Livre TOP≫HOME≫
Livre

このページは、中山可穂さんの本の感想のページです。

line
「猫背の王子」集英社文庫(2005年8月読了)★★★★
劇団を立ち上げて5年目、5〜600人ほどの顧客ついてはいるものの、まだまだ知る人ぞ知る存在の劇団カイロプラクティック。その座長であり脚本家であり演出家であり、中心となる役者でもある王寺ミチルは、夜毎に違う女性と寝ているばかりか、ファンの女の子にも挨拶代わりにキスをする「知的淫乱」。そんなある日ミチルは、劇団の主演女優・辻村エリカが退団したがっていると聞かされます。フリーのプロデューサーから商業演劇に出ないかとオファーがあり、その日程が3週間後に迫った劇団カイロプラクティックの公演と重なっているというのです。エリカが誘われているのは、チェーホフを前衛的な演出で見せる演出家の作品で、劇場は一流。しかし台詞は1つだけという、プログラムに写真も載らないほどの端役。ミチルは、劇団の制作であり貴重な右腕である姫野トオルと共に、一流劇場の専用稽古場へと乗り込みます。しかしエリカは戻りませんでした。主演女優とは言っても、エリカは常にミチルの引き立て役。最早これ以上は我慢がならなかったのです。そして数日後。ミチルは照明の大迫に、実はトオルも退団するつもりだという噂を聞かされることに。

中山可穂さんのデビュー作。
硝子でできているかのように細く脆く純粋に見えながらも、実は奔放で情熱的。そして破滅的。雑誌の編集者の木内雅野には「技術も何もあったもんじゃなくて、やたらに凄い存在感だけで舞台に立ってる」と言われるほどです。そんな強烈な個性を持つ王寺ミチルがとても魅力的。芝居の相談でも、周囲からは「はじまったよ、ミチルさんのわがままが」と言われながらも、その我儘を通してもらえるだけのものは備えている彼女。男も女もエキセントリック彼女の存在感と吸引力からは逃れきれず、ずぶずぶとのめりこんでいくことになるのですね。そしてそんなミチルの姿は、そのまま「芝居」と重なります。一度夢中になってしまった人間は、そのままずぶずぶとのめりこんでしまい、滅多なことでは足を洗うことができない… 芝居もまたそんな存在。彼女に惹かれながらも、一緒にいるのがつらくて、結果的に裏切らざるを得なかった人々の気持ちがとても分かるような気がします。しかし読んでいると、まるで彼女が自分の命を削りながら輝いているように見えてしまい、痛々しくて堪りませんでした。
そしてミチルは自分の愛する人も大切な劇団も、結局失うことになってしまうことになります。しかしそれは破滅的でありながらも、どこか前向きのようにも見えます。私には、ミチルが大きく羽ばたく前の、現状からの脱皮のように思えました。このミチルの姿は続編「天使の骨」で描かれているようなので楽しみです。

「天使の骨」集英社文庫(2005年8月読了)★★★★
劇団を解散して3年。三軒茶屋のアパートを引き払い、世捨て人のように暮らしていたミチルの目の前に現れたのは、羽がぼろぼろに傷んだ天使でした。最初は1人だけだった天使は、日を追って出現頻度が増し、そしてその数を増していきます。37人を超えた時、ミチルは迂闊に外にも出られなくなり、アパートの下にある銭湯と、歩いて3分のところにあるセブン・イレブンにしか行けない状態。そしてとうとう50人を超えた時、ミチルは日本を出て行くことを決意します。そんなミチルを呼び止めたのは、新宿の街頭の占い師。「待ちなよ、あんた死ぬよ」「旅行はだめだ。とくに西の方。水には近寄るな。死ぬよ」という言葉に、ミチルはで、ヨーロッパ水辺紀行のルートを決めることに。

「猫背の王子」の続編。第6回朝日新人文学賞受賞作品。
この作品で、ミチルは28歳となっています。前作「猫背の王子」では命を削るかのように輝いていたミチルも、自分の存在そのものだった劇団を失い失意の日々。既に燃え尽きてしまっており、ミチルのどん底の精神状態を表すかのように、天使が現れるようになります。羽は薄汚れてところどころ抜け落ち、ぼろぼろに傷んでいるという状態ですが、それは紛れもなく天使。その天使が連なり歩いていくシーンはとても映像的であり、そしてリアル。
これはミチルの再生の物語なのですね。ぼろぼろの天使が連なり歩くほど疲れていた心に純粋さを取り戻し、純粋な目で久美子を見つめるミチル。純粋さと熱さを取り戻したミチルには、最早天使は必要ないのです。ミチルはまだ自らの力でいくらでも輝くことができるのですから。
そして今回名前でしか登場しない姫野トオルの存在感に驚かされました。身体の関係こそなかったものの、ミチルにとっては父とも母とも言えるような存在。今になってみると、トオルこそがこの物語のもう1人の主役だったことが分かります。まだ20数年の人生経験しかないトオルがミチルを丸ごと受け止めるのは、かなり苦しいことだったと思うのですが、それでもやはりお互いがお互いにとって大切な存在。もちろんトオルはゲイであるミチルの恋愛対象とはなり得ないのですが、同性でも異性でも、人を好きになり、大切に思う気持ちは一緒のはず。中山可穂さんの作品は、どうしても女性同士の同性愛に注目が集まりがちだと思うのですが、これは既に同性・異性という問題を超えてると思います。そんなミチルとトオルのこれからの関係についても、またぜひ読んでみたいです。

「サグラダ・ファミリア-聖家族」朝日新聞社(2003年5月読了)★★★★★お気に入り
ピアニストの石狩響子がルポライターの成島透子と出会ったのは、3年前の井の頭公園の桜の樹の下。出会った瞬間に透子に惹かれるものを感じた響子は、透子に自分のリサイタルのチケットを渡し、それ以来徐々に2人の仲は深くなっていきます。身も心も蕩けるように愛し合う2人。しかし一生の恋人だとも思っていた2人の仲は、1年ともたなかったのです。透子がこの世で一番望んでいるものは赤ん坊であり、それは響子にとってはこの世で一番苦手な存在。しかもレズビアンの2人に子供が望めるべくもなく、結局透子は響子の元を去ることに。そして2年後。響子の元に透子からの電話が。響子は、透子が子供を生んだことを知って驚きます。その場では透子を拒絶する響子ですが、透子は響子がピアノを弾くディナーショーに赤ん坊の桐人を連れて現れ、それ以来2人の仲は徐々に戻り始めます。しかしそんなある日、透子が交通事故で死んでしまうのです。響子は透子の葬式で、桐人の実の父親の恋人だったというゲイの高橋照光と出会います。

まるで一幅の絵画を見ているような気分になる作品。深く濃い色使いにも関わらず、透明感があり決して重苦しさを感じさせない… 極上の恋愛小説ですね。
読んでいて特に印象的だったのはピアノを弾く場面。特に後半の、コンチェルトを弾く場面がいいですね。そしてスペイン音楽を弾き、恩師のリリヤ先生と話す場面が好きです。以前は「広大な荒野でたったひとりで弾いているような音だった」という響子のピアノの音が、「荒野の果ての、遠くにいる誰かに語りかけているようだった」と変化を見せたというリリヤ先生の言葉も感動的。「官能は知っていても愛は知らなかった」というのは、本当にその通りなのでしょう。これを「桐人のおかげ」などと言うと、この物語があまりに陳腐に感じられてしまうと思いますし、子供嫌いがそれほど間違ったことなのかという疑問も浮かんでしまうのですが、しかし響子を無理矢理外に向けさせたという点では、やはり桐人の力は大きかったはず。もちろん桐人1人の力ではありません。響子と透子の本気の恋愛はもちろん、透子を永遠に失ってしまったこと、そして美容師のテルちゃんとの出会いも大きかったはず。そして他の登場人物もみな魅力的ですね。その中でも特に響子のパトロンの梅ばあが好きです。女性には男気があり、男性には母性愛があり… それぞれにとても不器用だけど、とても純粋。私には残念ながら同性愛者の知り合いはいないので、よく分からないのですが… 同性愛を描いている作品というのは、どうしてこうも透明感が感じられるのでしょう。そのように描かれているからなのか、それとも本当にそうなのか… 気になるところです。人を好きになるということにおいては、異性愛でも同性愛でも基本的には一緒だ思うのですが。
元々は赤の他人同士の響子とテルちゃんと桐人という3人に、「聖家族」というタイトルが本当にぴったりですね。

P.161「バカだなあ。着せて、食べさせて、抱きしめてやればいいんだよ。ただそれだけのことじゃないか。自分が親にしてもらったのと同じことをすればいいんだよ」

「感情教育」講談社文庫(2005年11月読了)★★★★
生まれたその日に母親に伊勢崎町の産院に置き去りにされた国吉那智は、横浜の乳児院に引き取られ、そこから養護施設へと移動。そして3歳の時に、児童福祉士に連れられてやってきた田川夫妻に引き取られます。田川夫妻は千葉に住んでおり、菊男は腕のいい建具職人。妻の千代が子宮外妊娠をして子供を産めない体となったため、養子を取ることになったのです。最初は過剰なほど感情を表さそうとはしなかった那智ですが、中学3年生の時に初めての恋愛をして以来、様々な男に声をかけられるような女性に成長していきます。

那智と理緒という2人の女性の生い立ち、そして出会い。出会ってからの展開はある意味想像通りだったのですが、それぞれの生い立ち部分が繊細に描かれているのがとても良く、面白かったです。
ただ、この作品が出た半年後に刊行された「深爪」を先に読んでしまったので、中心となる物語が同じようにフリーの女性と主婦の恋愛で、女性2人と夫1人の三角関係となること、どちらの作品にも「旦那と寝なかった?」と問い詰める場面があること、家庭は捨てたくとも子供は捨てられないと悩む場面など、重なる部分が多かったのが気になりましたし、そうでなくても、芝居をする女性が登場すると「猫背の王子」や「天使の骨」が連想されてしまいます。登場する夫の姿はかなり違っており、これが面白い違いを出していたので、おそらく読む時期が違えばまた新鮮な気持ちで読めたのではないかと思うのですが…。こちらに登場する耕一の方が、夫として一般的な反応でしょうね。それだけに「深爪」の「マツキヨ」のユニークさが目立っていたように思います。(2人の母親の名前は、単なる偶然だったのでしょうか。あまりにも似過ぎている2人の身体は、特に伏線ではなく、単に運命を印象付けたかっただけなのでしょうか?)
この作品を書かれていた時、おそらく中山可穂さんご自身がこういう恋愛をなさっていたのでしょうね。リアルな恋の断片が感じられるような気がする作品でした。

「深爪」新潮文庫(2005年11月読了)★★★★
ポルトガル語の翻訳をしているなつめはクールで知的、相手には困らず、時々ビアン向けのサイトで何人かの主婦をゲットして適当に遊ぶ生活。しかしそんななつめが、オフ会で生まれて初めて一目惚れしたのです。その相手は、自宅で音楽教室を開いているという子持ちの主婦・吹雪。2人は隣町に住んでいるということもあり、急速に接近します。身体の相性は最高。吹雪の子供・嵐が昼寝をしている間に、レッスン室で慌しく愛し合う日々。しかし吹雪を独占したいなつめと、家庭を維持したままなつめと愛し合いたい吹雪の間で、徐々に喧嘩が絶えなくなっていきます。

「深爪」「落花」「魔王」の3章に分かれており、それぞれなつめ、吹雪、吹雪の夫の「マツキヨ」の視点から描かれていきます。
なつめと付き合っている時は離婚に踏み切る気がなかった吹雪が、その後香取ひょんと出会った時は躊躇いもなく家を捨ててしまうということに、不思議なほどリアリティを感じてしまいました。吹雪が最終的に選んだのは、対等な恋人のなつめではなく、侠気のあるひょん。結局吹雪は、相手に「男性」を求めていたのでしょうね。自分勝手で相手を振り回し、それでいて相手にぐいぐいとリードして欲しいという我儘女の吹雪。
3分の1が男性視点ということもあり、他の作品に比べてあまり濃くないような気もしましたが、実は私がこの作品の中で一番惹かれたのは、マツキヨという人間の造形であり、マツキヨの語る「魔王」の章でした。吹雪が女遊びをしてもマツキヨが気にしなかった部分は、後に「魔王」の章で「メルヘン」という言葉で説明されていましたが、「魔王」を読む前からとても分かる気がしていましたし、彼が子育てに全力投球して、ぐずる嵐を吹雪のカーディガンでなだめてみたり、その他にも色々と工夫する場面で、思いがけずぐっときてしまいました。マツキヨは単なる都合の良い男でも、間抜けな寝取られ男でもなく、実は非常に懐の深い男だと思います。吹雪には勿体ないですね。中山可穂さんは、女性しか目に入っていないのではないかと勝手に思い込んでいたので、マツキヨのような人間が登場したのがとても意外でしたし、非常に嬉しかったです。しかし「深爪」と「魔王」では、吹雪の話をしているシチュエーションがまるで違うのですが、これには何か意味があったのでしょうか?

「白い薔薇の淵まで」集英社文庫(2005年6月読了)★★★★★お気に入り
無性に日本語の活字が読みたかった「わたし」がニューヨークの紀伊国屋書店で見つけたのは、日本人作家の英訳本コーナーに置かれていた山野辺塁の作品。10年前、28歳で亡くなった塁。「わたし」が塁に初めて出会ったのは、「わたし」がまだ29歳で東京で会社勤めをしていた頃。小津康介という辛口で有名な評論家が「ジャン・ジュネの再来」という賛辞を与えた作家に興味を惹かれながらも、なかなか作品を見つけることのできなかった「わたし」ですが、深夜の青山ブックセンターで偶然巡りあうことになります。本の厚みに比較して高い値段に躊躇した「わたし」に「その本、買わないんですか?」と声をかけたのは、見知らぬ女性。そしてその女性こそが、その本を書いた山野辺塁だったのです。

第14回山本周五郎賞受賞作品。
「わたし」こと川島とく子と山野辺塁のあまりに激しい恋愛小説。しかしあまりに激しい恋愛は、破滅へと突き進まずにはいられないのですね。周囲を不幸にし、自分も相手も不幸にするのが分っていても、お互いに取り返しのつかないほど傷つけあいながらも、それでも尚相手を求めずにはいられないという恋愛。日頃から恋愛に性別は関係ないとは思っているのですが、やはりこれは女性作家の手による女性同士の恋愛ならではなのでしょうか。ここまで自分をさらけ出して生々しくぶつけられるというのは、女性同士の恋愛でもなかなかできないような気もしますが…。少なくとも元々あまり恋愛感情が強くない私には絶対不可能。ここまで自分に素直に欲望をさらけだしてしまえるというのは、ある意味羨ましい気もします。「脳髄の裏側に白い薔薇を植える」という表現が、実際的な描写よりも遥かに的確に本質を突いているように感じられていいですね。
しかしあまりに強烈な塁というキャラクターに対して、「わたし」の造形がやや弱い気もします。塁には「すごくきれいな年上の女の人」と言われ、喜八郎には「下品なくらい色っぽい」「壮絶に美しい」と言われる「わたし」ですが、今ひとつ具体的な描写に欠けているようで、読んでいてもなかなか顔が見えてこないのです。そしてそれはもしかしたら、冒頭の43歳となった「わたし」のシーンのせいかもしれません。この作品のラストシーンで自転車を必死に漕いでいる「わたし」と、冒頭の冷静に塁の本を手にとる「わたし」が、私の中で上手く繋がってくれないのです。それだけその10年が「わたし」にとって大きかったということを表しているような気もしますが…。
Livre TOP≫HOME≫
JardinSoleil

Copyright 2000-2011 Shiki. All rights reserved.