間くさくい存在感があります。絶対の「礼」の存在であるはずの孔子ですら、時には心の中に忍び込む媚術に負けそうになることもあるのです。そして今まで思っていたのとはまるで違っていた「儒」の存在。この時代にとって、「儒」とは何だったのか。そして「礼」とは何だったのか。史実を元にここまで壮大なファンタジーを作り得たのは、もちろん酒見さんの実力が一番大きいと思いますが、呪術が当たり前に存在し、政治も祈りも呪いも全て同じところに基本を持つこの時代自体が、既にファンタジーであるような気もしますね。そして文献資料の解説的部分もひっくるめてとても面白かったというのが凄いです。

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