
聖霊降臨節の前日、カアマロ(キャメロット)に集まっていた円卓の騎士たちとアルテュール王が宴の席についた時、美しい乙女がその場にやって来ます。乙女はペレス王に仕えている者だと名乗り、理由も言わずにランスロ(ランスロット)に一緒に来て欲しいと頼みます。2人はすぐに馬で出立。とある谷にある女子修道院へ。そこにはランスロの従兄弟のボオールとリヨネルがいました。そしてランスロは3人の修道女に連れられて来たガラアドを自ら騎士に叙することに。そしてランスロとボオールとリヨネルがカアマロに帰り着いた時、円卓の<危険の座>には、その聖霊降臨節の日にこそ、その席に座る主が現れるとありました。そしてそれこそがガアラルの席だったのです。(「LA QUESTE DEL SAINT GRAAL」天沢退二郎訳)
1180年代初めにクレティアン・ド・トロワが書いた長編韻文物語「聖杯の物語」がきっかけとなり、それから膨大な聖杯物語が作られることになったのだそう。この本に収められている「聖杯探索」は、1220年にフランスで書かれた作品。作者不詳ですが、キリスト教シトー修道会の教え、特に禁欲思想を色濃く反映していることから、その会の修道士やその教えを勉強した者によるものと考えられているようです。
ロベール・ド・ボロンの「聖杯の由来の物語」で、聖杯とは最後の晩餐の時に使われた食器であり、十字架上のイエスから血を受けた器なのだと明言され、その定義が周知の事実となっていったのだそうです。そのせいもあり、元々ケルトの大釜だったはずの聖杯の物語は、非常にキリスト教色の濃いものとなっています。しかも非常に教訓的。アーサー王の円卓の騎士たちの全員が参加しようとしたこの冒険(アヴァンテュール)も、成し遂げる資格を得られたのはガラアド、ペルスヴァル、ボオールの3人のみ。それ以外の騎士たちは最初からその資格がないものとして切り捨てられています。確かに3人は純潔という意味でも美徳という意味でも相応しい騎士たちかもしれませんが、他の騎士たちに関しては、読んでいるこちらが気の毒になってしまうほどですね。純潔がそれほど偉いのでしょうか。それともこの時代には、ここまで声高に純潔を主張しなければならないほど、乱れた世の中だったのでしょうか。そして多くの人間を罪から救うという大乗的な思想は全くないのでしょうか。特に気の毒なのは、当代随一の騎士だったはずのランスロ。ランスロの罪は作中で何度も指摘され、ランスロが聖杯探索から排除される理由が繰り返し語られていきます。
解説に、ツヴェタン・トドロフの「聖杯の探索」とは「コードの探索」だという言葉が載っていました。「コードに無知であるとは、すなわち永遠に聖杯に拒まれてあるということ」なのだそう。騎士たちの夢や出会った人々の行動などには、翻訳コードが分からないと理解できない部分が多いですが、登場する聖職者たちや賢者たちは、あまりに見事に読み解いていくのですね。
アルテュール……アーサー
グニェーヴル……グウィネヴィア
ガラアド……ガラハッド
ペルスヴァル……パーシヴァル
ボオール……ボールス
ランスロ……ランスロット
ゴーヴァン……ガウェイン
メルラン……マーリン
【聖アレクシス伝】…皇帝の寵愛も深いローマの大官・ウーフェミアンは妻を娶ってもなかなか子宝に恵まれず、神に祈り続けてようやく一子を授かります。その子はアレクシスと名付けられることに。
【ロランの歌】…大帝シャルルは丸7年イスパニアの地に留まり、海辺に至るまでこの土地をことごとく攻め取ります。残るは、神を崇めぬマルシル王の治める山間の国・サラゴッサのみ。進退窮まったマルシル王は、ヴァルフォンドの城主・ブランカンドランの進言により、シャルル大帝に偽りの降伏をすることに。
【トリスタン物語】(べルール)…王宮への出入りを禁じられたトリスタンがイズーを呼び出した場面から。
【トリスタン物語】(トマ)…2人で果樹園に眠っているところを王に見られ、トリスタンはイズーの元を離れることに。そしてイズーと王のことを考え続けるトリスタンは、白い手のイズーと結婚するのです。
【トリスタンもの短篇】
「トリスタン佯狂」(オクスフォード本)…イズーと別れたトリスタンは、イズーを忘れられずに再びイギリスへ。ティンタジェルに滞在中のイズーに会い、語らうために狂人を装います。
「トリスタン佯狂」(ベルン本)…マルク王に追われていることを宮廷長・ディナスから知らされたトリスタンは、変装しつつ旅を続けるうちに頭がおかしくなり、結局マルク王の宮廷に現れます。
「すいかずら」(マリ・ド・フランス)…追放されたトリスタンは、南ウェールズで1年間暮らすものの、コーンウォールへ。ティンタジェルの聖霊降臨の大祭に出かけるマルク王一行を待ち構えます。
【南仏詩人】(トルバドゥール)
【北仏詩人】(トルヴェール)
【フランソワ・ヴィヨン】…15世紀フランスの詩人・フランソワ・ヴィヨンの形見、ヴィヨンの遺言、ヴィヨン雑詩篇の各抄訳(新倉俊一、神沢栄三、天沢退二郎訳)
様々に語られてきたトリスタンとイズーの物語は、そのほとんどの写本が散逸して不完全な状態であり、それを1つの物語としてまとめあげたのが、ベディエによる「トリスタン・イズー物語」なのだそうです。
この物語は大きく4つに分けられるとのこと。
1.トリスタンの出生と幼少時代の物語
2.トリスタンと、アイルランドの王女・イズーの運命的な出会い
3.コーンウォール王マルク妃となったイズーとトリスタンの密通
4.トリスタンとイズーの別れ、トリスタンの結婚、2人の死
ベルールの「トリスタン物語」はこのうちの3に当たります。この物語では、イズーとトリスタンが手を取り合って出奔するほど愛し合いながらも、丁度3年で媚薬の効果が切れるというのが面白いですね。イズーの母の作った媚薬に期限があったとは知りませんでしたが、トリスタン物語群では、どちらかに分かれるのだそう。
「マルク王の耳は馬の耳だ」と小人がさんざしの木の根元の穴に言うエピソードには驚きました。「王様の耳はロバの耳」と床屋が穴に向かってささやくエピソードは、フリュギアのミダス王が出所のはず。と思ったら解説に、マルクという名はケルト系の言語で「馬」を意味しており、その名前から連想して出てきたのだとありました。そしてアーサー王を前にイズーが聖遺物に向かって貞節を誓う場面がクライマックス。「今しがた駄馬のかわりをつとめ、浅瀬の向こうに運んでくれた癩病み、それに我が夫のマルク王以外に、いかなる男も我が股の間に入ったことなし。」というのが強烈。そしてトマの「トリスタン物語」は4のイズーとトリスタンが別れ、トリスタンが白い手のイズーと結婚し、そして死ぬまでの物語となっています。このトマの描くトリスタンは、まるでハムレットのように1人思い悩む青年。王と一緒にいるイズーにあてつけるかのように、同じ名前の娘を選ぶトリスタン。その名前だからこそ結婚しようと思うのです。一方イズーの腹心の侍女だったブランガンはすっかり2人のことで怒っています。
ベルールやトマ、そしてマリ・ド・フランスの作品の中では、どんなに変装しようともイズーはすぐにトリスタンのことに気づきますが、オックスフォード本やベルン本では、イズーは最初トリスタンに気づかず、逆に言いたい放題のトリスタンに腹を立てることになります。そしてトリスタンからイズーへと贈った犬のユダンの力を借りることに…。随分な違いですね。オックスフォード本とベルン本の流れは基本的に同じですが、親友だという宮廷長の名前が違います。オックスフォード本ではマリヤドックでこれはゴットフリートの20章のマリョドーと一緒。ベルン本ではディナス。
トリスタン物語群には流布本系と騎士道物語系があり、流布本系の方が粗野で荒削りで、年代的にも古いもの。騎士道物語本系は、洗練された技巧と当時の宮廷風恋愛から解釈し直されているのだそうです。
・流布本系…ベルール、ベルン、アイルハルト・フォン・オーベルク「トリスタン」、「散文トリスタン」
・騎士道物語本系…トマ、オックスフォード本、修道士ロベール「トリスタンのサガ」、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク「トリスタン」
道理で、ここに収められた5作もかなり雰囲気が違うはずですね。共通の設定ながらもそれぞれに個性が強く、読み比べていてとても面白かったです。ちなみにワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」は、ゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの「トリスタン」が元になってるよう。大筋はほぼ一緒でも、細かい部分がかなり違っているようです。
コルヌアイユのマルク王の妹・ブランシュフルールが、ローヌア王・リヴァランと結婚。しかしリヴァランは仇敵・モルガン候に謀殺され、ブランシュフルールは1人の男の子を産んで亡くなります。男の子につけられた名前はトリスタン(悲しみの子)。両親を失ったトリスタンは、リヴァランに忠義心に篤かったロアールに育てられることになるのですが、7歳の時にノルウェの商人に攫われてしまいます。しかし海が荒れ狂い、それがトリスタンを攫ったためと考えた船乗りたちによって小船に乗せられ、小船はコルヌアイユに辿り着くことに。トリスタンは、タンタジエル城のマルク王の元へ。やがてトリスタンを見つけ出したロアールによってトリスタンはマルク王の実の甥と判明し、マルク王はトリスタンに実の息子のような愛を注ぐことになります。(佐藤輝夫訳)
ケルトが発祥で、中世フランスで物語としてまとめられ、ドイツを始めとするヨーロッパ各地に広まったという物語。12世紀のフランスでは人々の魂を奪ったほどの人気だったのだそうで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の元にもなっています。しかしフランスではクレティアン・ド・トロワやラ・セーヴルの写本は完全に失われており、残っているのはベルールやトマの約3000行、作者不詳の物語1500行といった断片のみ。それらの断片を元にジョゼフ・ベディエが1850年に書き上げたのが、この「トリスタン・イズー物語」です。ベディエ自身、様々な文献から作り上げたものだと「原著者のノート」に書き残しています。
第1章の「トリスタンの少年時代」…色々な詩、主にトマの作品から
第2章「アイルランドのモルオール」…アイルハルト・フォン・オベルク
第3章「黄金の髪の美女をもとめて」…アイルハルト・フォン・オベルク
第4章「媚薬」…アイルハルトやゴットフリート・フォン・シュトラスブルク
第5章「ブランジャン」…アイルハルト
第6章「大松」…ベルール
第7章「小びとのフロサン」…ベルール
第8章「御堂より身を跳らせて」…ベルール
第9章「モロアの森」…ベルール
第10章「隠者オグラン」…ベルール
第11章「難所の渡航場」…ベルール
第12章「灼熱の裁き」…ベルール及び無名氏の断片
第13章「鶯の歌」…13世紀の教訓詩「戀人の栞」
第14章「不思議の鈴」…ゴットフリート
第15章「白い手のイズー」…ゴットフリート
第16章「カエルダン」…ゴットフリート
第17章「ディナス・ド・リダン」…カリアド及び癩病者に扮するエピソードはトマ、残りはアイルハルト
第18章「狂えるトリスタン」…フランスの小詩
第19章「死」…トマ
端的にいえば、トリスタンとイズーの不倫の物語。トリスタンとイズーとマルク王、あるいはトリスタンと金髪のイズー、白い手のイズーの三角関係。
そもそもトリスタンが竜を退治して金髪のイズーを勝ち得たのは、マルク王のため。イズーはトリスタンが自分のことをあっさりとマルク王に譲り渡すことを知って面白くない気持ちにはなるのですが、特に恋愛感情までは至っていません。そのトリスタンとイズーが恋に落ちたのは、イズーの母親が作った媚薬のせい。媚薬をきちんと隠しておかなかったブランジャン、あるいはイズーに説明しておかなかった母親の責任もあるとは思うのですが、その辺りはあまり問題視されないのですね。恋に落ちたトリスタンとイズーは、死にも分かつことのできない愛に囚われることになり、それは自分の力ではどうしようもないほどになります。その点、トリスタンとイズー自身も、マルク王や白い手のイズーと同じぐらい被害者と言えるでしょう。しかしその破滅をも恐れない強い愛が、読み手(あるいは聞き手)の心を揺さぶるのですね。キリスト教の教えでは許されるはずもない不倫の恋に読み手は同情し、王のことを思って諫言する4人の家臣は完全に悪者扱いされることになります。
今回再読してみて一番印象に残ったのは、マルク王。息子のように可愛がっていたトリスタン、愛するイズーに裏切られ、しかし深い心で2人を愛し続けたマルク王。2人の墓から伸びる茨を断ち切ることを禁じたマルク王の懐の深さが素敵です。
コルヌアイユの王・グラドロンは王妃・マルグヴェンを失ってからというもの、王としての義務を全て放棄し、キャンペール城の暗い部屋の奥に引きこもって酒をあおる生活。重臣たちの諌めも芸人たちの巧みな技も、グラドロンを慰めることはなかったのです。しかしそんなある日、王の裁きを求めたケバンという農婦の訴えで聖者・ロナンに出会い、その奇跡を目の当たりにしたことから、グラドロンは意気消沈の状態から抜け出します。さらに聖者コランタンと出会って彼を司教に任じたことから、キャンペールの町の人々は神の教えによって導かれ、ありとあらゆる正しい美徳が花開くことに。しかしグラドロンの1人娘・ダユだけは例外だったのです。(「LA LEGENDE DE LA VILLE D'YS D'APRES LES ANCIENS TEXT ES」有田忠郎訳)
5世紀に海没したというイスの町の伝説。マリ・ド・フランスの作とされる「グラドロンの歌」などにわずかに歌われたものの、ほとんど表立って取り上げられることはなく、各地で忘れられかけていた断片を拾い上げ、キリスト教の聖者伝や創作を交えてシャルル・ギヨが物語として作り上げたという作品。Ys(またはIs)とは「低い町」の意味で、イスの町が海面よりも低い場所にあったことから。フランスの首都・パリの名前の語源でもあります。「Par Is」は「イスに匹敵する」という意味。伝説の都・イスはかつてパリに劣らぬ繁栄を享受しており、いつかパリが滅びた時にイスはもう一度海の底から蘇り、フランスの首都として君臨すると言われているのだそうです。
聖者たちにとってダユは汚辱にまみれた淫婦でしかなく、キリスト教によって異教が迫害されたように、ダユもまたキリスト教の聖者たちによって弾劾されることになります。しかしそれはキリスト教側からの一方的な言い分。解説に、ダユという名前はケルト語では「良き魔女」という意味だとありました。となると、この伝説にはまるで違った面があるのではないでしょうか。グラドロンの妻となるマルグヴェンは、おそらく妖精的な存在であり、その娘であるダユも妖精の血をひく娘。父親はキリスト教に改宗してしまい、しかし妖精であるダユは自分の信仰を持ち続けるという物語なのですね。ダユはイスの町に教会を作ろうとはしませんし、問題が起きた時も「東方から来た神によって祭礼を荒ら」された、サン島にいる「古い宗教の女祭司だったセーヌたち」に助けを求めます。イスの町やダユの城は、通常の人間の目には見えない妖精(コリガン)たちによって手入れされます。潮の満干時のブロンズの水門開け閉めも同様。この物語の中で、ダユは最終的には悪魔に恋をして身を滅ぼすことになるのですが、この作品にキリスト教の教えが全く入っていなければ、一体どうなっていたのでしょう。それでもダユやイスの町は滅びていたのでしょうか。
海底に沈んだイスの町は、ケルトの他界になってしまったようです。晴れた日には海底に沈んでいる尖塔が見える、あるいは、波の静かな日は教会の鐘の音が聞こえるなど言われ、思いがけなくイスの町に行ってしまったというエピソードも色々あるようです。その共通点は、訪れた人間が1つの行為を行わなかったのが原因でイスの町は蘇ることができなかった、というもの。もし店で買い物をしていれば、ミサの答唱に応えていたら、イスは蘇ることができたのだというのです。…そしてイスの町の伝説は音楽家にも影響を与え、ドビュッシーの「沈める寺」や、ラロのオペラ「イスの王様」といった作品も生まれています。
<呪われた男・呪われた女>
【カテル・ゴレ】…太陽のように若く美しいカテルは、何よりもダンスが好きな16歳。結婚させようとする後見人のモリス伯爵にも、自分と半日続けて踊れなければだめだと言っていました。
【悪魔の付添い人】…生まれた時に意地悪な妖精に呪いをかけられたため、醜い女の子(レドロネット)と呼ばれることになったアンヌ。従姉のロイザの結婚式に出たくて付添い人を探します。
【境界石を抱いた男】…年を取った日雇い農夫は、自分の畑をもう少し広くしたくて、こっそり境界石の位置をずらそうとします。しかしその時石が農夫の胸にくっついて…。
<ドルメンとメンヒル>
【悪魔のメンヒル】…聖トレフェールの願いは礼拝堂を持つこと。しかしまだまだ異教の民に等しい住民たちに大きな石探しを頼むわけにいかず、悪魔と取引をすることに。
【コリガンのドルメン】…20ピストルで馬を売るはずだったのに、19.5ピストルになってしまったのを悔やんでいたジョビックは、ドルメンの入り口できらきら輝いてる銀貨を拾おうとします。
【妖精の三つの贈り物】…善良で働き者なのに、酒飲みのヨミ。その日も子牛を15エキュで売るものの、気づいたら2エキュしか持っていない状態。帰り道に妖精が現れます。
<死者の国>
【食事に招かれた死者】…日曜日のミサの後、墓場の十字架の台座と呼ばれる場所に上がって、そこにいる人々を年に1度の無礼講の宴会に招いたラウー・アル・ブレイズ。
【夜の洗濯女】…ヴィレルム・ポスティクは禁じられた娯楽に心を奪われ、神の警告も無視、司教に意見されても教会を棄てただけでした。しかしそんなある日、彼はアンクーに出会います。
【息子の死に涙を流しすぎた母親】…グリダ・レンは最愛の息子・ノエリクの死を悲しみ、ほとんどの時間を息子の墓にひざまずいて過ごしていました。そんなある日司教が提案したのは…。
【寒がりやの男】…泥にまみれた何枚もの服を重ね着して、しかも骨と皮だけのように痩せている男が、毎晩のように酒場に現れ、さくらんぼうのお酒を注文します。
<海のものがたり>
【人魚と漁師】…オマール海老や伊勢海老、何種類かの魚を捕まえた若い漁師は、新婚の妻の待つ家へと向かいます。しかしその時、人魚の歌声が聞こえてきたのです。
【黄金のカニ】…干潮時の岩場で海老を取っていた15歳のヤニックは、網の中に金のカニが入っているのに気づいて驚きます。高く売ろうと考えるヤニック。しかしその時カニの声が…。
【イスの町(バラード)】…呪われた町イスを沈めることにしたダユーは、婚約者のオエルに水門の鍵を渡し、あけたらすぐに王の馬を数頭引いてくるようにといいます。
【イスの町のクリスマス】…クリスマスの晩にトレパセ湾沿いに歩いていた若い漁師は、ふいに海に落ちてしまいます。気がつけばそこは海の底。若者はイスの町にいたのです。
<魔法と冒険>
【コモール】…ヴァンヌの美しい王女・トリフィナに求婚したのは、コルヌアイユの悪名高いコモール伯爵。コモールは若いうちから悪事に親しみ、4人の妻が次々に突如として死亡していたのです。
【ロク島のグロアク】…許婚のベラを置いて運試しの旅に出ることにしたウアルンは、旅の途中でロク島のグロアクについて耳にします。この世の王様たちを合わせたぐらい大金持ちの妖精だというのです。
【うすのろのペロニク】…日々、キリスト教徒からのほどこしで暮らしているペロニクは、ケルグラ城の巨人・ロジェアールの持つ黄金の皿とダイヤモンドの槍が欲しくてたまらなくなります。しかし今までに何人もの騎士たちが失敗しているのです。(植田祐次・山内淳訳編)
ブルターニュのケルト民話集。アイルランドやスコットランドのケルトの民話に比べると、登場する妖精の種類も少なく、かろうじて「夜の洗濯女」に出てくるバンシーのような女たちや、ブルターニュ地方の死神(アンクー)が登場するする程度。そのほかに登場する妖精は、もっぱら小鬼の「コリガン」です。ブルターニュ地方にはあまり色々な種類の妖精がいないのでしょうか。ドルメンやメンヒルといった巨石も登場しますし、キリスト教とドルイド教が渾然一体になっている印象はあるものの、全体的にあまりケルトらしさは感じられませんでした。ケルトはケルトでもやはりブルターニュはフランスですし、アイルランドやスコットランドに比べると洗練されてしまっているのでしょうか。それに地続きの土地の伝承と混ざっているものも多いのかもしれないですね。
「コモール」に登場するコルヌアイユのコモール伯爵は、ジル・ド・レーと共に「青髭」のモデルとされている人物なのだそうです。
ある日クードレットが主から命じられたのは、主の祖先にあたる人物や彼らにまつわる出来事などの史実を物語に編むこと。クードレットの主はポワトゥのさる大領主で、パルトゥネの殿様と呼ばれており、その一族は妖精の血を引いているといわれていました。それは気高いリュジニャン城を築城し、数々の町を築かせた妖精・メリュジーヌのこと。クードレットは早速妖精・メリュジーヌとその伴侶となるレモンダンの泉のほとりでの運命の出会い、結婚、そして彼らの10人の息子たちの物語を書き始めます。(森本英夫・傳田久仁子訳)
メリュジーヌ伝説は、元々はケルト的な妖精伝説。現存するテキストとしては、ジャン・ダラスによって1393年に書かれた散文の「メリュジーヌ物語」、そして1401年以降に書かれたクードレットによるこの作品(韻文)が最も古いようですが、それ以前から、メリュジーヌにまつわる口承伝承がフランス各地に存在していたようです。この物語に登場するメリュジーヌは、上半身が美しい女性で下半身が蛇。普段は人間の女性の姿で過ごしているのですが、母親(モーガン・ル・フェイの姉妹)の呪いによって土曜日だけそのような身体になるのです。そして土曜日のメリュジーヌがどこに行こうとも何をしていようともその秘密を探らない、という禁忌を夫であるレモンダンが破ったため、メリュジーヌが夫のもとを去るという「鶴の恩返し」と同じパターンの物語でもあります。しかしこの伝説に登場するリュジニャン一族は実在しており、その一族の歴史を語る物語でもありました。
読んでいてとても強く感じたのは、キリスト教の影響。作中では登場人物たちが繰り返しキリスト教、特にカトリックの信者であることが強調され、それはメリュジーヌも同様。妖精がよく姿を見せるという噂の「渇きの泉」のほとりにいた女性たちは、神の名を出してレモンダンの警戒を解こうとしますし、実際結婚式はカトリックの司祭によって執り行われます。しかしその故郷と言える場所は、アーサー王伝説でもよく知られているアヴァロン。「トリスタンの一族の血を引いた者」や「魔法使いマーリンの弟子」という言葉も登場し、原形がまだまだ残っていることも感じさせられます。
このメリュジーヌの存在は多くの詩人を引き付け、アンドレ・ブルトンの「ナジャ」や「秘法十七番」といった作品の中で、アポリネールの美しい女性への呼びかけ、そしてゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」の中の挿話の題名が「新メリュジーヌ物語」であったりと、様々なところで見られるようです。訳が子供向けのような語り口であったこともあり、読みながらそれほど物語に入り込めなかったのが残念。しかしメリュジーヌの存在に触発された作品もぜひ読んでみたいですね。
フランスの各地で人々によって語り継がれた民話の中から特に幻想的な話を集め、「恋人たち」「悪魔」「領主」「求道者」「死者」「亡霊」の6章に分けて全34編を収めたもの。(植田祐次訳編)
100年ほど前に刊行された30巻の叢書「世界の民話」は、「世界」しつつも大半はフランス各地の民話から成り立っている本。フランス民話集成としての性格が強いのだそうです。そこからフランスの民話としてまとまりのよいと思われるものを精選し、幻想物、笑話物、小ばなし物、妖精物の4つに分類したうちの1冊がこの本。
どれも4〜5ページ程度の短い物語。全体的に後味があまり良くないのが特徴でしょうか。「悪魔」「死者」「亡霊」の章ならまだ分かるのですが、「恋人」の章に入っている物語ですら、死の影が色濃く漂っているのです。最初の物語からして「心臓を食われた恋人」で、美しい娘の言葉に応じて、彼女が欲しがるものを用意しようとする男が、最後にはとうとう失敗して心臓を失ってしまうという物語。「ナイチンゲール」は実の母親に恋路を邪魔される悲恋物語ですし、「マリア」は悪魔にたぶらかされる美しい娘の悲惨な物語。「許嫁」は死んで初めて結ばれる恋人同士の物語ですし、「煉獄からの復習」は、女を誘惑しては捨てる浮気な男に女性たちが仕返しをする物語。その他のも死や悪魔の登場する物語ばかり。ごく普通のハッピーエンドとなる物語が1つもないほどなのです。「幻想」というよりも「怪奇」色の方が強く感じられますし、この一種独特の陰鬱さは大人向けかもしれないですね。しかしどれも読んでいると引き込まれます。「領主」の章には「青ひげ」も収められています。
フランスの各地で人々によって語り継がれた民話の中から、多かれ少なかれ妖精の影響が認められる物語を集め、「変身譚」「愛」「嫉妬」「試練」「不思議な動物」「妖精」「プシュケ神話」の7章に分けてまとめたもの。全25編。(植田祐次訳編)
「フランス幻想民話集」に比べると、ぐっと普通の童話らしくなったような印象。グリムやペロー、北欧の民話に見られるような物語もありますし、神話的なものもありますし、基本的には美しく気立ての良い少女が、途中いささか苦労するにせよ、最後に幸せになる、あるいは醜い男がそのありのままを愛してくれる女性を見つけ、素晴らしい王子さまになる、という物語が中心。「フランス幻想民話集」の陰鬱さはすっかり影を潜めています。
「小指の童女」は「おやゆび姫」ですが、展開と結末はまるで別。小さくてもいいから娘が欲しいと思ったこの母親の身勝手には驚かされました。しかも、王子さまを見つけても「小指童女」の苦労はまだまだ続くのです。「王女マリ」の場合は、始まりは「リア王」で、途中はグリムの「千匹皮」かペローの「ロバの皮」、そして「シンデレラ」になり… という様々なモチーフを含んだ作品。そして今回少し驚いたのは、コルシカ島の民話が意外と多いこと。ブルターニュにそういった話が多いことは知っていましたが、コルシカ島も実は民話の宝庫だったのですね。
死者が起き上がって復讐にやって来たり、生きている人間をむさぼり喰ったり。あるいは死者が世話になった人物に恩返しをしたり。悪魔に狙われたり。そういった生と死の境目が曖昧な怪奇民話が収められています。「死の予兆」「亡霊のいたずら」「死者の呪い」「魔もの退治」「地獄からの救済」「冒険とロマンス」6章に収められた物語は、全19編。(植田祐次訳編)
死者や悪魔が登場し、時にはそういった存在に取り殺されることもあるのですが、基本的にはあまり怖くない物語ばかりですね。どちらかといえばユーモアを感じるほどで、トルストイの「イワンのばか」系の物語のようにも感じられました。「フランス幻想民話集」の方が「怪奇」の名前に相応しかったかも。
興味深かったのは、「暗黒の山」について書かれていた訳者による解説。助けてくれる娘の体を鍋で煮詰めて骨を梯子にして塔や城をよじのぼり、再び骨を集めて煮ると、娘はさらに美しい姿となって生き返る…というエピソードは以前から知っているのですが、これは古代の社会で執り行われていた「成人式儀礼(イニシエーション)」を表しているようです。死と復活の儀式に由来し、新たな生を得るために肉体を傷つけたり死の通過儀礼を経ることを求めるチベットや東洋の伝説や、シベリアや中央アジアのシャーマニズム。そして「ポン=ド=ピルの鍛冶屋とマムシの女王」の主人公が両足を失い、代わりに黄金の足と翼を得るのも、再生によって神性を得たとも考えられるのだそう。そのほかにも、1つ1つのエピソードを見ていけば、ギリシャ神話や日本神話に通じる部分が色々とあることに改めて気付かされました。おそらく無駄なエピソードというのはほとんどないのでしょうね。よく知っている物語でも、こういう風に分析していくと、また違ったことが色々と発見できそうです。
ピレネー山脈を仰ぎビスケー湾を臨むフランス西南部に広がるバスク地方。ここに古来より居住しているのは、バスク語を母国語に持つバスク民族。バスク民族は起源不明の神秘的な民族で、バスク語も近隣のフランス語やスペイン語といったラテン語系の言語とは異なり、未だに世界のどの言語にも系統づけられていないものなのだそうです。そんな峻峰ピレネーの山なみに守られて、近隣の諸民族とはまた違う特異性を保ち続けているバスク地方に伝わるのは、女性的な魅力と妖怪の恐ろしさを合わせ持つ妖精・ラミナや、超人的な力を持ちながら無垢な子供にだまされる怪物タルタロといった自然が妖怪化したもの、熱心なカトリック信仰が土俗民話が結びついた、キリスト教の奇跡の説話的なものや魔女たちの民話、そして動物と共存するバスク人らしい、言葉を話す動物たちの民話など。これらの民話は、古くからの口承により伝えられてきたものなのです。(堀田郷弘訳編)
ラミナやタルタロの民話もいかにも民話らしくて面白いのですが、何といってもこの本でユニークだったのは、「主キリストとペテロ聖人の奇跡」の章。既に知ってる民話の登場人物がキリストとペテロに入れ替わってるだけ、というのも多かったのですが、知らないパターンの話も色々とありました。2人は旅の途中で泊めてもらった家の主人に、翌日の麦打ちをやる約束をするのですが、翌朝いつまで経ってもベッドから出ようとせずに主人を怒らせたり… 旅をしてる最中に女と悪魔が猛烈な口喧嘩をしているのを見たペテロがいきなり双方の頭を切り落としてしまったり、石に躓いたり牛糞を踏んで滑って悪態をついてみたり。ペテロは小ずるくて全然人間ができていないという印象ですし、イエス・キリストも些細なことを根に持ってペテロに仕返ししていますし、一体何なのでしょう。到底「救い主」「聖人」という言葉に相応しく感じられない人間臭い2人。バスク人たちはそんな2人でも信仰心は揺らがなかったのでしょうか。それとも逆に親近感を抱いたのでしょうか。その辺りが不思議になってしまいます。