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このページは、倉橋由美子さんの本の感想のページです。

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「夢の浮橋」中公文庫(2009年5月読了)★★★★★

3月初め。両親と共に京都に着いた牧田桂子は、そこで両親と分かれて嵯峨野へと向かいます。桂子は嵐山の西山草堂で宮沢耕一と約束をしていたのです。耕一は桂子の大学の先輩であり、恋人。一足先に卒業した後、大阪の銀行で働いていました。しかし食事の後、2人で嵯峨野を歩いている時に桂子が見かけたのは、茶屋で床机に腰掛けて薄茶を飲む母と見知らぬ男性の姿。両親は揃って奥嵯峨の不昧庵でのお茶会に出ているはずなのですが…。そして耕一もまた、二尊院で母が中年の見知らぬ男と肩を寄せ合って階段を上っているのを見たと言います。

桂子さんシリーズ。先日読んだ「ポポイ」では「祖母」として登場した桂子さんが、まだ大学生だった頃のお話。大学(おそらく東大)に通う桂子さんが大学を卒業して結婚して… という辺りまでの物語です。
読んでいると、まるで満開の桜の花を見ているような気分にさせる作品でした。とてもとても美しいのに、それでいてどこか不気味なものが奥底に潜んでいて... 作中で、「花ざかりの下から振りあおぐと、この世のものとは思えない妖気の雲がたちこめていて、さびしさに首すじが冷たくなり、花の下にひとがいなければ、桂子は狂って鬼に変じそうであった」という表現があるのですが、まさにこの状態ですね。読んでると、ぞくぞくとしてきてしまいます。
そして読み終えてまず最初の印象は、対比の多い作品だということ。美しいのに不気味さも潜む満開の桜、というのもまさにそうなのですが、その他にも様々な正反対のものが対比されて続けているような気がしました。例えば、伝統的な古風さと、この作品が書かれた時代における斬新さ。どこか平板にも感じられる明るさと、陰影に富んだ暗鬱さ。死と生。...死と生というより、この場合は死と快楽が対比されているのかもしれませんね。あとは桂子と他の女性の「女」としての対比。桂子と耕一のそれぞれの両親。最後にできる2組のカップルなどなど。そういった対比がいたるところに存在し、しかし同時に、それら正反対の存在が溶け合ってもいるようです。倉橋由美子さんは形式美というものを大切にされる作家さんなのでしょうか。本当は、桂子だけはその対比の外にいて、正反対のものの間で自由に行き来する、と書きたいところなのですが、この作品ではまだ大学生のせいか、やはりそこまではいっていないような気がします。そして物語の舞台としても、東京と京都。物語の始まりは、3月なのに「地の底まで冷え込んで木には花もなかった」という嵯峨野。そして終わりもまた嵯峨野。尤も物語最後の嵯峨野は、2年前の嵯峨野に比べて「大気のなかにかすかながらも春の吐く息のような暖かさがこもっているのが感じられた」です。常識では考えられない関係となってしまった後に、逆に明るさが見えてくるというのもすごいですね。
そして上にも書きましたが、桂子が卒論に選んでいるのはジェーン・オースティン。「ジェーン・オースティンのユーモアについて」という題です。作中でしばしばジェーン・オースティンについての会話が登場するのも、私としてはとても興味深いところでした。特にP.192の「オースティンのは、何といっても女の小説ですね。女が手で編むレースのテーブルクロスとか、刺繍とか、そういう種類のものを、ことばを使って丹念に編み上げたのがオースティンの小説ではないかと思います。」という言葉。これは、全くその通りだと思いますね。


「城の中の城」新潮文庫(2009年5月読了)★★★★

桂子が山田と結婚して8年。桂子も30歳に。山田との間には6歳の智子と5歳の貴という2人の子供がおり、今は桂子との両親との6人の暮らし。山田の仕事も順調、桂子も主婦業・母親業の傍ら翻訳の仕事をこなす日々。しかしそんな平穏な生活に、突然影がさすことになります。山田が前年パリに行った時にキリスト教の洗礼を受けていたというのです。

桂子さんシリーズ。
今回はキリスト教絡み。このシリーズでまさかキリスト教が問題になるとは思ってもいなかったので、驚きました。しかし桂子さんの驚きは、読者である私以上のもの。「青天の霹靂」というレベルではなく「冬の曇天がにわかに下がってきて頭上を圧する感じ」で、目の前に黒々とした得体の知れないものが立ちはだかっているのを感じています。桂子さんにとってキリスト教は「キリスト病」。手厳しいですね。桂子さんとしてはそのような病にかかるような人間は大嫌い。しかしそのような病を発症するような人間を自分の夫にしたのは、そういった人間であることを見抜けなかった自分の落ち度でもある… と考えています。離婚か、もしくは山田が棄教するか。常々「struggle」が嫌いだと公言している桂子さんにとって、もしやこれが初めてのstruggleなのでしょうか。才色兼備で良妻賢母な桂子さんに珍しく、人間的な葛藤ですね。だからと言って、その葛藤に溺れてしまうことは決してありませんし、子供たちに両親の不和を悟らせることもなく、あくまでも優雅な桂子さんなのですが。
そういったキリスト教についてのくだり、反対派賛成派それぞれの言い分もとても興味深く面白かったです。倉橋由美子さんご自身が、こういったことを深く考えてみられたことがあったのでしょうね。現在日本ではキリスト教はすっかり落ち着いた存在となってしまっていますが、今の新興宗教に置き換えれば全てすんなり納得がいくことばかり。自分の足できちんと立った上で宗教を心の拠り所にするのいいのではないかと思うのですが、宗教に全面的に頼ろう、それで安心しようとするのは病気だと私も思います。そして桂子は、自分は健康だからそういった宗教の世話になる必要がないと何度も繰り返しているのですが、彼女の心の健康さはやはり大したものですね。彼女の精神はあくまでもしなやかで強靭。相手に合わせて踊ることもできれば、それ自体を武器にすることもできます。どんなことが身の回りで起きても、あくまでも自然体。桃花源記の中に出てきそうなお店に行った時も、今日は相手の決めた趣向に従うつもりでいたから、とまるで動じない桂子さん。やはり大した女性です。


「交歓」新潮文庫(2009年6月読了)★★★★

山田が脳卒中で倒れ、そのまま死亡。初七日がすぎると、桂子さんは山田の研究室を片付けるために大学へ。BRAINと呼ばれているコンピューターを自宅に持ち帰ることになります。研究室で桂子さんを出迎えたのは、山田の私設秘書だった工藤真由美。桂子さんはそのまま工藤に自宅でBRAINを整理する作業を頼むことに。そしてその日自宅に持って帰ったBRAINを山田の書斎に設置し、マニュアルをめくっていると、そこから出てきたのはBRAINを試作したJAIという会社の会長の入江晃という人物の名刺。桂子さんは、かつて山田が入江のことを大学の教養課程の時の級友だと話していたことを思い出します。告別式にも入江からの生花が届いていました。林龍太から無名庵を買い取った人物も、おそらくその入江なのです。

桂子さんシリーズ。「城の中の城」からはほぼ10年後で、その間、山田との間に優子という子供が生まれていたようです。桂子さんは40歳、智子さんは16歳、貴くんは15歳、山田氏は60代になる一歩手前ぐらいでしょうか。宮沢耕一くんはまり子さんとは離婚して別の相手と再婚、現在はパリ在住。それぞれにかなり状況が変わってきているようです。
この作品で一番大きいのは、とうとう入江氏が登場すること。既にかなりの人脈と金を持つ人物ではありますが、まだ政界入りを果たす前。桂子さんはこの太陽のような魅力を持つ入江氏に惹かれますし、実は入江氏も前々から桂子さんに目をつけていた模様。最後の方でオリュンポスという言葉が登場していましたが、まさに神々の交歓といった印象の物語。しかしたとえ入江氏がゼウスだとしても… ゼウスのような好色な人物ではないにせよ、存在感的にはゼウスはぴったりだと思うのですが、桂子さんに当てはまる女神が案外といないものですね。桂子さんにヘラは似合いませんし、知的なところからアテナ… というには桂子さんは色っぽいですし、アプロディーテーというには知的すぎます。時にアテナのようで、時にはアプロディーテーのような、というのがまだ一番近いのかも。やはりその両極端にも思える美質を併せ持ち、時と場合によっては大胆に振舞うこともできるのが、桂子さんの一番の魅力なのでしょうね。


「夢の通い路」講談社文庫(2009年7月読了)★★★★★

夜が更けて夫も子供たちも犬も寝静まった頃。化粧を直して人と会う用意をする桂子さん。鏡を見ると、そこに映っているのは、夜の化粧のせいで妖しい燐光を放つ「あちらの世界」の顔。外に来ている人の気配に応じて立ち上がった桂子さんは、家を抜け出します。そこにいたのは佐藤さん。しかし佐藤義清という名前の長身痩躯の紳士は、実は西行なのです。

桂子さんシリーズの外伝的作品。魅惑的な「あちらの世界」の面々と交歓する桂子さんの物語。桂子さんと出会うのは西行、二条、後深草院、藤原定家、式子内親王、六条御息所、光源氏、藤原道長、紫式部、和泉式部、エルゼベート・バートリー、メーディア、則天武后、かぐや姫などなど、虚実取り混ぜた豪華絢爛な面々。しかしどんな人々と共にあっても、桂子さんの女神ぶりは変わりません。相手にしなやかに合わせて上品に踊っているという印象。とてもエロティックなはずなのに、そこには獣の生々しさは全く存在せず、植物的に描かれています。しかし私が感じたのは、植物というよりも水。さらさらと流れる水のようなエロティシズム。異界との転換点としても水というのはとても相応しいように思うのですが…。
古今東西の様々な人物が登場するだけに、他の倉橋作品以上に古今東西の出来事や文学作品に関する素養が現れており、それもとても面白く興味深いですね。その中でも特に印象深かったのは、二条と語るトリスタンと金髪のイズーの物語、処女の血を搾り取ったというエルゼベート・バートリ伯爵夫人の話、そしてエウリピデスの描いた物語と真相は違うと語るメーディアの話。トリスタンとイズーが秘薬を飲んだのにこれ以上説得力のある回答は思い浮かびませんし、自身のことを語るエルゼベート・バートリやメーディアはとても魅力的。怖いながらも、自分も同じように彼らと話してみたくなってしまいます。しかしそれもこれも、やはり桂子さんだからこそ、なのでしょうね。


「ポポイ」新潮文庫(2009年5月読了)★★★★★

近未来。生首を預かってもらえないかと婚約者の佐伯に突然言われた舞は驚きます。それは数日前に、今でも政界で大きな影響力を持つ元首相である舞の祖父の所に乱入し、声明文を読み上げ、1時間ほど密談し、唐突に切腹したテロリストの首。テロリストは2人組で、19歳の若い方が切腹し30過ぎの男が介錯、30過ぎの男も自らその刀で喉を突いて死んでいたのです。その晩、祖父が脳梗塞で倒れたため、テロリストとの密談の内容は不明であり、佐伯は生首を最新の医療技術で保存することによって何らかのことが探り出せないかと考えていました。舞が引き受けると、佐伯は早速生首を舞の元へと運びます。舞はその生首に「ポポイ」という名前をつけ、世話を焼き始めます。

声明文を読み上げて切腹、といえばもちろん三島由紀夫なのですが、首だけになった美少年と聞いてまず思い浮かべるのは「サロメ」。生首が舞の部屋にやって来た時、舞は「私の予想ではそれは銀の盆に乗っているか青磁の水盤に活けてあるはずだったけれど」と思う部分があるのですが、この「銀の盆」は明らかに「サロメ」ですね。しかも舞とサロメとの印象も似通っています。2人とも少女から大人の女への端境期にある女性。少女の無邪気な残酷さと大人の女性のエロティックな美しさを併せ持ち、男性はその時期特有の魅力に惑わされ振り回されずにはいられない…。それでいて、彼女たちはそんな男性のことを見ても特に何も感じないのですね。
「サロメ」という作品も相当エロティックでグロテスクで美しい作品だと思うのですが、こちらも負けず劣らずでした。祖父が元首相ということもあり、舞の一族はお城のような要塞のような家に住む上流の一族ですが、上流の優雅さを持って悪趣味なことをさらりとやってしまいます。舞は生首にポポイと名付け、美少年の生首を相手に、髭剃りをしたり男性用のパックをしたり、古代ローマ人風に髪型を整えたり、音楽を聞かせたりと、日々愛玩します。しかし舞にとって、ポポイは所詮観賞用の植物のようなもの。多少意思がある分、時にはからかったり挑発したりもするのですが、完全に自分が優位に立ってのことであり、その残酷さがまた何とも言えません。
読後に思い浮かんだのは、ボリス・ヴィアンの「日々の泡」。とても幻想的で美しい情景なのだけれど… という印象が似通っているように思います。作中で引き合いに出されるクラナッハの「ユディット」やクルヴェルリの「マグダラのマリア」の絵もイメージたっぷりです。私は倉橋由美子さんの小説を読むのはこれが初めてなのですが、それほど重要ではない登場人物でも既にかなり造形が出来上がっているようなので不思議に思って調べてみたら、舞の祖母・桂子を中心とするシリーズがあるようですね。彗のことなどとても興味深いので、ぜひ他の作品も読んでみたいです。


「よもつひらさか往還」講談社文庫(2009年9月読了)★★★★

大雪の日の夕方、彗君は古い煉瓦造りの建物の中にあるクラブへと出かけます。それは祖父の入江さんが前世紀に始め、最近彗君が入江さんから譲り受けたもの。その日彗君は、バーテンダーの九鬼さんが作った、本物の雪がそのままグラスに盛られているようなカクテルと、鮮やかな血の色をしたカクテルを飲み、その2つのカクテルの不思議な相乗効果で酔郷へと出かけることに。

バーテンダーの九鬼さんの作るカクテルによって、彗君がさまざまな世界に遊ぶという物語。「夢の通い路」の男性版。「夢の通い路」では桂子さんが「あちらの世界の面々」と交歓を尽くしていましたが、こちらでは桂子さんの孫に当たる慧君が、様々な美女と情を交わすことになります。式子内親王に始まり、ゴーギャン風の南方系美女、かぐや姫、植物的魔女、鬼女、雪女... 時には髑髏まで。ちなみに「よもつひらさか」とは、現世と黄泉の国の境目にある坂のこと。
しかし「夢の通い路」とまるで違い、そしてとても不思議に感じられたのは、そのエロティシズムの薄さ。全編通してそういう場面が多いのですが、少なくともその前半、九鬼さんが自刎するまではまるでエロティシズムを感じさせないのです。自刎以降は、エロティシズムも少しは感じられるようになったのですが、それでも「夢の通い路」に比べればまだまだ薄いもの。「夢の通い路」でも、肉感的ではない、まるで水のような植物のようなさらさらとしたエロティシズムだったのですが、こちらはそれ以上ですね。これは慧君だからなのでしょうか。慧君に興味を持つきっかけとなった「ポポイ」で慧君が登場する場面を読み返してみると、こういう文章がありました。「いつも無限に優しいのがこの人の特徴で、だから慧君は聖者なのだ。相手の意思に反して自分の欲望が働くということがなく、相手の欲することを自分も欲するだけなのだ。そして相手が狂って我を失っても、最初から我というものをもたない慧君は決して狂うことがない。」…このエロティシズムの薄さは、まさしく慧君によるものだったのかもしれないですね。慧君自身が、全てをありのまま受け止めつつ何もあとに留めない、水のような存在だったということでしょうか。それでも、この作品での慧君と舞さんの会話は、私にとってどこか特別なものとして残りました。「分子レベル」での理解の話は、とても印象的です。
しかし今回読んでいて興味を引かれたのは、慧君よりもむしろ九鬼さんだったかもしれません。不思議な酒を作るバーテンダーであり、入江家を取り仕切る執事のような存在であり、入江氏の分身のような存在であり、そして冥界の女王の馴染みでもあり...。いったい彼は何者なのでしょう?


「偏愛文学館」講談社文庫(2008年11月読了)★★★★

「偏愛」の条件は、まず再読できること。「二度目に読む時に、いい人、好きな人と再会するのに似た懐かしさがあって、相手の魅力も一段と増したように思われる」、そんな作品が偏愛できる作品。この本に取り上げようと思った作品は全て事前に再読されたそうです。「再読しようとしてもできなかったものは、偏愛に値しないもので、ここに取り上げるのをやめることになります」という拘りを見せる読書案内。

急逝した作家、倉橋由美子。どうやらこれは、来るべき死が分かっている時点で書かれた作品のようですね。倉橋由美子さんの作品を読むのは全くの初めてですし、こういった文学系の読書案内では既読作品が片手に収まってしまうことも多いのですが、私も読んでる作品が意外と多く並んでいて嬉しい驚きでした。
この本に紹介されているのは、全部で39作品。既に知っている作品が複数あったこともあり、随所で思わず納得してしまうような表現が目について面白かったです。その中でも一番印象に残ったのは、内田百閨u冥途・旅順入城式」の章。「その文章は食べだすとやめられない駄菓子のようで、しかも それが「本邦唯一」という味ですから、雑文の断片まで拾って読み尽くすまではやめられないのです。」という文章。内田百閧フ文章を駄菓子に喩えるとは驚きましたが、そう言われてみると確かにそうかもしれない、と思えてきます。言いえて妙。
こういった読書案内で自分が読んでる本が登場すると楽しく読めるのはいつものことなのですが、未読の作品を読みたくなるだけでなく、既読の本ですら読み返したくなる読書案内というのは、意外と珍しいかもしれません。比較的最近読んだ「高丘親王航海記」ですら読み返したくて堪らなくなったのですから。未読の本は1冊残らず読みたいですし、既読の作品もまた読み返したいものです。もちろん再読する価値のある作品ばかりだと思います。

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