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このページは、堀江敏幸さんの本の感想のページです。

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「いつか王子駅で」新潮文庫(2007年11月読了)★★★★★

「私」が昇り龍の刺青を背負う印鑑職人の正吉さんと知り合ったのは、この町に引っ越してきて半年ぐらい経ったある日のこと。偶然立ち寄った「かおり」という小さな居酒屋で、いつもの習慣で食後に珈琲を注文した時、正吉さんに声をかけられたのです。それ以来、「かおり」や風呂屋で一緒になると、なんとなく世間話をする間柄。しかしそんなある日、「かおり」で話しているうちにいつの間にか眠り込んでしまった「私」が目を覚ますと、隣に正吉さんの姿はありませんでした。一週間ほどかけて仕上げた実印を大切な人に届けるという話は聞いていた「私」は、椅子の足元には黄色い箱の入った紙の手提げ袋が置き忘れられているのを見て、慌てて都電の駅へと走ります。

学校で教えたり、実務翻訳をしているけれど、日々の生活としては不安定な生活を送っている「私」を主人公に、都電荒川線の走る小さな町を舞台にした物語。まず書かれているのは、ここでの暮らしで「私」が出会った正吉さんや古本屋の筧さん、「かおり」の女将、大家であり町工場を営んでいる米倉さん、その娘で、「私」が時々勉強を見てあげることになる咲ちゃんたちとのエピソード。その合間には、過去の様々な回想や現在の出来事が浮かんでは消えていきます。競馬のことや読んだ本のこと、その時に目に映る情景など、一見取りとめもなく書き綴られているようなのですが、実際にはそうではないのでしょうね。しかし本当は計算されつくしていとしても、その計算を感じさせないので、読んでいるとこの世界に静かに穏やかな気持ちで浸ることができます。不安定な生活を送っているようでも、実は相当な文学的素養を持つ「私」の文学論的な部分もとても面白かったですし、その飾り気のない性格で地元の昔かたぎの職人たちや気のいい商店主たちの間にすんなりと溶け込んでいるところもいいですね。特に文章としては書かれていなくても、それぞれの職人たちの背後にある、これまで送ってきた人生の確かな手ごたえが感じられるようです。ふいと姿を消した正吉さんは再び現れることなく終わってしまいますし、そういう意味では物語としてきちんと閉じていないとも言えるのですが、正吉さんはたとえ不在でもその存在感はとても大きく全編を覆っていましたし、物語の終わりも鮮やか。気持ちの良い作品でした。読んだ後は、実際に都電に乗って王子駅の辺りを歩き回ってみたくなります。


「雪沼とその周辺」新潮文庫(2007年10月読了)★★★★★お気に入り

【スタンス・ドット】…リトルベアーボウル最後の日。午前11時から夜9時を回るまで誰1人として客はなく、見切りをつけて照明を落とした時に入ってきたのは、若い男女でした。
【イラクサの庭】…小留知先生が亡くなり、葬式の日の思い出話。小留知先生は30年前に東京の料理教室を閉じて雪沼の町に移り住み、レストラン兼料理教室を営んでいました。
【河岸段丘】…日曜日にダンボール箱の紙の裁断の仕事に出てきていた田辺は、なぜか身体が右に傾いているような気がしてならず、思わず妻を職場に呼びます。
【送り火】…書道教室を営む陽平と絹代。絹代はいつものように旅先でランプを買って帰ります。しかしそれらのランプには、まだ一度に火を灯したことがないのです。
【レンガを積む】…20年前にレコード屋を居抜きで買い取った時には既に長年活躍していた家具調ステレオ。蓮根は寝たきりの母のために、低音のだぶつきを直そうとしていました。
【ピラニア】…つゆの染みが派手についていた相良のワイシャツ。本当は麺が苦手なのに、信用金庫の仕事で訪ねた老人の家でそうめんをご馳走になったのです。
【緩斜面】…古い友人の小木曾の紹介で防災用具の会社に就職できた香月。その小木曾の墓参りで、小木曾の家を訪ねた香月は、かつての友人と瓜二つの息子と話し込みます。

「雪沼とその周辺」というタイトルそのまま、山間の静かな町である雪沼とその周辺に住む人々を描いた連作短編集。「スタンス・ドット」は、川端康成文学賞受賞作品。その後谷崎潤一郎賞も受賞。
ここに描かれる人々は、ボウリング場や西洋料理教室、レコード店や製函工場、書道教室、信用金庫、防災用具会社と、仕事は様々ながらも、それぞれに自分のやるべきことに正面から向き合い、日々の暮らしを送っています。解説で池澤夏樹さんが書いていますが、まさに読んでいる間、自分も雪沼にいるような気がしてくるような作品群。この作品に登場するような人物を、そしてその淡々と過ぎていく日常を、雪沼のどこかから眺めているような印象です。他人から見れば平凡極まりないとも言える人生かもしれませんが、それぞれにとってはただ1つの大切な人生。物語の中では過去の話も多く語られ、その中には身近な人間の死も多いのですが、どれも落ち着いた筆致で描かれているため、遠景として穏やかに見ることができるような気がします。そして中心で語られている人物もそれぞれに人生の終盤に差し掛かっており、そう遠くない将来の「死」を感じさせるのです。しかしそのことを静かに受け入れている印象。だからこそ、このような静かな力強さが生まれているのでしょうね。しみじみとした余韻が残ります。

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