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このページは、ボリス・ヴィアンの本の感想のページです。

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「アンダンの騒乱-ボリス・ヴィアン全集1」早川書房(2008年4月読了)★★★

タンポポ男爵夫人(バロンヌ・ド・ピサンリ)のもとで開催される大夜会に出席するために、特別な場合にだけ着る燕尾服を着込み、めかし込んだアデルファン・ド・美男の何某伯爵(ボーマシャン)。30歳の男盛りを誇る伯爵は、軽い電気カーを自分で運転し、オテル・クリヨンの前で数年来の友人・セラフィーニョ・アルヴァレードを拾い、大夜会に到着します。しかしセラフィーニョはタンポポ男爵夫人に無視されて怒り始めたため、アデルファンはセラフィーニョをつれて無人の部屋の中へ。そこでアデルファンは、ズボンのポケットに入れておいたバルバランが何者かに盗られてしまったのに気づいたのです。(「TROUBLE DANS LES ANDAINS」伊東守男訳)

ボリス・ヴィアンの処女作品。とにかく自由に書かれたという印象の作品。謎の「バルバラン」が結局何だったのかも分からず仕舞いでしたし、何を書きたかったのかもよく分からないまま終わってしまいました。主人公かと思っていた人物も、実はそうでもなかったようです。しかし自由に書かれているというのは決して悪い印象ではなく、むしろこれがボリス・ヴィアンらしさなのだろうという印象。真面目さと不真面目さが自然に同居しており、これはおそらくヴィアン自身、のびのびと書いているのでしょうね。それでも「日々の泡」や「心臓抜き」のような、きちんと物語が展開していく作品の方が読んでいて面白いですし、読み応えもあるのですが…。こちらはまだ登場人物を作者が好きなように動かして遊んでいるという印象もあります。


「ヴェルコカンとプランクトン-ボリス・ヴィアン全集2」早川書房(2008年4月読了)★★★

21歳の誕生日を迎える少佐(マジョール)は、四月(アヴリール)の市中にある彼の邸宅で、どんちゃん騒ぎを開くことに。その段取りは全てアンティオッシュ・タンブルタンブルに任せられ、沢山の飲み物や食べ物、そしてレコードが用意されます。そしてそのパーティで少佐はジザニイと出会い、彼のアヴァンチュールが始まることになったのです。(「VERCOQUIN ET LE PLANCTON」伊東守男訳)

「アンダンの騒乱」に登場していた少佐やアンティオッシュ・タンブルタンブルが登場する作品ですが、特に繋がりはないようですね。ボリス・ヴィアンは、自分の作品に実在の友人たちの名前を使う習慣があったのだそう。「アンダンの騒乱」同様、自由に思うままに書かれているという印象の作品ですが、物語が羽ばたいてどこかに行ってしまったかのような「アンダンの騒乱」に比べると、こちらの方が最終的にはまとまりが良かったかもしれません。どちらにしても、頭で読むのではなく感性で読む作品なのでしょうね。


「日々の泡」新潮文庫(2006年2月読了)★★★★★お気に入り

22歳のコランは、他人のところで働かなくても結構に暮らしていけるだけの資産を持っている青年。29歳の腕の良い料理人のニコラを雇い、毎週月曜日には友人のシックを夕食に招く生活。シックはジャン・ソオル・パルトルに傾倒しており、技師という職業の乏しい給料をやりくりして、パルトルの著作を買うのを楽しむ青年。そんなシックに新しくできた恋人は、ニコラの姪で18歳のアリーズ。そしてコランに出来た恋人は、アリーズの友達のクロエでした。コランはクロエと結婚し、シックとアリーズの結婚も願って、自分の10万ドゥブルゾンの資産のうちの4分の1をシックに贈ります。しかし新婚旅行から帰ってきたクロエは、睡蓮の花が肺の中に咲くという奇病にかかってしまうのです。一方シックは、コランに貰った金でパルトルの著作を買いあさり始め…。(「L'ECUME DES JOURS」曾根元吉訳)

「うたかたの日々」という題名でも翻訳されている作品。とても不思議で、しかし非常に美しく、そして哀しい作品。レーモン・クノーは、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」と語り、ピエール・マッコルランは「現代の青春の稀有な書物」と述べたのだそうです。
冒頭から、奇妙な描写が色々と出てきました。コランが鏡を覗き込むと「このニキビどもは拡大鏡に写る自分たちのひどい醜さを見てすばやく皮膚の下に逃げ込んでしまい」、バスマットに粗塩をふりかけると「たちまちマットは小さなシャボン玉の無数の泡をふきだしてきた」などという描写がありますし、洗面台の蛇口からはパイナップル味のはみがき粉目当てでウナギが顔を出し、それをパイナップルで釣って料理に使っています。演奏をすると本当のカクテルを作るというカクテルピアノも登場。コランとクロエの初デートに登場する小さな薔薇いろの雲は、肉桂入りの砂糖の匂い。それでも最初は、物語自体はごく普通の展開をするのだろうと思っていたのです。しかしふと気づけば、物語そのものもどんどん思わぬ方向へ…。クロエの肺に睡蓮の花が咲くという病気もそうですが、この一見綺麗に見える病気のために、コランの家までがどんどん変容していってしまうのが、とてもシュール。終盤のキリストとの対話の場面も強く印象に残ります。序盤での描写がとても繊細で綺麗なだけに、終盤の痛ましさや残酷さが響いてきますね。切なくて哀しくて救いがなくて、読んでいるこちらの精神状態まで左右されてしまいそうです。そこまでブラックでも尚美しいというのが、また凄いのですが。
シックが狂信的に入れ込んでいるジャン・ソオル・パルトルは、ジャン・ポール・サルトルのこと。作品名の「嘔吐」も「はきけ」「へど」などの言葉で置き換えられています。他にも 色々言葉遊びがありそうです。


「心臓抜き」ハヤカワepi文庫(2006年3月読了)★★★★★お気に入り

8月28日。崖に沿って走る小道を歩いていた精神科医・ジャックモールは、断崖から離れた高い所にある白い家から叫び声がするのを聞き、急いでその家の中に入ります。そこには出産を間近に控えたクレマンチーヌが痛みのために喘いでいました。産科は専門外ながらも、出産の手助けをするジャックモール。クレマンチーヌの夫・アンジェルは、クレマンチーヌによって、2ヶ月もの間自分の部屋に閉じ込められていました。クレマンチーヌは、自分をこのような目に合わせたアンジェルがどうしても許せなかったのです。子供は無事生まれ、双子はジョエルとノエル、そしてもう1人はシトロエンと名付けられることに。そしてジャックモールは精神分析をすることができる相手を探しつつ、この家に留まります。(「L'ARRACHE-COEUR」滝田文彦訳)

ジャックモールは生まれた時から成人であり、精神分析医。彼はこの出来事の前年に生まれており、その身分証明書には名前の横に《精神科医。空(から)。満たすべし》という略歴が印刷されています。思い出も過去も持たない彼は空っぽ。人々の思想やコンプレックス、ためらいも彼には何も残さず、ジャックモールは情熱や感動を感じることもありません。そのため、今度は人の最も内的な思想から願望や欲望を取り出して自己を満たしてみようと、村人たちの精神分析をしようとしているのです。しかし彼が精神分析に成功したのは、村にいる猫だけ。
そしてこの村は、非常に変わった場所です。村に出れば老人市で汚らしい老人たちが競に掛けられており、家具屋では小僧を虐待し、死んだ小僧はあっさりと川に流されます。そしてそういった行動をする村人たちの「恥」は、赤い水が流れる小川で小舟に乗っている「ラ・グロイール」が全て拾い上げているのです。恥を知らず、そういった意味では心配いらない村人たちにとって、教会は魂の安らぎを得る場所ではなく、物質的な恵みを求める場所。
ジャックモールが来てから、村のカレンダーも狂ってしまったようです。そして出産した時は息子たちを厄介なものとしか思っていなかったクレマンチーヌは、じきにアンジェルを追い出し、息子に対する愛情がどんどん強くなり、息子たちが危険に遭うことを想像しては、勝手にどんどん心配を募らせていくという変容ぶり。どこかが微妙にずれ続ける物語は、強迫観念がどんどん強くなるクレマンチーヌの姿と重なって、どんどん捩れていくよう。読者は読んでいるうちに、その捩れに巻き込まれてしまうのですね。そして最終的にジャックモールが自分を満たすために得るのは、村中に溢れている「恥」。元々空っぽのジャックモールのことなので、おそらく強力な「ラ・グロイール」になれるはずですが…。
本国では1953年に発表された作品。50年前に書かれたとは思えないほど、現代的、今日的な作品。その世界はとても魅力的です。ボリス・ヴィアンは天才ですね。

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