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このページは、梨木香歩さんの本の感想のページです。

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「ワニ-ジャングルの憂鬱 草原の無関心」理論社(2004年4月読了)★★★

海に近い河口に棲んでいるワニは、いばりんぼうワニ。自分の欲求に自然に生きる余り、周囲に多大なストレスを与えていることにも気付かず、今日も機嫌良く過ごしています。そんなワニがただひとり「親友」と考えていたのはライオン。ワニはライオンに憧れ、ライオンのようになりたいと思っていたのです。しかしある日食べようとしたカメレオンに、ワニは爬虫類でライオンは哺乳類だと教えられてしまいます。

「自然体で生きる」という言葉は口当たりが良いけれど、それは単なる我儘と紙一重。しかしジャングルや草原で生き残るためには、やはり我儘であるというのは重要なことなのかもしれませんね。ワニもワニの母も、カメレオンも、ライオンも、結局のところ自分が一番大切で、それぞれ自分なりに逞しく生きているからこそ、生き残っていけるのですから。そして、そんなジャングルや草原特有のはずの「生」が、人間社会の都会に住む人々の姿とどこか重なるのが面白いところですね。


「家守綺譚」新潮社(2004年6月読了)★★★★★お気に入り

南禅寺のほど近く。学生時代に亡くなった親友・高堂の家の守をすることになった綿貫征四郎は、細々と文章を書きながら、貧しい生活を送っています。そんな征四郎の前に、ある雨の日に現れたのは、死んだはずの高堂。床の間にかかっている水辺の風景の掛け軸の中から、ボートに乗って出てきたのです。

舞台となる時代としては、明治か大正でしょうか。まるで夏目漱石の「夢十夜」のような雰囲気。植物を題名に持つ短い物語が28収められています。現実の世界と異界の境目が曖昧で、ごく当たり前のように不思議なことが主人公の周りに起こります。それは亡くなったはずの高堂が掛け軸の中から出てきたり、主人公がサルスベリの木に惚れられたり、河童や小鬼といったあやかしが出てきたり、しかも河童と犬のゴローが懇意になってしまったりというようなこと。しかしそれらの不思議はこの世界の中にごく自然に存在していますし、そこを流れているのは、あくまでも静謐でゆったりとした空気。たまに主人公が妙な現象を目かけて慌てていると、隣家のおかみさんが「それは○○ですよ」と、これまたごく当たり前のように答えているのもいいですね。こういった雰囲気は大好き。現実にもあればいいなと思ってしまうのですが、しかしこういった存在は、今も私たちの身の回りに変わらずいるのでしょうね。おそらく、人間の目には見えなくなっているだけなのではないでしょうか。そして主人公と高堂の2人は、まるで京極堂と関口くんのようにいいコンビですが、隣家のおかみさんはもちろん、和尚や長虫屋や犬のゴローなども、とてもいい味わいを出していますね。
この1冊で、京都の四季の移ろいを味わえるのも嬉しいところ。読んでいると、穏やかな雰囲気ながらも、どこか背筋がぴんと伸びる思いがします。こういう物語は本当に大好き。古めかしい風情のある装丁も素敵です。手元に置いて、折にふれて読み返したくなるような作品です。

収収録作品:「サルスベリ」「都わすれ」「ヒツジグサ」「ダァリヤ」「ドクダミ」「カラスウリ」「竹の花」「白木蓮」「木槿」「ツリガネニンジン」「南蛮ギセル」「紅葉」「葛」「萩」「ススキ」「ホトトギス」「野菊」「ネズ」「サザンカ」「リュウノヒゲ」「檸檬」「南天」「ふきのとう」「セツブンソウ」「貝母」「山椒」「桜」「葡萄」


「村田エフェンディ滞土録」新潮社(2004年6月読了)★★★★

1899年。土耳古(トルコ)皇帝の招聘で、土耳古の歴史文化研究のためにスタンブールへとやって来た村田は、英国人のディクソン夫人の営む下宿に、独逸(ドイツ)人の考古学者・オットー、希臘(ギリシャ)・羅馬(ローマ)関係の異物の調査鑑定に当たっている希臘人のディミィトリス、土耳古人の下男・ムハンマド、そしてムハンマドの拾った鸚鵡と共に暮らしています。

国も違えば民族も違い、宗教も文化ももまるで違う中で生まれ育った4人が、アジアとヨーロッパの接点ともなるトルコで過ごした濃密な時間。価値観の違いに戸惑いながらも、村田他の面々と静かに友情を育んでいきます。こんな風に信頼し合い、分かり合える関係というのは、読んでいると羨ましくなってしまうほど。これは、少し仕事をしては、すぐに木陰で珈琲を飲み始める土耳古人たちを見ても、「国民性に関することは、善悪の判断を下さず、ただ驚きあきれるに留めておくことにしている」というような村田の姿勢による所も大きいのでしょうね。個性の強い人々を、村田の存在が柔らかく結び付けているようです。もちろん仏教徒、回教徒、基督教、希臘正教と宗教の違う人間が同居しているのですから、些細な言い回しが相手の気に障ることもあります。「どうも一神教というのは単純で困る。周りが迷惑する」「唯一絶対の神で、世の中をまとめ上げようと進んできた人間のいる理由が少し分かったでしょう。こんな騒動に毎日巻き込まれていたのでは平安はまず望めません」などのやり取りがとても面白かったです。
物語は淡々と流れるような文章で綴られていきます。トルコという異国の情景を描きながら、そこに見えるのは、どこか懐かしい風景。しかしスタンブールの街の喧騒が確かに感じられます。しかしラストの切なさは…。最後の鸚鵡の一声が何とも言えません。
ちなみにこの作品の主人公の村田は、「家守綺譚」の綿貫征四郎とは大学の同窓という関係。「家守綺譚」にもトルコから手紙が来たというように触れられていますし、この作品の終盤、帰国した村田は綿貫の家に寄宿することになります。

P.67「文化というものは洋の東西を問わず、成熟し、また尖鋭化してゆくと、言葉にその直接的な意味以上のものが付加され、土着のものにはそれを読み解く教育が、幼い頃から自然と施されてゆくものなのだろう。いわゆる『育ち』というのはそのことなのだろう。とすれば『育ちが違う』というのは、つまり、一つの言動を巡る解釈が違い、それに対する反応が違うということである。」


「ぐるりのこと」新潮社(2005年7月読了)★★★

日本や英国、そしてトルコ。梨木さんが訪れた土地にまつわる思い出や、そこから思い出した出来事、そして執筆当時の世相に関することなど、梨木香歩さんの周囲の様々なこと、「ぐるりのこと」が描かれたエッセイ集。

エッセイの題材は様々ですが、九州の山奥に建てた小屋とそのお隣との境界線、イングランドの丘陵地帯で断崖に感じた境界線、歴史上で起きた様々な出来事での加害者と被害者という境界線、トルコでの土地の女性たちと観光客との境界線など、様々に形を変える自己と他者の境界線について繰り返し語られていくのが特に印象的でした。子供の頃から垣根が好きだったという梨木さん。改めて考えてみれば、梨木さんの物語も全て境界線、境界線の向こう側、こちら側、そしてどちらでもない場所にまつわる物語だったのですね。
冒頭に書かれた、町のデパートのアクセサリー売り場の場面で素直に綺麗だと感嘆するおばあさんのエピソード、そして自分の感動に「きちんとした言語化の手間をかけてやることすらしないできたのだった」という梨気さんの言葉も印象的。しかしおそらく表現方法が違うだけで、本当は梨木香歩さんの繊細な感受性も常にきちんと感動を自分の中で言語化しているのでしょうね。広い視野で日々とらえた様々な出来事を1つ1つ確実に自分の物にしているという印象ですし、それらの積み重ねが梨木さんという方を作り上げているのをエッセイ全体を通じて感じます。
「ぐるりのこと」というタイトルは、京都周辺の茸の観察会の指導者だった吉見昭一氏の「自分のぐるりのことにもっと目を向けてほしい」という言葉から来ているのだそうです。素敵なタイトルですね。


「沼地のある森を抜けて」新潮社(2005年10月読了)★★★

化学メーカーの研究室で、他社製品の組成を調べる仕事をしている上淵久美は、亡くなった叔母の時子の遺したマンションとぬか床を受け継ぐことになります。葬式を取り仕切った加世子叔母の「家宝」という言葉を訝しみながらもマンションに引っ越し、ぬか床の世話を始める久美。しかし1週間ほど経ったある日、ぬか床の中に卵のようなものができていたのです。それはいびつな球形をした薄くブルーがかった物体。しかも取り出してしげしげと見入っていると、突然牛ガエルの鳴き声のようなものが大音響で響き渡ります。驚く久美。そしてしばらくすると、その卵の中から透明な男の子のようなものが生まれ…。

家宝だというぬか床の話から、物語は意外な方向へと展開していきます。最初の「フリオのために」「カッサンドラの瞳」という2章は日常ファンタジーの予感。しかし次の「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話I」は、久美の一族のルーツに深く関わっているのだろうということは想像できるのですが、まるで異世界ファンタジー。しかも「時子叔母の日記」や「安世文書」で謎が明かされた以降の物語は、あまりに壮大なスケールへと…。確かにぬか床は生きていますし、毎日の世話が重要。毎日のようにかき混ぜればおいしいぬか漬けを作ってくれますが、その世話をさぼれば腐ってしまうという代物。梨木さんの手にかかると、泥臭い印象のぬか床がこのような物語になってしまうのかというのが驚きでした。これは「ぐるりのこと」に書かれていた「境界線」に関する話を物語にしているのですね。
ただ、読み心地は良かったですし、引き込まれて読んだのですが、私が望んでいる以上に大きくなりすぎてしまったのが少し残念。本当はもっと好きな物語になったはずなのに… という思いが残ってしまいました。そして「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」I〜III は、結局どう読めば良かったのでしょう。しかしこの生命の神秘、「命を伝えていく」ということこそが、おそらく梨木さんが書きたいと思われたものなのでしょうね。

収録:「フリオのために」「カッサンドラの瞳」「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話I」「風の由来」「時子叔母の日記」「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話II」「ペリカンを探す人たち」「安世文書」かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話III」「沼地のある森」


「水辺にて-on the water/off the water」筑摩書房(2006年12月読了)★★★

アーサー・ランサムのシリーズのせいで水辺の遊びに心惹かれるようになったのだろうと自己分析する梨木香歩さん。ふとしたことでカヤックに乗る機会に恵まれ、どんどん夢中になっていったとのこと。琵琶湖や北海道、アイルランドやカナダの水辺にいる時に見えてきたことや感じたこと、そしてカヤックの上から見た水辺の風景などを綴る、Webちくまに連載されていたというエッセイ。

硬質で、冷たい水の清冽さを感じさせるエッセイ。
梨木香歩さんの作品には常に自然や生命の存在が大きく感じられていたのですが、これはそれらの作品を裏づけするかのような文章でした。梨木さんがカヤックに乗られるとは、このエッセイを読むまで知りませんでしたが、特に「家守綺譚」や「沼地のある森を抜けて」といった最近の作品では、水の印象が強かったので、こういう時間を大切に持っている人だったのだと、とても自然に納得です。ここで説明されているカヤックとは、極北等に住むイヌイットが工夫した船の1種。元々流木や鯨骨などで作ったフレームにアザラシの皮を被せ、デッキはクローズド、コックピットに半身を滑り込ませるタイプとのこと。そんなカヤックに夢中になり、忙しい日々の中、時には悪天候の合間を縫ってでも、時間をみつけて水辺へと向かう梨木さんの姿が微笑ましかったです。しかし当の梨木さんの目は、とても冷静にその水辺の情景を捉え、淡々と描き出していきます。まるで梨木さんご自身の思いが水鏡に映し出されていくよう。もしくは、梨木さんご自身の中に太古の海が存在しているよう。梨木さんはこのようにして、「自然」や「生命」と交信していたのですね。これを読むと、前作「沼地のある森を抜けて」という作品が生まれてきたその根源のところが見えてくるようです。
読んでいると、とても静かな物語を読んでいるような気持ちになれます。しかしそれだけだと少し距離の遠い物語になりそうなところだったのが、梨木さん言うところの「愚かな体験」のおかげで、ぐんと身近に感じられるのも嬉しいところですね。


「この庭に-黒いミンクの話」理論社(2007年8月読了)★★★

北方の国に来ている「私」は、ここ数日間、家の中にあったアルコールとオイル・サーディンで生きているような状態。そんなある日、「私」が窓のカーテンの隙間から外を見ると、門柱のところに立ってじっと庭を見つめている女の子がいました。ふらふらと外に出る「私」。そんな「私」に女の子は、「この庭に、ミンクがいる気がしてしようがないの」と言うのですが…。

文庫版「りかさん」に収録されている「ミケルの庭」の続編。その「ミケルの庭」は、マーガレットほとんど育児ノイローゼになりかけていたマーガレットが、ミケルが1歳になって乳離れしたのを機に同居している3人にミケルを任せて中国に短期留学に行っている間の物語。
続編とはされていても、「この庭に」が「ミケルの庭」の数年後の物語ですし、共通する登場人物がミケルだというだけで、物語としての繋がりは特にありません。物語としての展開も特になく、ほとんどアル中状態の「私」が見る妄想のよう情景が移り変わっていくだけ。ふと気づけば異世界に立っていたという感覚。現実の世界と異世界の境目がほとんどなく、読んでいると、立ち位置の不安定さがだんだん気になってきます。しかも精神的にかなり荒んでおり、殻に閉じこもってしまっているミケルの姿が痛々しいです。この不安定さは、もしやマーガレットの胎内にいた時に受け継いでしまったものなのでしょうか。彼女はこれからの人生、本当に真っ当に送れるのでしょうか。心配になると同時に、なんだか怖くなってしまいます。
須藤由希子さんの柔らかなモノトーンの挿絵が全編にちりばめられているので絵本のような雰囲気ですし、実際に書店や図書館では児童書と一緒に置かれているのですが、実は相当激しい物語ですね。指の先が痺れそうな冷たい雪の白が印象的。そしてモノトーンの挿絵の中に、血の赤が強烈でどきりとさせられます。


「f植物園の巣穴」朝日新聞出版(2009年6月読了)★★★★★お気に入り

学校を出てからずっと技官としてK植物園に勤務していた「私」に辞令が下り、任地のf郷に引越しすることに。新しい職場はf植物園。その転任の話が来たのは妻の三回忌の翌日。「私」は川の流れのように自然に仕事場と住まいを変えることになります。しかし引越しして間もなく、前年、旅先で痛んで現地の歯科医院で応急措置を受けていた歯が再び痛み出したのです。その不気味なほどの痛みに「私」は通りの煎り豆屋の主人の歯医者評を聞いた時に唯一名前を覚えられた、f郷歯科にかかることに。しかしその日痛み止めをもらって歯科医の受付を見ると、そこで働いていたのは犬。歯科医によるとそれは歯科医の妻で、前世は犬だったからだというのですが…。

昭和30〜40年代を思わせる古めかしい文章に誘われるように作品世界に一歩踏み出すと、そこはもう異世界。一見「家守奇譚」や「沼地のある森を抜けて」のような雰囲気なのですが、また少し違いますね。異界がはっきり異界として存在しているにもかかわらず、境界線はもっと曖昧ですし、さらにもう一歩踏み込んだ重層的な世界になってるような気がします。奥行きが広いのです。そして異界に入り込む感覚は萩原朔太郎の「猫町」のようでもあり、ずんずんと落ちていくところは「不思議の国のアリス」のようでもあり...。
そこは夢の世界なのか、それとも現実なのか。月下香の香りの中で旅する異界。そこには当然のように水があり、木々があり... この辺りは梨木さんの作品に頻繁に顔を出すモチーフですね。そして埋もれていた記憶が再び蘇ります。自分の目に見えているものは本当にその姿をしているのか、それとも自分の視覚がおかしくなっているだけなのか。無意識のうちに改竄されていく記憶を正しつつ進んでいくと、そこに見えてくるものは...。
まさに梨木香歩ワールド。歯医者という現実的極まりないモチーフですら、梨木さんにかかるとミステリアスになってしまうのですから素晴らしいです。虫歯の大きなうろが、植物園のご神木のうろへと繋がっていく辺りも面白いですねえ。そしてそのうろは、さらには記憶のうろへ。大気都比売神(おおげつひめ)は、アイルランドの年老いた女の姿の精霊・カリアッハ・ベーラへ、そして英雄クー・フリンや女神ブリジットといったアイルランド神話へ。入れ替わり立ち代り現れる千代という名の女性たち。何度も何度も裏返されているうちに、どちらが夢でどちらが現なのか分からなくなってしまいます。でもその分からない感覚がまた心地いいのです。どこをとっても魅惑的。いつまででも落ち続け、いつまでも漂っていたくなってしまいます。しかしその奥底までたどり着いた主人公を待っているのは、水による再生。彼は砂上の楼閣のようになっていた自分をたて直し、再び水によって生まれ変わることになるのです。やはり水は異界への転換点なのですね。
読み終えてみると、「家守奇譚」や「沼地のある森を抜けて」だけでなく、梨木さんのこれまでの作品全てがこの作品に流れ込んできているのを感じます。それこそ川の流れのように。もしくは大きく育っていく木のように。最後の思いがけない優しさが沁み入ってきます。

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