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このページは、中沢新一さんの本の感想のページです。

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「人類最古の哲学-カイエ・ソバージュI」講談社選書メチエ(2007年3月読了)★★★★★

国家や一神教が発生する前の人類は、神話という様式を通して、宇宙の中における人間の位置や、自然の秩序、人生の意味などについて深い哲学的思考を行ってきました。のちの宗教とは違って、常に現実世界への強烈な関心と、その世界を知的に理解したいという欲求を持ち続ける神話には、素朴ではあっても複雑な論理体系が存在し、人間の実存の意味を示しています。ギリシャで作り出された「哲学」の歴史がたかだか2500年なのに比べ、「はじまりの哲学」である神話の歴史は少なく見積もっても3万数千年。そこには人間が蓄積してきた知恵と知性があり、中石器時代から新石器時代にかけて急速に世界中に広がったのです。ここでは主に、民話として語られながら神話としての特徴も失っていない稀有な例である「シンデレラ」の物語を素材として、神話について考えていきます。

主に大学で行われた「比較宗教論」の講義の記録が全5冊にまとめられたうちの第1巻。ここでの主題は「神話」。
古事記や日本書紀にポリネシア神話と共通する部分があったり、世界中に似たようなモチーフの神話や民話があるというのは以前から気づいていましたが、これはやはり地球上における人類の移動によるものだったのですね。語られ伝えられるうちに少しずつ変化していくのですが、神話は論理的全体性を備えているので、この変形には一定の規則があるのだそう。ラヴェルの「ボレロ」のように少しずつ主題を変えて変形しながら、という中沢氏の言葉にぴったりです。
この中で一番興味深かったのは、やはりこの本の大半を占めるシンデレラ物語の考察。ペローとグリムのシンデレラはよく知られていますが、世界中にシンデレラの物語があったのですね。ロシア〜トルコ・ギリシャの「毛皮むすめ」はグリムで読んだことがありますが、ポルトガルや中国のものは今回が初めて。ペローやグリムの物語にも神話の一部分が残っていることが徐々に分かってきますが、比べてみるとかなり破綻してしまっているのは一目瞭然。元々は生と死の仲介が綺麗な図を描くような構造となっていたのですね。そして落とした片方の靴のエピソードがオイディプス伝説に繋がっていくのには驚かされました。
更に面白いのは、ヨーロッパ版のシンデレラを聞いた北米のミクマクインディアンが作り出したシンデレラ。これを読むと、神話の次元がまるで違うことに気づかされます。こういった作品を作り出せるということは、それだけ生活の中に神話が根付いているということなのでしょう。
現代日本のバーチャル文化は、神話的思考の様式だけを温存している状態だという言葉には非常に納得です。

+シンデレラメモ 民話編+
ペロー「サンドリヨンまたは小さなガラスの靴」…
   フランスの民間に伝わっている話をルイ14世の宮廷で語るために洗練させたもの
   サンドリヨン(灰まみれ)、妖精のゴッドマザー、かぼちゃの馬車、2人の姉とも和解
グリム「灰かぶり少女」…ドイツの民間に伝わっている話を忠実に写し取ったもの
   ヘーゼルの小枝、豆の試練、鳥、2人の姉は足の指や踵を切り取る、鳩に目を潰される

全ての神話や民話において、冒頭での欠落が冒険に繋がる
シンデレラの社会的機能とは、最も高いものと最も低いものを結び付けること
そのためには予め社会的な分離の設定が必要
仲介役として登場するもの
  ヘーゼルの小枝…ヘーゼルは地上と天上を結ぶ木
  豆…男性性の中の女性的なもの、女性性の中の男性的なものをあらわす
      神話の中において穀物はより生命に近く、豆はより死に近い→生の中の死
      死者と生者の世界を媒介する働きがある
  カマド…火を使うことによって、人類の生活は自然状態から「文化」へと大転換
        人間の住む家の中で異界または他界との転換点となる・死者と生者の世界を媒介
        階級差のある社会では社会的に劣った仕事だが、神話的思考の時代には「特権」
  鳥…人間の生きる文化の世界と森の自然の世界の仲介役

ペローでは仲介者たちの役割を実感的に理解できなくなっており、魔法に頼っている
グリムでは仲介者を次々に登場させて連続性を作り出している
→ペローとグリムでは、グリムの方が神話的思考の作法に忠実

+シンデレラメモ 神話編+
ポルトガル「カマド猫」…
台所仕事が好きだといつもカマドのそばにいた末娘は、ある日美しい黄色い魚を食べるのが惜しくなり、部屋で飼おうとする。夜になると魚が井戸に放して欲しいと言い、娘はその通りにする。翌日、2人の姉が宴会に行っている間、魚に誘われて井戸に入った娘は美しく装わせてもらい、自分も王様の宴会へ。靴を落とす。戻ってきた娘は魚のプロポーズを受け、靴が入ることは示すものの王様との結婚は断る。しかし実は魚は魔法で姿を変えられた王子だった。

水界を通して二重の転換が行われる
仲介の欠如…王様と王子様、家族のほかの面々と末娘
魚との結婚は、族外婚の極端な例=死者や異界の存在との結婚

中国…9世紀(竹取物語と同時期)
洞主の呉氏は2人の妻を娶り、1妻が死に、やがて呉氏も死ぬ。遺された1妻の娘・葉限は継母に下働きにさせられる。ある日金色の目をした小魚を見つけて飼い始めた葉限。しかし継母は葉限の留守の間に魚を殺して食べてしまう。葉限が嘆いていると、天人が魚の骨が肥にあると言い、それに祈れば願いが叶えられると教える。魚の骨に出してもらった服で洞の祭りに行く娘。祭りで継母と妹に会った娘は慌てて靴を落とし、その靴は陀汗国の王様に売られる。王様は靴の合う娘を探して葉限を見つけて結婚する。

食べ終わった動物や魚の扱いには十分配慮が必要だという、自然に生きる人間の守るべき根本的な倫理観
異界の王が人間にくれる豊かな獲物や収穫のお返しに、丁寧な儀礼を通して動物の霊を送り返す

北米ミクマクインディアンの創作…
湖のほとりのインディアンの村外れ家に、普通の人には見えない人が偉大な猟師である男とその妹が住んでいた。この人を見ることができるのは妹だけで、他に見ることができる少女がいたら、この人と結婚できると言われていた。沢山の少女が見ようと試みたが失敗。同じ村に住む、妻を亡くした男の3人の娘の末娘は長女の折檻で火傷だらけ。服は白樺の皮、靴は父親にもらった古いモカシン靴。呼び名は「ボロボロの肌」。2人の姉には「見えない人」は見えなかったが、「ボロボロの肌」には「見えない人」が見えた。「見えない人」の妹が「ボロボロの肌」には見えているのを知り、家に連れて帰って娘を丁寧に洗うと、火傷や傷、汚れが落ち、髪も背も伸びて美しくなった。そして2人は結婚した。

他のシンデレラの物語では、王子は表面上が美しい娘を探し、娘も王子の目に留まるために着飾る
ミクマクインディアンの話では、シンデレラは着飾ることなく相手の男性を射止めている
王子にあたる人物すら「見えない人」となってしまう
→ペロー版シンデレラの「見えること」「見ること」「見せること」への偏執に対する批判

ペローはおそらくかまどの本当の意味を理解していない
ミクマクインディアンは、少女に幸運がもたらされた意味をきちんと理解し、更にそれを強調するために「ボロボロの肌」という変形を行う
少女=カマド=人間の世界と霊の世界を仲介する
→ペロー自身が理解していなかったと思われるカマドの意味を真正な神話思考に引き戻そうとしている

ヨーロッパのシンデレラの王子は外見ばかりでできた世界を欲望の眼を通してみる
→「見えない人」は、美しい魂にしか興味がない
ヨーロッパのシンデレラは皆豪華な靴をはいている
→「ボロボロの肌」がぶかぶかの靴を水につけて縮めているのは、ヨーロッパ版に対するパロディ

シンデレラが脱ぎ落とした片方の靴…レヴィ=ストロースは「オィディプス神話」との関連を推測
大地からの離脱が上手くできないでいる(死者の領域に半分足を突っ込んでいる)人間は、片足が不自由にしか歩けなくなる
人間は大地から生まれ、大地に戻る
人間は大地に属しているが、それを否定しつつ帰属する=実存の矛盾

シンデレラは地下の死者の世界(グリム)、野獣の世界(ペロー)とと深い関わりがあり、地上と大地を仲介できる代わりに靴のの片方を失って不自由な歩き方をする必要があった。
シンデレラの靴=死者の国へ行ったものの印であり、それを求めて使者がやって来る

ロシア〜トルコ・ギリシャ「毛皮むすめ」
パディシャ(殿様)夫婦に念願の子供が生まれる。しかし妻は産後すぐに死んでしまう。その遺言は「再婚するなら、この腕輪がぴったり合う娘と」。娘が17歳になった時、パディシャは腕輪の合う女性を探し始めるが見つからず、唯一ぴったりだったのは実の娘のみだった。パディシャは娘と結婚すると決め、娘は羊の皮を被って城を脱出。別の都に行き、毛皮むすめだと名乗って城に一室をもらう。パディシャの息子の嫁探しの宴会が3日間あり、毛皮むすめもこっそり参加。王子の金の毬を受けとめる。王子は金の毬を持つ娘を探すために旅に出るが、途中で毛皮むすめにもらったパイの中に毬があるのを知る。

動物の皮も灰と象徴的には同じであり、死者の領域に近づけさせる
オイディプス神話の近親相姦の変形がここに見られる


「熊から王へ-カイエ・ソバージュII」講談社選書メチエ(2007年3月読了)★★★★

神話とは本来、国家を持たない人々の間で生まれて発達してきたもの。そこでは人間と動物とのどちらか一方が優位な立場に立つこともなく、人間は「文化」を持ち、動物たちは「自然」状態を生きていると考えられていました。動物たちは「自然」状態を生きることによって「自然の力」の秘密を握っており、人間は神話や儀礼を通して、動物との間に失われた絆を取り戻し、その「自然の力」の秘密に触れようとしていたのです。しかし国家ができ、「文化」が「文明」になると、人間と動物との対象性のバランスは失われ、「文明」と「野蛮」の違いが意識されるようになります。この巻では、自然権力がの象徴が「熊」であった時代から、人間の「王」が発生するまで。そして現代国家に対抗し得る「仏教」について。

カイエ・ソバージュ2巻目。
冒頭からアメリカの同時多発テロと狂牛病が同一線上で語られ、そこに神話の思考の不在が深く関わっているということに驚きましたが、宮沢賢治の「氷河鼠の毛皮」に描かれている、非対称の現実に無神経になっている人々の姿や、国家の生み出した貧富の差や階層社会、トンプソン・インディアンのような狩猟民族の神話に見られる狩人として守るべき倫理やエコロジー哲学などを考えていく言葉を読むと、その意味がよく分かります。神話時代の人々の世界では、人間と動物の間に溝など存在せず、生活のために動物を殺す時も、相手の尊厳を傷つけないように丁重に扱っていたといいます。しかも動物はその毛皮を脱げば、動物は人間ともなり、人間との間に子供が生まれるような伝承も数多く存在するのです。それがいつの間にやら変質してしまい、現代社会の圧倒的な非対称性、そして神話的思考の欠如が、簡単に相手を野蛮人呼ばわりさせ、テロを起こさせ、狂牛病の牛を大量虐殺しても何も感じないような世の中にしているのだと中沢氏は言います。
動物と人間が交流する対象性社会ではあり得なかった王や国家の発生は、新石器社会のある時点で異変が生じたために起きたようです。本来、権力の源泉が社会ではなく自然にあった時、首長には強制力はありませんでした。しかし冬の祭りの期間だけのはずだった「人食い」(熊の発揮する威力=自然のおくに潜む力能=権力の象徴)の自然の権力が祭りが終わってもとどめられ、あるいは特別な時間と空間においてだけ権力を与えられていたはずの戦士やシャーマンが、それまでの首長の地位を奪い、その結果王が生み出されることになります。それまでの首長が理性によって権威を示し支えられていたのに対し、王の権力は盛大な宗教的儀式によって演出され、国の下す命令や決定は、たとえ理不尽なものでも従わねばならないという、対称性社会では見られなかった理不尽が発生することに。ここで例として出されているのは、スサノオノミコトによる八岐大蛇退治。八岐大蛇が「人食い」で、それを殺したスサノオノミコトに「人食い」が移って自然権力を体現する者となり、首長の娘を性的に食べることによって2重の意味で「人食い」としての王の特質をあらわしているのだそうです。八岐大蛇から出てきた草薙剣は王権の象徴。自然や人々を一方的に支配しようとする国家は、本質的に野蛮だというのです。自分の中では「文化」と「文明」はほぼ同一線上にあるものでしたし、そういった考え方があるとは思ったこともなかったので意外でしたが、こうやって読んでいると説得力がありますね。こういった「国家」に対抗する思想として、仏教を考察しているのも合わせて、とても面白かったです。


「愛と経済のロゴス-カイエ・ソバージュIII」講談社選書メチエ(2007年3月読了)★★★★

一見、正反対の存在に見える「愛」と「経済」。しかしこの世に純粋に合理的なものなど存在せず、ましてや経済を動かしているのが人間の欲望である以上、経済現象のもつ合理性は、表面に現れた偽りの顔。実は「経済」とは暗い生命の動きにまで奥深く根を下ろした、1つの「全体性」を備えた現象であり、その深層の部分で愛と融合しているのです。

カイエ・ソバージュ3巻目。
今回のテーマは「経済」。しかも「愛」と「経済」を結び付けるという、意表を突く試み。しかし学問的には決して結び付けられることのないこの2つも、文学の中では古くからこの問題に取り組んでいるのだそうです。しかし例えば志賀直哉の「小僧の神様」を理解するには、通り一遍の経済学などではなく、経済学や哲学や人類学などの思考を総動員しなければならないと言います。例えば宮沢賢治の「氷河鼠の毛皮」が取り上げられていた時も感じましたが、短い物語の中から、これだけのことを読み取れるとはやはりすごいですね。たかが小説を読む作業にも、読む人間のバックボーンとなる知識が総動員して、感想を書くという作業はその人間をさらけ出すものなのだと再認識させられてしまいます。そして「小僧の神様」とC.ボードレールの「贋金」は反転像。
資本主義が確立されるまでのことが色々な方法で語られているのですが、一番面白かったのは「交換」「贈与」「純粋贈与」について。経済の働きを支えているのはこの3つの組み合わせで、これらがしっかりと結び付いて、互いに分離しないようになっているのだそうです。「交換」と「贈与」の関係については容易に予想できることですが、そこに「純粋贈与」が入ることによって、様々なことが説明できてしまうものなのですね。そしてニーベルンゲンの指環や聖杯伝説などを通して、貨幣が生まれ、資本主義が生まれてくるまでの過程を読み解いていきます。
「純粋贈与」と「贈与」が結びつく時、そこには「たましい=霊力」の躍動をはらんだ純生産が生まれてくるのですが、「純粋贈与」と「交換」が接触すると資本の増殖が起こり、それは「たましい」の活動を押し殺すもの。だから資本主義の豊かさは所詮物質的な豊かさで、たましいの豊かさではないのだとのこと。とはいえ、その2つの増殖の形を結び付けたのが現代のクリスマス。元々のクリスマスは、「熊から王へ」でも出てきたふゆの祭りとキリスト教が合体したもの。純粋贈与の力を秘めた様々な霊的な存在が訪ねてくるため、人々はその存在に贈り物をすることによって富の増殖をしたのだそうです。そして霊たちの存在に近い子供たちは、大人から贈り物を強奪する権利があったとのこと。これはハロウィーンも連想させますね。そしてそのクリスマスに資本主義が目をつけて、1940年代に、資本の増殖と霊の増殖のどちらもお祝いできる現代のクリスマスを作り出したのだそう。

+「交換」「贈与」「純粋贈与」メモ+
「交換」…商品経済を支える
     …商品はモノであり人格や感情は含まれない・等価交換・価値が確定的
「贈与」…人と人を結び付ける
     …モノを媒介に感情や意味が篭められる・適当な期間を置いて返礼・価値は不確定

・古代の贈与社会では、貴重品の移動と共に霊力も動くと考えていた。霊力の流動を止めないために、一定の期間を置いて滞りなく贈与が行われなければならない
・交換は贈与の中から発生し、そこに商品が生まれる

「純粋贈与」…神の領域
        …贈り物と返礼のような、贈与の循環を飛び出している
        …モノの物質性や個体性は、受け渡された瞬間破壊されることを望む
        …一切記憶されないことを望み、一切の見返りは期待しない
        …目に見えない力によって行われる

・「贈与」は「純粋贈与」に触れるたびに霊力を増す
・「増殖」の鍵を握るのは「純粋贈与」


「神の発明-カイエ・ソバージュVI」講談社選書メチエ(2007年11月読了)★★★★

日本語の「神」という言葉は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教のような一神教の「神」を表すと同時に、日本古来の自然現象と結びついている八百万の神々を表す言葉でもあります。一神教の神は「ゴッド」であり、多神教の神々は正確には「スピリット」。「ゴッド」は本来「スピリット」の1つであり、それまでスピリットの環の中にあった「ゴッド」がその輪を抜け出して単独の神として自立するようになったもの。しかしアメリカ先住民の「グレートスピリット」のように、「ゴッド」となる力を持っていながらも、スピリットの環から離脱することを否定してきた存在もあります。一体どのようなことが「ゴッド」の出現を促したのか、あるいは「ゴッド」の出現を否定したのか。今回の講義はこの2つの「神」の混乱に終止符を打ち、スピリットからのゴッドの発生をできるだけ精密に再現しようとするものです。

カイエ・ソバージュ4巻目。
唯一の神を信じる一神教と、あらゆるものにスピリット(精霊)が宿っているという考え方から生まれた多神教では、どうしても多神教の方が自然だと常々思ってきたのですが、やはり最初に生まれていたのは多くのスピリットが存在するという考え方の方。この本では、まずアマゾン河流域のジャングルに住むトゥカノ・インディアンを例に取って、幻覚性植物を使った集団幻覚集会を紹介しています。このインディアンは今でもその集会を行っているようですね。実際にその集会に参加した人類学者の報告も面白いです。しかしこういった幻覚症状は、幻覚性植物を利用しなくても体験することができるようです。例えば深い瞑想や電気的な刺激。あるいは完全な密室の中で静かにしているだけでも、じきに視覚野が発光しはじめるとのこと。そして一番興味深かったのは、その時に見える光のパターンの形状が、どのようなやり方を経て体験したものであれ、どれもとても似通っているという部分。中沢氏によると、こうした幻覚体験を説明するために人間は「スピリット」という概念が生みだしたとのことなのですが、それは結局のところ人間の「内部視覚」だったのですね。今まで私は、自分たちを取り巻く森羅万象の自然の脅威から身を守るために、スピリットという存在を信じるようになったのかと思っていたのですが、それは全くの逆だったようです。
そして数多くのスピリットの中には、威力と単独性を備えた「大いなる霊」も存在します。それこそが「ゴッド」の原型。ある条件のもとでスピリットの環を抜け出して一神教の「ゴッド」となるのです。しかしアメリカ先住民の「グレートスピリット」のように、結局「ゴッド」とはならないスピリットも存在します。その分かれ目は、そこに国家が存在するかどうか。王や国家を生み出す力が、「ゴッド」をも生み出すことになるようです。2巻の「熊から王へ」の話に繋がるのですね。この辺りは、考えたこともありませんでしたが、とても説得力がありますし面白いです。そして人間が生み出した「神」は、結局のところ、いと高き所にいる「高神型」と、海の彼方や死者の世界から訪れてくる「来訪神型」の2類型しかないのだそうです。
さらに今回面白かったのは、既にスピリットを排除してしまったように見えるキリスト教が、実は「父」「子」「聖霊」という三位一体によってスピリットをしっかりと組み込んでいたという部分。そこが同じ一神教のイスラム教とは違うところで、キリスト教はこのスピリットを受け入れることによって、多神教への妥協を表し、逆にその妥協が西欧文明に驚くべき強靭な骨格を作ることになったのだそうです。確かにユダヤ教やイスラム教には、聖霊の存在はありません。それがその後の展開を大きく変えることになったとは、想像もしていませんでした。


「対象性人類学-カイエ・ソバージュV」講談社選書メチエ(2007年11月読了)★★★★

神話を作り上げているのは、今日コンピューターを作動させている「二項操作」と同じ性質を持った思考の過程。神話の思考は本来科学と断絶するものではありません。神話は動植物や自然現象、社会関係といった具体的な事物を「項」として用い、その「哲学」を繰り広げていきます。しかし神話的な思考の中には、現実世界にある様々な非対称的な関係を否定したり乗り越えようとする、これだけは科学と相容れることのできない「対称性の論理」が潜んでおり、それが神話独自の思想を生み出すのです。カイエ・ソバージュ最終巻では、再び出発点である神話的思考の問題に立ち戻り、「対称性の論理」がはらむ可能性を探り出していきます。

カイエ・ソバージュ5巻目。

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