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このページは、須賀敦子さんの本の感想のページです。

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「コルシア書店の仲間たち」文春文庫(2005年11月読了)★★★★

留学生としてローマで勉強していた須賀敦子さんが、ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の紹介で、コルシア・デイ・セルヴィ書店のメンバーや、パトロンのツィア・テレーサに紹介されたのは1960年のこと。それは、以前からこの書店に興味を持っていた須賀さんにとっては、まさに最初の扉が開いたような出来事でした。

コルシア・デイ・セルヴィ書店は、聖と俗の垣根を取りはらおうとする「新しい神学」の流れを受け継いだダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の発想で出発した書店。ミラノの教会の物置を改造したという書店でありながら、単なる書店ではなく、「せまいキリスト教の殻にとじこもらないで、人間の言葉を話す『場』をつくろう」という理念を持った場。その創始者となったダヴィデ・マリア・トゥロルド神父は、詩人としても名高い人物なのですが、政治運動に熱を入れすぎたために大司教の不興を買ってミラノを追放されていました。しかし彼の元には、理想に燃えて書店の活動に力を入れる仲間たちが集まり、とびきりの上流階級婦人から庶民中の庶民まで、階級も職業も人種も年齢も様々な人間が書店に出入りし、同じ空間と時間を共有しています。もちろん好ましい人間ばかりとは限らないですし、様々な出来事が起こります。けれどここにいる人々は、留学生としてイタリアにいた須賀さんが初めて得た仲間であり、家族だったのでしょうね。そしてコルシア・デイ・セルヴィ書店こそが、須賀さんにとっての居場所だったのでしょう。そして、後に須賀さんと結婚することになったペッピーノと出会ったのも、このコルシア・デイ・セルヴィ書店でのことです。
この中で一番印象に残ったのは、ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父でしょうか。須賀さんは最初、このダヴィデから現代神学や文学を学びたいと考えていたようですが、すぐにそれは不可能だと悟ります。あらゆる体系とは無縁のダヴィデ。2m近い大男で、調子はずれに歌い、大きな手で全てを抱えこんでしまうダヴィデ。「ガラス屋に踏み込んだ象みたいだ」と言われたダヴィデ。このエッセイに登場する人物は、文章を読んでいるだけでも皆それぞれにくっきりと鮮やかに浮かび上がってくるのですが、その中でも爆撃で瓦礫の山となったミラノの都心をダヴィデと親友のカミッロ・デ・ピアツが颯爽と歩いているところは、まるで目の前で見ている情景のように感じられました。
しかし仲間との出会いもあれば別れもあり、須賀さんは最愛の夫を失い、書店の最初の理念も徐々に形を変えていきます。須賀さんが日本に帰ることを決意し、「銀の夜」でのダヴィデに別れを告げる場面が何とも美しかったです。そしてこの本を執筆し終えようとしてい須賀さんの元にはダヴィデの訃報が…。コルシア・デイ・セルヴィ書店と共に、1つの時代終焉を見たような思いがして切なかったです。

収録:「入口のそばの椅子」「銀の夜」「街」「夜の会話」「大通りの夢芝居」「家族」「小さい妹」「女ともだち」「オリーヴ林のなかの家」「不運」「ふつうの重荷」「ダヴィデに―あとがきにかえて」


「ヴェネツィアの宿」文春文庫(2005年11月読了)★★★★★お気に入り

日本でのこと、留学先のパリでのこと、そして同じく留学先であり、深く関わりを持つようになるイタリアでのことなどを書き綴った12のエッセイ。

日本でのこと、イタリアのことが、心に思い浮かぶまま自由に書きとめられたという印象のエッセイ。時系列順に並んでいるわけではありませんし、話はかなり前後しているのですが、しかし全体としては同じ色合いで、大きなまとまりを感じさせる1冊です。
先に読んだ「トリエステの坂道」では、イタリアで出会って結婚したご主人のペッピーノやその家族、イタリアでの友人の思い出などが中心に綴られていたのですが、こちらには主にもっと若い頃の出来事が綴られています。中心となっているのは、日本にいた頃の生活や、須賀さんご自身の日本での家族でのこと。それらの思い出が、フランスやイタリアでのエピソードに絡められているという感じです。実際に読んでいても、印象が強かったのはやはりこの日本でのエピソード。戦時中疎開させてもらった伯母夫婦の家のこと。贅沢が好きで、若い頃に1年かけてヨーロッパからアメリカを回った父親のこと。その父親に愛人がいるのを知ってしまったのが20歳の頃。父は家を出てしまい、残された家の雰囲気を明るくするのは、須賀さんと妹さんの役目。読み始めた時は、短気で暴力をふるう身勝手なイメージを受けた父親なのですが、やはり父と娘の繋がりは濃かったのですね。最後の「オリエント・エクスプレス」でそのイメージが覆されるシーンが堪らなかったです。そして個人的にとても印象に残ったのは、大学時代の学生寮でのことを綴った「寄宿学校」の章。時代はかなり違いますが、私も須賀さんと同じ風景を見ているので、嬉しくも懐かしかったです。
やはり須賀さんの端正な文章は本当に美しいですね。真っ直ぐな視線は物事の本質を見極めて、良いことも悪いことも落ち着いた静かな文章で描き出していきます。若い頃の「ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた」という須賀さんが、それでも一歩一歩着実に、階段を踏みしめるように歩いていった様子が良く分かります。できることなら、須賀さんのような年齢の重ね方をしていきたいものです。

P.287「これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。」

収録:「ヴェネツィアの宿」「夏のおわり」「寄宿学校」「カラが咲く庭」「夜半のうた声」「大聖堂まで」「レーニ街の家」「白い方丈」「カティアが歩いた道」「旅のむこう」「アスフォデロの野をわたって」「オリエント・エクスプレス」


「トリエステの坂道」新潮文庫(2005年4月読了)★★★★★お気に入り

トリエステ出身のユダヤ人詩人・ウンベルト・サバ。サバに引かれた「私」は、文化的にも地理的にもイタリアの辺境の地であるトリエステを訪れます。自分たちをイタリア民族と考え、イタリアに強い憧れを持ちながらも、オーストリアに隷属していたことから、ドイツ語文化圏との精神的な繋がりを断ち切ることのできないトリエステは、「ふたつの世界の」街なのです。

須賀敦子さんのエッセイ集。しかしエッセイとは言っても、須賀敦子さんを中心に早くに亡くなってしまったご主人のペッピーノとその母親である姑、義弟・アルドとシルヴァーナの夫婦、その息子のカルロといった「家族」、そしてイタリアで出会った人々といった登場人物が生き生きと肌理細やかに描かれており、まるで小説を読んでいるようでした。場面場面も鮮やかに浮かんできます。特にトリエステの街の情景は、自分も須賀さんのように歩いているような気がしたほど。ただ、相当の良家の子女であったことが分かる須賀敦子さん。大学出の知的な男性と結婚したとはいえ、その男性の家はごく貧しい家の出身。しかもご主人は結婚7年で亡くなってしまいます。この辺りにはかなりの葛藤があったのではないかと思いますが… しかしご主人の死後もそちらの家族とは暖かい付き合いを続けているのが素敵ですね。
穏やかに優しく包み込んでくれるような上質なエッセイ。文章も美しいのですが、それ以上に須賀さんの育ちのよさと愛情の深さを感じます。しかも芯の強さもあるのですね。ご主人のペッピーノも、亡くなってしまった後でも愛情深いまなざしで菅さんを静かに見守っている、そんな感じがしました。そしてここで取り上げられているサバの詩も気になります。また機会を作って読んでみたいです。

収録:「トリエステの坂道」「電車道」「ヒヤシンスの記憶」「雨のなかを走る男たち」「キッチンが変った日」「ガードのむこう側」「マリアの結婚」「セレネッラの咲くころ」「息子の入隊」「重い山仕事のあとみたいに」「あたらしい家」「ふるえる手」「古いハスのタネ」


「本に読まれて」中公文庫(2005年5月読了)★★★★★お気に入り

大学卒業後フランスに留学、その後結婚でイタリアに住むことになり、翻訳家・エッセイストとして活動されていた須賀敦子さんの書評集。海外の小説を中心に、古典や詩集、そして日本の作品など沢山の作品が紹介されていきます。

私は新聞の書評欄など、プロの書評家の書評をあまり読んだことがないので、それらの書評との比較は全くできないのですが、とても切り口が斬新で、それでいて初々しい印象がありました。相当沢山の本を幅広く読んでらっしゃるのだと思いますが、本を読むこと書評を書くことに慣れているという印象など与えず、いつでも本に真摯に正面から愛情を持って本と向き合い、感じたことを素直に綴っているという姿勢が感じられます。書評とは言っても、これは既に須賀さん独自の世界。本を題材としたエッセイと言ってもいいのではないかと思います。ただ、ここに紹介されている本のほとんどが手に取っていない本だったので、それだけが少々残念。もし作品を読んでいれば、おそらくもっと深く楽しめたのでしょうね。それでも紹介を読んでいるだけでも十分楽しかったです。1冊ずつの分量がそれほど多くなく、本について熱く語り過ぎないというのが大きいかもしれません。さらっとしていながら、人生と教養の深さを感じさせる視点の鋭さはさすが。そして先日須賀敦子さん翻訳のアントニオ・タブッキ「インド夜話」を読んだばかりなので、その書評や本にまつわるエピソードが特に興味深かったです。
ここに紹介されているような文学系の作品、特に須賀さんが傾倒してらっしゃるは池澤夏樹さんの作品も読んでみたくなりました。そういった作品を読んでからまたこの本を読み返すと、自分が気付かなかった一面に気付かせてもらえそう。長く楽しめそうな1冊です。


「こうちゃん-KO-CIAN」河出書房新社(2007年8月読了)★★★★★お気に入り

どこの子なのか、だれひとりとして知らないけれど、そこに確かに存在している「こうちゃん」。そんなこうちゃんのことを書いた絵本。須賀敦子さんが唯一遺したという小さな物語に、酒井駒子さんが画をつけたものです。

絵本と言っても差し支えないとは思いますし、こここに書かれている言葉は決して難しいものではありませんが、子供向けの物語とは言えなさそうです。平仮名の多い、ゆったりとした文章はとても優しくて、読んでいる人を包み込んでくれるよう。するっと心の隙間に入り込んで、ひび割れた部分を埋めてくれるようです。しかし字面を追うのは簡単なのですが、そこに含まれている意味は難解。「こうちゃん」とは一体誰なのでしょうね。私には、ふとした瞬間に感じられる明るい光のようなものに思えました。ふとした拍子にするりと逃げ去ってしまうけれど、確かに存在するもの。日々柔らかな心で暮らしていないと、すぐに見えなくなり、見失ってしまうもの。それはすぐそこまでやって来た次の季節の予感かもしれませんし、思い出すだけで心が温まるような幸せな思い出かもしれません。日々の心のよりどころかもしれません。
本を見る前からきっと合うだろうとは思っていましたが、酒井駒子さんの柔らかく暖かな絵がとても素敵で、須賀敦子さんの文章に本当にぴったりでした。とは言っても、須賀敦子さんの文章をそのまま絵にしたという感じではなく、須賀敦子さんの文章から浮かび上がってくる情景と、酒井駒子さんの描く絵が対になって、見事なコラボレーションとなっているように感じられました。


「須賀敦子全集1」河出文庫(2007年11月読了)★★★★★お気に入り

「ミラノ霧の風景」…10年以上暮らしたミラノの風物で一番懐かしいのは霧。11月になると灰色に濡れた霧が出たのを懐かしく思い出すのです… 須賀さんがイタリアで過ごした20代後半から40代始めの日々を、そこで知り合った友人たちの思い出を交えて描くエッセイ。
「コルシア書店の仲間たち」…留学生としてローマで勉強していた時に、ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の紹介でコルシア・デイ・セルヴィ書店のメンバーに紹介されたのは、1960年のこと。それは以前からこの書店に興味を持っていた須賀さんにとって、まさに最初の扉が開いたような出来事でした。
「旅のあいまに」…「ミセス」誌に連載されていたエッセイ。日本に帰ってから出会った人々や、パリに留学していた頃のことなど、生まれ育った国も時代も違う人々との印象的なエピソードを綴ります。

「ミラノ霧の風景」は、1991年度の女流文学賞、講談社エッセイ賞受賞作品。「コルシア書店の仲間たち」だけは既読。
文章を読んでいるだけで、まるでそこに描かれている須賀敦子さんの友人たちの姿が見えてくるような気がするエッセイ。おそらく須賀さんご自身、友人たちや彼らにまつわる様々なエピソードどのことを思うだけで、その情景が色鮮やかに蘇ってくるのでしょうね。
特に「ミラノ霧の風景」は須賀さんの最初の作品だけあって、イタリアでの友人たちへの深い愛情と、今は彼らと離れて日本で暮らし、もう会えないまま一生を過ごすことなるかもしれないという寂しさがないまぜとなっています。しかし同時に、日本にいてもイタリアにいてもどこにいても、須賀さんが環境に呑まれてしまうことなく、人柄の暖かさが友人との暖かい交流を呼び、イタリアでの日々を濃く充実したものにしていったのがよく分かります。以前「ヴェネツィアの宿」を読んだ時にも、良いことも悪いことも真っ直ぐな視線で受け止めているという印象が強く残りましたが、久しぶりに須賀さんの作品を読んでみると、改めてそれが感じられました。「アントニオの大聖堂」の章に書かれている、ガッティの行動に対するルチアの言葉にはっとさせられた時のように、よく知っているはずのイタリア人の友人たちの違う面を直視させられることは度々あったのではないかと思いますし、ここには書かれていませんが、嫌な思いをされたことも幾度となくあったのではないかと思います。しかしたとえそういった場面に遭遇しても、須賀さん自身の双方に対する態度は全く変わらなかったはず。須賀さんが自分をしっかり持っているというのも、安心して読める大きな要素の1つなのでしょうね。そして自分をしっかり持っているといえば、「マリア・ボットーニの長い旅」の章で、突然ボルゲーゼ公爵令嬢のカヴァッツァ侯爵夫人に招かれて宮殿を訪れて緊張したというエピソードがありますが、突然の思いがけない出来事に本人はすっかりあがってしまったと感じていても、実は傍目にはそれほどまでに緊張しているようには見えなかったのではないか、多少照れながらもしっかりと受け答えをしていたのではないか、などと勝手に想像してしまいます。


「須賀敦子全集2」河出文庫(2007年12月読了)★★★★★お気に入り

「ヴェネツィアの宿」…日本でのこと、留学先のパリでのこと、そして同じく留学先であり、深く関わりを持つようになるイタリアでのことなどを書き綴った12のエッセイ。
「トリエステの坂道」…トリエステ出身のユダヤ人詩人・ウンベルト・サバ。サバに引かれ、文化的にも地理的にもイタリアの辺境の地であるトリエステを訪れると、そこは「ふたつの世界の」街でした。
「エッセイ/1957〜1992」

「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」は既読。
須賀敦子さんの全集も、後半になると専門的なイタリア文学研究だったりキリスト教色が強かったりするので、やはりこの辺りのエッセイが一番読みやすいですね。1957年から1992年のエッセイでは、フランス語とイタリア語、そしてフランスとイタリアの国民性や文化の違いについて触れている部分が特に印象に残りました。フランスには2年滞在したのに、フランス語「いっこうにモノにならなかった」のに比べ、イタリアにはたったの2ヶ月の滞在で、須賀さんは日常会話に不自由しない程度 に話せるようになったという話。もちろん、英語やフランス語は日本の学校での勉強、イタリア語は現地の外国人大学だったという環境の違いは大きかったでしょう。しかしフランスでは言葉に関連して随分嫌な思いもしたのに比べて、イタリアでは須賀さんが1つ単語を覚えるたびに喜んでもらえることもあり、イタリア語には ずるずるとのめりこむように取り組んだのだそう。「パリの早口のフランス語になやまされていた私は、イタリアに来て、ほっとした。まだほとんどその国のことばは知らなかったのだが、イタリア語のゆるやかさ、音楽性がたいそう身近で、やさしい感じをうけたのである。そのせいか、自分にもわからぬ速さ、自然さで、イタリア語をおぼえることができたように思う。」という言葉が、とても印象的でした。フランス語を少し、イタリア語をほんのわずか齧った身としては、須賀さんの言っていることはとてもよく分かる気がします。ほんの2ヶ月でイタリア語をマスターしたと聞くと、まるで語学の天才のように思えてしまいますが、イタリア語なら確かにそれもあり得る話だと思うのです。発音的に日本語と近いイタリア語、そしておおらかな国民性。当初はフランスに留学しながら、イタリアにのめりこみ、結局イタリア人と結婚することになった須賀さんの軌跡がとてもよく分かります。


「須賀敦子全集3」河出文庫(2007年12月読了)★★★★★お気に入り

「ユルスナールの靴」…20世紀フランスを代表する作家の1人、マルグリット・ユルスナール。そのユルスナールやその作品に、自分自身の軌跡に重ね合わせていくエッセイ。
「時のかけらたち」…旅を通して出会った様々な人、訪れた街。そこで出会った建造物。ローマのパンテオン、アラチェリの大階段、パリのサント・ジュヌヴィエーヴ図書館、南仏ガールの水道橋などを描いた12のエッセイ。
「地図のない道」…ユダヤ人たちが高い塀に閉じ込められるようにして住んでいたゲットと呼ばれる地区、、トルチェッロのモザイクの聖母像、治癒の見込みのない人間が入るイメージが根強い病院やコルティジャーネと呼ばれる高級娼婦。主に水の都・ヴェネツィアの影の部分を訪れた旅と記憶の旅。
「エッセイ/1993〜1996」…18編のエッセイ。

「ユルスナールの靴」は、マルグリット・ユルスナールの評伝とも言える作品。しかしこの作品の特徴は、須賀敦子さんがユルスナールその人やその作品、登場人物に、ご自分のことを重ね合わせられていること。ユルスナールのことを書いているようでいて、書いているのは須賀敦子さんご自身のことであり、やはりユルスナールのことでもあり、その交錯した世界に引き込まれます。話が様々な方向に飛んでいるのにこれほど読みやすいのは、やはり一環した須賀さん独自の世界があるからなのでしょうね。そして自分の血肉となるほど、ユルスナールの作品を深く読み込んでいるからなのでしょう。
「時のかけらたち」は、須賀さん最後の作品というエッセイ。登場する須賀さんのお友達はいつものコルシア書店の面々ではなく、留学時代の友達だったり、日本から訪ねて来た人だったり。ヨーロッパの古い建造物や美術品について触れているのですが、もちろんそれは日本から観光客としての視点ではなく、現地に暮らした人間としての生きた感情を描いたもの。特に「舗石を敷いた道」が印象に残りました。若い頃に「舗石を敷いた道」という言葉を見た時に脳裏に広がった、白い舗石が広がるイメージ。日本に帰ってしばらくすると、無性に懐かしくなる歩きにくいはずの舗石の道。そしてウェルギリウスの「アエネーイス」の中に登場する美しい都市・カルタゴ。ウェルギリウスの描き方から見えてくる建築好きのローマ人と、自分が建てるべき都市をカルタゴに見てしまったアエネアス。以前読んで理解しきれていなかった「アエネーイス」が、須賀さんの文章ですんなりと入ってきたような気がしますし、足の裏からその都市を感じるというのも、「ユルスナールの靴」の冒頭の靴のエピソードとあいまって、すんなりと染み入ってくるようです。
「地図のない道」では、堅牢な陸地のようでいて実は水に浮かぶ島・ヴェネツィアを取り上げています。この3巻は、全体を通して人間の足元について考えさせられる1冊となっているのですね。


「須賀敦子全集4」河出文庫(2007年11月読了)★★★★★お気に入り

「遠い朝の本たち」…今となっては「遠い朝」となってしまった少女の頃。イタリアに行く前の須賀敦子さんが魅了され、血肉となった本を中心に、その本にまつわる様々な情景を紹介していくエッセイ。
「本に読まれて」…1988年から1995年にかけて発表された書評を中心とした作品集。海外の小説を中心に、古典や詩集、そして日本の作品など沢山の作品が紹介されていきます。
「書評・映画評ほか」…1991年から1997年にかけて発表された、書評を中心とした単行本未収録作品。

「遠い朝の本たち」は、須賀敦子さんが病床でも推敲を加え続けたという最晩年の作品。少女時代から大学生時代にかけての本にまつわる、家族や友人など様々なエピソードが紹介されるエッセイです。「本に読まれて」は既読。
多くの本が紹介されており、その本によって時代が違うということもあるのですが、自分がいかに今まで読むべき本を逃してきたのかということを目の当たりにさせられてしまいます。そして読み方の深さにも。この作品を読む限り、本を読んで感じたことを素直に表現しているだけといった印象なのですが、実際にはその「素直に表現する」ことのどれだけ難しいことか。須賀敦子さんでも、「語り足りない」「語りすぎた」と感じたことはあるのでしょうか。本を通して受ける印象からは、おそらくかなり気にするタイプだったのではないかと思うのですが、実際にはそれぞれの本について全く過不足なく触れており、しかもその本が須賀さんの中でどのように血肉になっていたのかが手に取るように分かるような気がします。これはやはり「葦の中の声」で、アン・モロウ・リンドバーグのエッセイを読んだ時に感じたことに大きく繋がってくるのでしょうね。「アン・リンドバーグのエッセイに自分があれほど惹かれたのは、もしかすると彼女があの文章そのもの、あるいはその中で表現しようとしていた思考それ自体が、自分にとっておどろくほど均質と思えたからではないか。だから、あの快さがあったのではないか。やがて自分がものを書くときは、こんなふうにまやかしのない言葉の束を通して自分の周囲を表現できるようになるといい、そういったつよいあこがれのようなものが、あのとき私の中で生まれたような気がする」… 私には須賀さんの文章こそ、「均質」で「まやかしのない言葉」だと感じられるのですが。
もちろん出会った本だけでなく、周囲にいた人々の存在も大きかったでしょうね。特にイタリアに行った後も日本語が駄目にならないようにと森鴎外訳の「即興詩人」を送ってきた父親の存在は印象的。そして少女時代に体験した戦争。戦争など体験したくないのは当然なのですが、失うものが大きければ大きいほど得るものも大きいのかと改めて思ってしまいます。

P.117「古典はいつも磨かれたダイヤモンドのような多面性で私たちをおどろかせる。」


「須賀敦子全集5」河出文庫(2008年4月読了)★★★★

「イタリアの詩人たち」…ウンベルト・サバ、ジュゼッペ・ウンガレッティ、エウジェニオ・モンターレ、ディーノ・カンパーナ、サルヴァトーレ・クァジーモドという現代イタリアを代表する5人の詩人についてのエッセイ。
「ウンベルト・サバ詩集(翻訳)」「ミケランジェロの詩と手紙(翻訳)」「歌曲のためのナポリ詩集-17世紀〜19世紀(翻訳)」

「須賀敦子全集」のほとんどがエッセイであるのに対し、この第5巻は須賀敦子さんによる翻訳が中心。最初の「イタリアの詩人たち」こそ現代詩人たちの紹介と批評になっていますが、それ以降は全て翻訳です。読んでいると、これこそが須賀敦子文学の原点という印象。やはりイタリアの文学、特に詩を愛していたからこそ、あのエッセイの文章が生まれてきたのでしょうね。
特に最初の「イタリアの詩人たち」は、イタリアの文学、特に詩を愛していた須賀敦子さんの核心に迫る部分なのではないでしょうか。5人の詩人たちの作品とその魅力が、それぞれに美しく、1人1人の詩人に相応しい言葉で翻訳されていきます。私自身にはほとんど詩心と言えるものがないのですが、それでも須賀敦子さんの透明感のある言葉を読んでいると、身体に沁み込んでくるものを感じますし、声に出して朗読してみたくなります。そして私が特に気に入ったのは、精神分裂症のために放浪と病院生活を繰り返しながら散文詩を書いていたというディーノ・カンパーナの作品。散文なので分かりやすいという部分もあるのですが、とにかく美しい情景が目の前に広がります。須賀敦子さんも書いていますが、狂気の中にいながらも、むしろ狂気の中に生きていたからこそ、純粋に詩の世界を追求することができたというのは、やはり詩人として幸せなことだったのでしょうね。

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