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このページは、酒見賢一さんの本の感想のページです。

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「後宮小説」新潮文庫(2003年5月読了)★★★★★お気に入り

素乾国、槐暦元年2月。崩御した先帝の後を継ぎ、弱冠17歳で素乾国の帝王となった槐宗のために後宮の宮女募集が行われ、宦官による宮女狩りが全国を訪れます。後宮に入ればいい服が着れて、しかも三食昼寝付きだと聞いた13歳の童女・銀河も早速応募、見事宮女候補として選ばれることに。都に上がった銀河は、他の宮女候補たちと共に女大学で半年間、後宮で必要とされる様々なことを学ぶことになります。銀河と同室となったのは、同じく田舎出身で、寡黙で無表情、しかし一旦口を開けば賢い江葉、貴族階級の出身であることを鼻にかけているセシャーミン(世沙明)、そしてセシャーミン以上の身分を持つらしい謎の美女・タミューン(玉遥樹)。しかしその頃、前帝王妃が継子である新帝王の命を狙っており、しかも国内で反乱軍が蜂起しようとしていたのです。

第1回ファンタジーノベル大賞受賞のデビュー作。
「腹上死であった、と記載されている」という書き出しには驚かされましたが、これがなかなかの人を食った面白い作品でした。その名の通り、帝王の持つ後宮にまつわる物語。明らかに中国が舞台となっているのですが、全くの架空の王朝を舞台にした、全くの架空の物語。しかしまるで史実にあった出来事であるかのように、「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」などの架空の史書や文献が登場し、後世の史家の言葉が引用され、筆者の意見などもところどころ挿入されることによって、本当にあってもおかしくないと思わされてしまうほどの、まことしやかなリアリティを生んでいます。そして、そんな緻密な舞台設定に登場するのは、非常に個性的な人物たち。無邪気で好奇心が強く、人懐こくて物怖じしない銀河を始めとして、江葉、セシャーミン、タミューンという3人のルームメイトたちもそれぞれに個性的で、そのやりとりが面白いですし、その他にも謎の美女・双槐樹や角先生などの魅力的な人物が登場します。
後宮に入るための女大学での実践的な講義も、なかなか面白かったです。ここで学ぶことは、後宮に入るに当たっての心得や礼儀、そして肝心要となる房中術。本来女性同士の寵愛争いや、その背後に控える宦官たちの権力争いの場というイメージのある「後宮」なのですが、角先生によって房中術は1つの哲学として完成されており、まるで淫靡な感じがしないですね。健康的で建設的なものさえ感じます。やはりあっけらかんとした銀河の魅力が大きいのでしょうか。それに後宮で使うという淫雅語も可笑しいのですが、露骨な性的行為の表現までがどこか人を食った物になっており、作者のユーモア感覚には脱帽です。
しかし、「雲のように風のように」という題名でアニメ化もされているそうなのですが、ここまで性的な匂いがぷんぷんとする物語を一体どうやってアニメにしたのやら… 全く想像もつきません。(笑)(→その後、見ました。本に比べると掘り下げ方に少し物足りない部分もありましたが、清々しくて、なかなかいいアニメだと思います)


「ピュタゴラスの旅」講談社文庫(2005年7月読了)★★★

【そしてすべて目に見えないもの】…ある部屋の中で起こった殺人事件に関する物語。
【ピュタゴラスの旅】…ピュタゴラスの旅にいつも同行していたのは、美しく英才なテュウモス少年。テュウモスはピュタゴラスの数理を敬愛していましたが、宗教に関しては反感を持っていました。
【籤引き】…未開のイチクナ村に領事として赴任してきた英国人・メイクハム・リチャードソンは、村で鶏泥棒の騒ぎがあった時の、村人たちの対処方法を初めて見た時に非常に驚きます。
【虐待者たち】…しばらく行方が分からなくなっていた飼い猫のミヤが、酷い虐待を受けて逃げ戻って来たのを見て驚く一家。「私」は会社を3ヶ月休んでミヤの復讐をする決意を固めます。
【エピクテトス】…奴隷として生まれながら、生まれながらに哲学者の素養を持っていたエピクテトスは、エパプロディトスに売られ虐待されながらも、哲学者として大成することに。

デビュー作の「後宮小説」に続く短編集。こちらにはまるで中国物の気配はなく、現代日本のミステリの形式を借りて小説という虚構を皮肉っている「そしてすべて目に見えないもの」であったり、「ピュタゴラスの旅」や「エピクテトス」のように古代ギリシャ哲学者や数学者の物語であったり、「虐待者たち」は徐々に現実と幻想の境目がなくなっていくファンタジーホラーであったりと作風は様々。中国テイストの作品でデビューしながらも、そこに留まらない酒見さんの幅の広さを感じさせます。解説によると、酒見さんご自身が「すばる」のインタビューに、「中国小説の作家だと勘違いされてるようだったので、いかんなあと思ってああいうのを書いたんですけどね。あれを読んで得体の知れない作家だなと思われたらうれしいですね。何でもありという作家になりたいんですよ」と答えてらしたそうです。まさにその通りの作家さんとなっていますね。
私がこの中で気に入ったのは「籤引き」。普段はごく平和な村が舞台なのですが、ここでは鶏泥棒や殺人が起きた時、真犯人を探し出して裁判にかけるのではなく、籤引きで当たった人間こそが真犯人、という考えをしています。これはセタカという神とピエという精霊、そして村人たちの祖霊が約束して取り決めた大事な儀式。真犯人が分かっていても、籤引きという儀式は必ず行われ、籤に当たった人間が罰せられます。そんな村の描写がとても面白いのです。一見非常識に見える籤引きも、読んでいるうちに徐々にそれが正しいやり方のように思えてきてしまうのが不思議。そしてメイクハムはあくまでも英国人らしいのですね。サマセット・モームなどの作品で読んだ植民地の英国人の姿そのままです。


「墨攻」新潮文庫(2003年5月読了)★★★★★お気に入り

戦国時代の中国に存在した戦闘集団・墨子教団は、非攻の哲学によって、侵略されようとしている国や城を守り抜くことが目的の軍事技術者の集団。その俊英の1人・革離が梁の国に向かいます。梁を侵攻しようとしているのは、大国・趙。趙の軍勢の2万に対し、梁の軍勢は1500。民の数を全部合わせても、4500ほど。しかも城の守りは杜撰で、城主・梁渓は色欲に耽っている有様。そんな城にやってきた革離は、まず城内の全てをつぶさに検分し、邑の全ての老若男女を、全て戦闘のために組み分け。食料保存や武器製作、城壁補強、塹壕や井戸の掘削などを進めます。来年早々には魏が邯鄲を囲むと予想されており、梁はそれまでの半年間を守り抜けばいいはずなのですが…

中島敦記念賞受賞作。墨子教団の俊英・革離が、小国・梁の城を守り抜こうとする物語です。
墨子自身は紀元前5世紀頃に活躍されていたとされる思想家。己を愛するように他人をも愛する「兼愛」を説きながらも、墨子自身が優秀な技術者であったことから、墨子とその弟子は幾多の兵器を考案・改良し、戦国時代でも最高レベルの戦闘集団となったとされています。彼らの理念は「非攻」。政治的な理念などは持たず、大国に組せず、ただ攻め込まれる国や城を無条件に守るのみ。そして初代「巨子」である墨子の死後も、後継者たちは墨子の教えを墨守して戦国の世に臨むことに。
物語としては、趙の攻めに備えて、革離が梁の守りを固めていくというだけのものなのですが、これがとても面白いのです。城を守るために率先して働く革離の姿がまさに筋金入りの戦争職人で、見ていて気持ちが良いのが一番。次々と城の防御に工夫を凝らしていく過程も面白いです。しかもこの革離の人間くささもいいのです。墨者自身は坊主頭に粗末な身なりをし、最低の待遇を貴ぶという人々ですが、墨者である自分自身に誇りを持ち、相手が城主や城主の息子だからと言って手加減しません。民衆と同列に扱っていますし、そんな面々と趙の大軍と戦う場面なども非常に痛快。最後の最後まで自ら学んでにやりとする革離は、本当にいい味を出しています。(しかし改めて墨者の教団として考えてみると、新興宗教を目の当たりにしたような、少々薄気味悪いものも感じたりするのですが…)
「墨守」という言葉を転じた「墨攻」というタイトルがいいですね。鉄壁の防御は、相手にとっては最大の攻撃でもあり得るのですから。南伸坊氏の挿絵も、ほのぼのとした味わいがあって和みます。


「聖母の部隊」ハルキ文庫(2005年7月読了)★★★★

【地下街】…地下街が悪の巣窟と化しつつあるという情報に、「私」と相棒のペーター・ハウゼンは調査に向かいます。ペーターは西ドイツ国籍で半年前に日本に来た歩く殺しの機械でした。
【ハルマゲドン・サマー】…夏の終わりに海にドライブに出かけた「わたし」と「あなた」。
【聖母の部隊】…急に現れた怪物に両親を殺され、森に逃げ込んだケイは、気がついたら隣の家に住んでいた遊び友達のコフたちと一緒に広い部屋にいました。そこには白い肌の女性が。
【追跡した猫と家族の写真】…アイビーリーグと呼ばれる大学の研究室で、超常現象について研究していたカイル・ウィザースは、ある時飼い主を追って4000kmを旅した猫の話を聞きます。

「後宮小説」「墨攻」と中国物で有名になった酒見賢一さんのSF作品。この1冊に4編が収められており、表題作「聖母の部隊」が中編、他3編が短編。全てSFです。
「地下街」は、室長に指示を出された2人が地下街の探索に乗り出すところは、ハードボイルドかサスペンスかと思ったのですが、悪役の名前が「悪魔王チチブノミヤ・ハイネッケル・プラウダ」であり、その悪魔をやっつけるには「メルロポンチの玉」が必要で、それを教えてくれたのが地下街に隠されたトンネルの中にいた「ベッサラビア王国の王女・ソーニャ」。これはむしろRPGゲームだったのですね。そう思って読むと途端に漫画で描かれた場面が浮かんでくるようで可笑しいです。「ハルマゲドン・サマー」は、どこか新井素子さんの「ひとめあなたに…」を思い起こさせるような作品。「聖母の部隊」は、現地人の子供を集めて自分を「お母さん」と呼ばせ、戦闘技術を教え込む物語。ジャングルが舞台であることや、語り手のケイの口調が少年から青年へと成長する辺りで、津原泰水さんの「アルバトロス」(「綺譚集」)を思い出しましたが、しかしSF。設定が大きいです。「追跡した猫と家族の写真」は、どこかで聞いたような話ということもあり、アメリカの古き良き時代の懐かしいSF作品といった風情。
この4編の中で特に気に入ったのは「追跡した猫と家族の写真」。どこかで読んだような話ではありましたが、しかし読後感がほのぼのとして好きです。デフォルメされた登場人物が楽しい「地下街」もいいですね。


「陋巷に在り1-儒の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

孔子が52歳にしてようやく魯国の官吏となり、その後定公に抜擢されて司空になった頃。孔子の弟子・顔回は、孔子一門の白眉でありながら仕官もせず、父の顔路と共に陋巷に住み、貧しい暮らしをしながらただ孔子の教えを習い復していました。そんなある日市場で高価な瓊を盗み、商人に捕まったところを顔回に助けられた、は、それ以来顔回にまとわりつき、毎日のように顔回の家に押しかけるように。

中国の春秋時代は、魯の定公の時代。紀元前500年頃。
顔回、字は子淵。孔子の3千人の弟子の中でも唯一孔子が好学と称えた顔回は、「一を聞いて十を知る」ような聡明さを持ち、一番弟子として愛され、他の弟子たちにも一目置かれた人物。しかし貨殖の才も武芸の才も弁舌の才もない顔回は、他の弟子のように大夫の家や国家に仕官したことも、特に何かを為したということもなく、ただ無為の人。「論語」にも「史記」の仲尼弟子列伝にも具体的なことが書かれていないこの顔回を主人公におき、彼の師である孔子をも描いた大作です。
この顔回という人物に関しては、私はこの作品を読むまで全く何も知らなかったのですが、しかしなかなか魅力的な人物ですね。彼の父・顔路も孔子の弟子。庶民にも見下される「師さん」「儒」とも呼ばれる、死者の供養を取り仕切る仕事で細々と暮らしている状態。顔回も、日本で言うなら長屋住まいのような陋巷に暮らしながら、ほとんど働きもせず、ひたすら学ぶ毎日。その辺りから、学にしか興味のない、世間知らずの青年を思い浮かべていたのですが、実は顔回は巫儒の一族の人間で、その中でも珍しい生得の異能の持ち主だったのです。葬式の場面などを通して語られる、古代からこの時代に至る「礼」に関しても、とても興味深くて面白かったのですが、この巻での見所は、やはり晏嬰こと晏子ににらまれた孔子が、夾谷の会での斉と魯の会見で、顔回の力を借りながら「四方の楽」や優倡侏儒の舞の結界を打ち破る場面でしょう。呪術者同士の暗闘が何とも面白いですね。夏や殷の時代ほどではないにせよ、古代中国での戦争は、まだまだ凄まじい呪術戦争のようです。論語の「子曰く…」に見られる儒教者・孔子の姿とは、またまるで違った姿や世界が楽しめそうです。
それにしても、この時代の「儒」にしろ、「仁」にしろ、後世とは捉え方や概念がまるで違うのですね。特に「儒」に関しては、まるで土着の原始宗教がやや発展しただけのようです。

P.196「命・鳴は名である、という。」


「陋巷に在り2-呪の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

孔子が斉から魯に帰国して間もない頃、季孫家筆頭家老だった陽虎が、季孫家・孟孫家・叔孫家という三桓家打倒のための陰謀計画を着々と進行させ、とうとう魯を専制下におくことに成功します。なんと唯一天子だけの祭祀であるはずの祭までとり行おうとするのです。しかし陽虎がその祭をとり行ったまさにその日、尼丘山でも顔氏の太長老が礼を行っていました。陽虎を呪禁し放逐するための礼によって、陽虎の呪禁は解除され、流れが変わることに。

前半は陽虎の話。この陽虎の話自体はそれほどでもなかったのですが、そこに顔回が絡んでくるとがやはり面白いですし、伝説の鬼神・饕餮の登場も含めて、やはり呪術合戦がいいですね。物語から作者である酒見さんの立場に戻っての歴史的な説明も興味深いです。色々な説がある場合、それのどれか1つに決めてしまうのではなく、こういう説もあるがこういう説もある、さてどうなのだろう、という書き方がされているのが好印象。ただ、1巻の途中で「思うところがあって」という断りが入り、突然過去の話へと飛ぶのですが、それで過去の話が250ページほど続いてしまうというのは、どうなのでしょう。過去の出来事を挿入するということ自体は全然構わないですし、これはこれで面白いのですが、これほどの長さになってくると、いつまで続くのかと読んでいて少し落ち着かなくなってしまいます。
後半は悪悦と悪子蓉が登場。これからこの2人がどのような役割を果たすのか楽しみです。そして八人八列の踊り手たちが舞う舞楽に対する顔回の対応は、ごく単純な考え方でありながらも、確かな効力があるもの。当たり前なのでしょうけれど、妙に納得してしまいました。

P.102「人間が近づくことが許されない禁忌のものは、自己が禁忌であることを示すべく偉怪な姿を表したり、異状の気を周囲に漂わせているものだ。それは人に対する一種の親切なのではないだろうか。」


「陋巷に在り3-媚の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★★

まんまと少正卯の罠にはまり、東里に溢れている巫祝たちの一掃と少正卯邸探索に失敗した孔子は、自ら蟄居することに。そんな孔子の元へ、顔路が端木賜子貢を連れて行きます。しかし子貢は一目で孔子に傾倒し、弟子になることを決めるものの、既に子蓉の媚術に捕えられかけていたのです。冉伯牛にも止められたにも関わらず、またしても少正邸へと向かった子貢は、子蓉に完全に惑わされ、囚われてしまうことに。そして冉伯牛が疫鬼に取り付かれて病に倒れます。

2巻に引き続き、小正卯と悪悦・子蓉という兄妹が中心。その中でも注目すべきなのはやはり子蓉でしょう。彼女と顔回との戦いがクライマックスであり、物語もこれまでにない盛り上がりを見せます。今回は守り髪のおかげで顔回の辛勝といった感じですが、本質的な強さは子蓉の方が上なのでしょうね。作中で性魔術とも書かれていましたが、そもそも人間の根源的な欲望を刺激するこの媚術というのは、男性には圧倒的に不利なものなのではないかと思いますし、そう考えると子蓉の圧倒的な強さも理解できます。そういった媚術が存在し、子蓉の気性の激しさを育んだ南方の礼にも興味が湧いてしまいますね。そして孔子の母の徴在のエピソードがちらりと登場。彼女に関しても、もっと色々と知りたいところです。
しかし肝心の孔子は司寇としての政務多忙にかまけて、心の目が曇っているようです。肝心のところに目が届いていないのが歯がゆいところ。この作品での孔子は決して聖人ではないのですね。むしろ人間としての弱さが強調されているようです。


「陋巷に在り4-徒の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★

顔回に守り髪の呪を行った巫女を探して顔氏一族を次々と襲っていた子蓉は、とうとう顔回の家へと入り込みます。そこで、に出会った子蓉は、彼女こそが髪を授けた少女だということを知り、、に鏡を渡すことに。高価な贈り物に喜ぶ、。しかしその鏡には蠱術がかけられていたのです。その時以来、、は鏡を覗くたびに妙な艶かしさを発揮するようになり…。そしてある日、、は市場の裏手の雑人溜まりで見知らぬ男に誘いをかけているところを、五六に助けられることになります。

前半は子蓉と、、後半は孔子を取り込もうとする少正卯がメイン。やはりこの物語は顔回が主人公ですね。孔子にはあまり魅力が感じられませんし、顔回や、が登場する場面の方が数段面白いです。顔回はほとんど登場しないこの巻では、、がどうなるのかが、最大の興味なのですが、それも次巻への持ち越しとなりました。しかし顔回ともあろう者が、、の変調に気付かないものでしょうか? 父親の顔路も何も気づかないままとは。この巻のラストには小正卯と10数匹の犬狗たちとの格闘場面もあり、太長老の行動には驚かされるのですが、どこか中休みといった印象の1冊でした。


「童貞」講談社文庫(2004年3月読了)★★

数年に一度必ず濫れ、邑の畑や家を流し去ってしまう黄色い大河のために殺されたシャのシィのグン。女が取り仕切るシャの邑で、河の氾濫を抑える生贄とするために、美しく賢く逞しいシャのシィのグンが選ばれ、それに対してシャのシィのグンは、数年かけて河の神を鎮めてみせると豪語。6年の猶予が与えられていたのです。しかし6年たっても氾濫は治まらず、とうとう老牛と共に殺されてしまうことに。この処刑の一部始終を見ていたシャのシィのユウは、グンの跡を継ぐ決心を固めます。

本文最後の「作者蛇足」に「シャ」は「夏」、シィは「女+似」、ユウは「禹」、グンは「鯀」、テュシャンは「塗山」という字を当てはめています。治水に成功して「夏」の始祖となった禹の神話に基づく物語なのですね。女系社会から男系社会への変換は、まるで宗教が支配する社会から科学が支配する社会への変換のようです。男性としてのユウの気持ちは分かるのですが、そこまでしなくてもというのが正直な気持ち。それでも1つの社会を打破するためには、そこまでしなくてはならなかったのでしょうね。おそらくユウ自身の気持ちの殻を打ち破るためにも。終始淡々と描かれており、その雰囲気がまた古代の独特な雰囲気を醸しだしているようです。


「陋巷に在り5-妨の巻」新潮文庫(2005年1月読了)★★★★★

、の神出鬼没ぶりはますます激しくなり、修練を積んでいる五六をもってしても、、をとめることは困難となっていました。五六がふと目を離した隙に、、は外に出ているのです。徐々に疲労困憊し、このままでは自分は持たないと悟る五六は、公治長に相談。鳥の力を借りることに。そして公治長は、孔子の使者として費城へ。平和的解決を望み、孔子と合意していたはずの公山不狃が、今になって孔子への不信をあらわに、費城の明け渡しを拒んできたのです。戸惑う孔子。しかし公山不狃の裏には、少正卯が寝込んでいる隙にと暗躍し始めた悪悦の存在があったのです。

肝心な時に役に立たない顔回や、、の鏡を目撃していながらそのまま忘れてしまう子貢、悪悦にいいように操られる公山不狃や公伯寮など、あまりの不甲斐なさに情けなくなってしまうほど。孔子にも全くいいところがありません。孔子ほどの立場の人間ともなると、自分自身で事態に当たることが徐々に難しくなってくるのは、致し方ないところですが、しかしほんの小さな掛け違え、ほんの小さな隙間を突いてくる悪悦や子蓉の方が上手だったということなのでしょうね。この巻では顔回がほとんど登場しないのが寂しいのですが、しかし今まであまり夢中になれなかった費城に関する場面がとても面白く読めたのが収穫でした。悪悦の話術は、現代社会にも十分通じるもの。これでもし悪悦がもっと思慮深く、辛抱強い人間だったらと思うと空恐ろしいですね。

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