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このページは、リヒャルト・ワーグナーの本の感想のページです。

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「ラインの黄金-ニーベルンゲンの指環1」新書館(2006年8月読了)★★★★★

【第一の歌-ライン河の妖精】…ライン河の水底でまどろむ黄金の番をしていた妖精の三姉妹・ヴェルグンデ、ヴォークリンデ、フロスヒルデ。しかしある日、3人の前に現れた侏儒のアルベリッヒを無情にからかったことから、アルベリッヒにラインの黄金を盗まれてしまいます。
【第二の歌-ライン河畔の山上の夜明】…神々の王・ヴォータンは、妻のフリッカにねだられて荘厳な城を建てることに。しかしその時、ワルハラの建築を請け負った巨人族のファーゾルトとファーフナーに、報酬としてフリッカの妹の美の女神フライアを約束してしまったのです。
【第三の歌-地下国ニーベルハイム】…兄のミーメに、ラインの黄金で指環と隠れ兜を作らせたアルベリッヒ。その魔力で地下の夜の国・ニーベルハイムを支配し始めます。次から次へと細工物を作らされる侏儒たち。そこに現れたのは、ヴォータンとローゲでした。
【第四の歌-神の宮殿ワルハラの虹】…アルベリッヒを騙して縛り上げたヴォータンとローゲはそのまま山上へ。アルベリッヒの作らせた宝の数々や兜と指環を取り上げるのですが、その指環に呪いをかけるアルベリッヒ。そして神々はフライアの身代金として、アルベリッヒから取り上げたものを巨人に支払うことに。(「THE RHINEGOLD」寺山修司訳)

ワーグナーによるオペラ「ニーベルンゲン(ニーベルング)の指環」原作、全4巻。北欧神話(エッダ)のシグルド伝説と「ニーベルンゲンの歌」を元に、ワーグナーが作り上げた世界です。翻訳の元本となっているのは、アーサー・ラッカムの絵本で、この本にもアーサー・ラッカムの挿絵が沢山収録されており、絵物語のような趣きとなっています。最初の1巻だけは寺山修司訳。寺山修司訳は半分寺山氏の創作のようになっているらしいのですが、しかし力強く、世界の壮大さを感じさせます。
物語の発端は、ライン河の乙女たちがアルベリッヒをなぶったこと。そしてそれに腹を立てたアルベリッヒが、乙女たちの守るラインの黄金を盗んだこと。この黄金は、それを鍛えて指環を作れば、絶大な権力を握ることができると言われているものなのです。そしてその黄金から、アルベリッヒが弟のミーメに作らせるのが、件の指環。結局ヴォータンとローゲに取り上げられることになるのですが、その時アルベリッヒは指環に呪いをかけます。それは指環の持ち主には不安におびえ、業欲の持ち主は指環の奴隷となって一生渇きにあえぎ、最終的には死の運命がもたらされるというもの。この物語が、トールキンの「指輪物語」に大きな影響を与えているのは明らかですね。
しかしそもそもは、ラインの乙女たちがアルベリッヒを、そしてヴォータンら神々が巨人族やアルベリッヒをなぶったために起きたこと。それらの相手を侮る態度が、最終的に神々の黄昏へと収束していく要因となっているのです。多神教にはありがちですが、神々だからといって素晴らしい神格を持っているというわけではなく、一見些細にも感じられる軽率な行動が、予想外に大きな展開を引き起こし、最終的には自分たちの世界の終わりに繋がっているというのが皮肉です。その因果応報的な展開がまさに指環の「環」と重なって、運命の環を強く感じさせるのですね。この「ラインの黄金」では、太初の知恵の神エルダの言うことを受け入れたヴォータンがその結果を目の当たりにして、その恐ろしさを目の当たりにすることになるのですが、それでもまだきちんと分かっていないという部分が、その後の展開を予想させて重いです。フライアが連れて行かれた途端、神々の力が弱まり、若さが消えていくのも、神々の世界の根底に潜む危うさを表しているようです。


「ワルキューレ-ニーベルンゲンの指環2」新書館(2006年8月読了)★★★★★

【第一の歌-フンディングの家の中】…追われるジークムントが入り込んだのは、フンディングの家でした。その家にいたのは、不幸な花嫁として暮らしてきた、ジークムンドの双子の妹・ジークリンデ。ジークリンデとジークムントは恋に落ち、ジークムントは、かつてヴォータンがとねりこの柱に刺した剣・ノートゥングを引き抜いて、ジークリンデを連れて逃亡します。
【第二の歌-荒涼たる岩山】…アルベリッヒが作った指環を、エルダの言う通り手放したヴォータンは、エルダの知っていること全てを聞き出します。その時にエルダが身ごもったのが、ワルキューレの1人・ブリュンヒルデ。そしてジークムントとジークリンデもまた、人間の女に身ごもらせたヴォータンの子供たちだったのです。ヴォータンはブリュンヒルデにジークムントを倒すことを命じるのですが…。
【第三の歌-ブリュンヒルデの岩】…ヴォータンにジークムントを殺すことを命じられたにも関わらず、ジークムントを助けようとしたブリュンヒルデ。ジークムントは結局ヴォータンによって剣を砕かれ、敵に倒されることになるのですが、ブリュンヒルデは咄嗟にジークリンデを連れて逃げ出します。(「THE VALKYRIE」高橋康也・高橋迪訳)

ワーグナーによるオペラ「ニーベルンゲンの指環」第2巻。1巻上梓後寺山氏が亡くなったため、高橋康也・高橋迪夫妻がその後を引き継いでいます。
ヴォータンの妻・フリッカが、ジークムンドとジークリンデの近親相姦を許せず、ヴォータンにジークムンドの死を要求することに。しかしジークムンドとジークリンデの2人も双子の兄妹なのですが、この2人はブリュンヒルデとも腹違いのきょうだいでもあるのです。なのでブリュンヒルデと甥に当たるジークフリートという組み合わせもまた近いということになります。解説にはヴォータンとブリュンヒルデの関係についても触れられていましたが、こういった近しい関係同士の組み合わせの重なりがとても神話的ですね。
ここでヴォータンは、彼の望むところを成し遂げるのは、彼の庇護に頼らずに自分の意志だけで行動する者だけであり、全ての神々に逆らう者だけが同時に神々に救いをもたらす、という二律背反に苦しむことになります。そのために取ったはずの措置も、フリッカに責められることになり、八方塞状態。唯一ヴォータンの心を察して行動したブリュンヒルデにも、言いつけに背いたということで、心ならずも厳しい罰を与えることに。エッダではブリュンヒルデのことについてはあまり語られておらず、その設定もオーディンオーディンの意図しない戦士を死なせたたため、深い眠りに閉じ込められたブリュンヒルデと、アトリ王の妹としてごく普通の王女の生活を送っているブリュンヒルデの2通りの物語があり、すっかり矛盾しているのですが、その辺りをワーグナーの物語では見事に作り上げていると思います。


「ジークフリート-ニーベルンゲンの指環3」新書館(2006年8月読了)★★★★

【第一の歌-森の中の洞窟】…森で倒れていたジークリンデを見つけた鍛冶屋のミーメは、ジークリンデを自分の洞穴へと連れていきます。そして生まれたのがジークフリート。難産で死んだジークリンデの代わりにミーメはジークフリートを育て上げます。大きくなったジークフリートは、自分で父親の剣・ノートゥングの破片を鍛え直すことに。
【第二の歌-森の奥】…かつて巨人だったファーフナーは今は竜の姿となって、深い森の奥にある妖しいナイトヘーレの洞窟で黄金の指環や宝物を守っています。その入り口にいるのは、アルベリッヒ。そしてそこに現れたのは、指環を狙うミーメと、恐れを知るためにやって来たジークフリートでした。
【第三の歌-岩山の麓の荒涼たる場所】…森の小鳥に従ったジークフリートは、ブリュンヒルデを発見します。ブリュンヒルデはジークフリートによって目覚め、2人は愛し合うことに。(「SIEGFRIED」高橋康也・高橋迪訳)

ワーグナーによるオペラ「ニーベルンゲンの指環」第3巻。
この巻でようやくジークフリートが姿を現わします。まさに真打登場。高橋康也氏の解説でも「『ジークフリート』からふり返ってみるとき、『ラインの黄金』も『ワルキューレ』も、物語全体の構成上、ひたすらこの第三部に到達するための準備工作ではなかったかと思えてくる。」とありますが、確かにその通りですね。呪われた指環の存在を提示するために「ラインの黄金」があり、ジークフリートを生み出すために「ワルキューレ」でジークムンドとジークリンデが愛し合い、ジークフリートに目覚めさせられるためにブリュンヒルデは眠らされ、ジークフリートの手で鍛えなおされるために名剣ノートゥングは、ヴォータンによって破壊されたというわけです。
しかしこのジークフリートの勝手ぶりはどうなのでしょう。侏儒のミーメに育ててもらった恩がありながらも、ミーメを憎んでいるジークフリート。確かにミーメがジークフリートを育てた背景に、下心がなかったとは言えませんが、ジークフリートがミーメを憎んでいるのは、また別の理由から。まるでミーメが侏儒だから、ミーメの外見が醜いから憎んでいるように見えます。これでは肉体的には英雄の条件を満たしていても、本質的な英雄とは言えないのでは…。単なる子供としか思えません。解説にも「ワーグナーにおける肉食民族的・ゲルマン的闘争性を--お望みならナチズムへの傾斜を--読み取ることも、読者の自由であるにちがいない」とありましたが、確かにナチスドイツに通じる思想を感じます。これでは最終的にジークフリートが無残な死を遂げることに対しても、同情の念はあまり起きないですね。
ヴォータンの槍がジークフリートのノートゥングによって破壊される場面は、相変わらずの二律背反に苦しむヴォータンの姿をよく現しています。この槍はヴォータン自身が作った神聖な法と契約を彫りこんだ、世界を統べる上での要となるものなのです。


「神々の黄昏-ニーベルンゲンの指環4」新書館(2006年8月読了)★★★★

【プロローグ-ワルキューレの岩山】… ジークフリートは新しい冒険のために、指環をブリュンヒルデに渡し、ブリュンヒルデの愛馬・グラーネを引いて山から下りていきます。
【第一の歌-グンターの館・ワルキューレの岩山】…ライン河畔のギービッヒの館でハーゲンは、兄のグンターにこそブリュンヒルデが、グートルーネにはジークフリートが相応しいといい、ジークフリートに魔酒を飲ませる計画を打ち明けていました。そこに現れたのが、他ならぬジークフリート。
【第二の歌-グンターの館】…実はアルベリッヒの息子であるハーゲン。アルベリッヒは神々が終末を迎えていることを語ります。一方、ジークフリートは、首尾よくグンターの姿でブリュンヒルデをグンターの元に連れて行くことに成功します。
【第三の歌-森の中・グンターの館】…ジークフリートに指環を返すように懇願するラインの乙女たち。指環を手放そうとしないジークフリートに、その死を予告します。(「THE TWILIGHT OF THE GODS」高橋康也・高橋迪訳)

ワーグナーによるオペラ「ニーベルンゲンの指環」第4巻。これで完結です。
3巻での傲慢なジークフリートの姿は、そのまま破滅へとひた走ることになります。ハーゲンの策略に落ちてグートルーネと結婚することになるのも、グンターのためにブリュンヒルデを手に入れようと奔走することになるのも、まさに自業自得といった印象。ジークフリートの死は、グートルーネとの寝床の中ではなく、ライン河のほとり。これもエッダに2通りの物語があるものです。ブリュンヒルデの死にもこれできちんとした物語としての筋が通ります。
そして指環は、最終的には盗まれてきたラインの乙女たちの手に戻ることに。まさに「環」ですね。しかしブリュンヒルデとジークフリートを燃やし尽くした炎がワルハラの城をも焼き尽くした辺りは、楽劇としては最高潮に盛り上がる場面かもしれませんが、あまり説得力がなく唐突な印象が残ります。そうやって炎上しても既に神々の姿はなく、新しい世界の予感をさせるとは思うのですが。


「ローエングリーン」新書館(2009年1月読了)★★★★

西暦10世紀初頭のブラバント公爵領。先代のブラバント公爵が娘のエルザと息子のゴットフリートを遺して亡くなって間もなく、ゴットフリートが森で行方不明になるという出来事が起こります。これは公爵領を狙うフリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵の妻であり、魔法使いでもあるオルトルートがゴットフリートを白鳥に変えてしまったため。しかしエルザが弟を殺したと思い込んだテルラムント伯爵は、弟殺しの罪でエルザを訴えます。そしてちょうどハンガリー軍を迎え撃つためにブラバントを訪れていたハインリヒ1世が、この訴えを聞くことに。ハインリヒ王は神明裁判を宣言し、エルザは夢に現れた白銀に輝く甲冑を身に着けた騎士に自分を苦境から救ってもらえるよう祈ります。(「LOHENGRIN」高辻知義訳)

表向きは、白銀の甲冑の騎士とエルザ、そしてテルラムント伯爵とその妻・オルトルートという2組のカップルの明暗の物語のように見えます。しかしふと気づけば、男性2人よりもエルザよりも、オルトルートこそが主役の物語とも言えそうですね。オルトルートは異端の魔女なのですが、その夫テルラムント伯爵はきちんとしたキリスト教徒。神を信じていますし、単純ながらも真っ直ぐな人物。本来なら平凡な野心しか持ち得ない存在なのです。オルトルートの口車に乗せられて、ゴットフリートを殺したのはエルザであり、エルザのために戦った騎士が自分に勝った裏で魔法が使われたと信じ込んでしまっただけ。本来なら自分こそ不正な存在であるオルトルートが、神の前での裁きに不正が行われたと夫に信じ込ませるのが面白いですね。そしてオルトルートに操られているのは、エルザも同様。いったん疑いを吹き込まれたエルザは、騎士の名前と素性を聞かない誓いをしたにも関わらず、聞かずにはいられなくなってしまいます。もちろん見てはいけないと言われれば見てしまい、聞いてはいけないと言われれば聞いてしまうのが人間の性であり、世の常。いずれはそういうことになったのだろうと思うのですが、オルトルートがいなければ、これほどまでに早い決着とはならなかったでしょうね。そのオルトルートが信じているのは、ゲルマン神話の神々なのでしょうか。「恩恵に浴しながら、おまえたちが背いた神々の 恐ろしい復讐をいまこそ思い知るがいい」という言葉から、唯一の神ではなく、複数の神を信じていることが分かります。後年「ニーベルンゲンの指環」で大々的にゲルマンの神々を描くことになるワーグナーが、この時点ではそういった神々を単に異端として片付けているのはとても興味深いです。
「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」と並ぶロマン派歌劇3部作の最後の作品で、一番完成度が高いそうなんですが、読み比べてみたところでは「タンホイザー」が物語として一番まとまりがあるように思いますし、好みです。


「タンホイザー」新書館(2009年1月読了)★★★★

愛の女神・ヴェーヌスの美しい洞窟。ヴェーヌスは薔薇色の光が漏れる洞窟の入り口に豪華な臥所をのべて身を横たえ、詩人・ハインリヒ・タンホイザーはかたわらに竪琴を置き、女神の膝に顔をうずめて寝入っています。周囲では妖精たちや人々による歓楽の情景。しかしその歓楽の宴が終わって目覚めた時、タンホイザーはヴェーヌスのもとを去る決意を固めていたのです。それは夢の中で耳にした教会の鐘の音がきっかけ。タンホイザーはヴェーヌスの寵愛を受ける今でも自分が死すべき人間であることに変わりはないこと、森や草原、空、鳥、教会といった地上のものと自由を憧れ求めていることを語ります。(「TANNHAUSER」高辻知義訳)

ワーグナーによるオペラ「タンホイザー」。タンホイザーは13世紀のドイツに実在した詩人。ヴェーヌスの洞窟で永年過ごし、ある時に悔い改めるつもりでローマ法王のもとに行くのですが、赦しを得られなかったため、再びヴェーヌスの洞窟に戻ったという伝説があるのだそうです。なぜヴェーヌスが洞窟にいたのかといえば、キリスト教がヨーロッパに広まるにつれて神話の神々は厳しい弾劾を受ける身となり、それを避けるために地下に宮殿をかまえたのだとのこと。そしてそのタンホイザーの伝説とはまた別に、テューリンゲンのヴァルトブルクの城で行われた詩人たちによる歌合戦の伝説があり、ノヴァーリスの「青い花」の主人公・ハインリヒ・フォン・オフテルディンゲンもこの歌合戦に参加してたのだとか。そしてワーグナーがこの2つの伝説を結びつけ、「青い花」のハインリヒをタンホイザーに置き換えて書いたのがこの作品なのだそうです。
ヴェーヌスの洞窟から、かつて自分が見捨てたヴァルトブルクの城へと向かい、旧友・ヴォルフラム・フォン・エシェンバッハや、美しく徳高いエリーザベト姫と再会したタンホイザー。そして行われる歌合戦。ここでタンホイザーは、詩人たちの純潔な愛の歌に対して官能的な愛の歌を歌い、自らヴェーヌスの洞窟にいたことを明かしてしまいます。
作品全体の雰囲気はもちろん、エリザーベトの純粋で清らかな愛情や、タンホイザーの迷いはとてもいいですし、ラストにタンホイザーが救われる場面も感動的。しかしヴェーヌスの描かれ方がひどいですね。まるで異端の魔女のようです。確かにこの作品が書かれた時代のことを考えると、これが順当な結末かとは思いますが、実際にはヴェーヌスの愛情が本物だったという可能性も十分あり得ると思うのです。最後の姿が哀しいです。
「ニーベルンゲンの指環」はアーサー・ラッカムによる挿絵でしたが、こちらは東逸子さんによる挿絵の美しい本となっています。


「さまよえるオランダ人」新書館(2009年1月読了)★★

帰港間近に嵐によって流され、たどり着いた岸辺に錨を下ろしたノルウェーの貿易船。舵とり以外の全員が休み、ただ1人残っていた舵とりも眠気に負けてしまった頃、沖に赤い帆と黒いマストの船が現れます。その船は見る間に岸に近づくと、ノルウェー船とは反対側に接岸。スペイン貴族のように全身を真っ黒い衣裳に包んだオランダ人の船長が岸に下りたち、幽霊船の水夫たちが陰鬱に歌い始めます。その時、ノルウェー船の甲板に現れたのは船長のダーラント。オランダ人の船長を見て自分も岸に降り立ったダーラントは、オランダ人に見せられた宝物に魅せられ、代わりに娘のゼンタをオランダ人船長に与える約束をするのですが…。(「DER FLIEGENDE HOLLANDER」高辻知義訳)

この作品はワーグナーが自分らしい独自のスタイルを打ち立てたと認めた最初の作品であり、「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリーン」の3作は、いわゆる「ロマン派歌劇三部作」とされているのだそうです。
「さまよえるオランダ人」の伝説そのものを物語った歌劇なのかと思っていたのですが、そうではなく、7年ごとに岸に降り立つ「さまよえるオランダ人」の船長が、今回こそは誠のある花嫁によって救われるか、という物語だったのですね。まず気になったのは、物語の中で十分にその「さまよえるオランダ人」の筋書きが紹介されていないこと。元々は中世の幽霊譚であり、ハインリヒ・ハイネによって脚色された詩が元になっているということが解説に書かれているのですが、最早説明の必要もないほどヨーロッパ世界には浸透している伝説だったということなのでしょうか。そしてそれ以上に気になったのは、ダーラントの娘・ゼンタがなぜその決断を下したのかが明らかでないこと。愛する男がいて、既に2人の間では約束もしているようなのに、ゼンタは一体何を考えているのでしょう。ここではまるで神懸りになっているような描写がされているのですが、これは神懸りではなく悪魔憑きなのでしょうか。部屋にあった肖像画に呪いでもかかっていたのでしょうか。青年のことを元々愛していなかったのか、それとも呪いにかかって忘れ去ってしまったのか…。そしてそのゼンタに対するオランダ人船長の態度も不可解です。ただ、こちらは彼がそれだけ裏切られ続けてきたということの証なのかもしれませんね。しかし「タンホイザー」や「ニーベルンゲンの指環」と比べるとかなり詰めが甘く、説明不足な作品なのではないかと思います。
しかしこの本の挿絵は天野喜孝さん。雰囲気にぴたりと合っていて怖いぐらいです。

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