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このページは、アーダベルト・シュティフターの本の感想のページです。

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「水晶-他三篇 石さまざま」岩波文庫(2005年9月読了)★★★★★お気に入り

【水晶】…山間にあるクシャイトの村の靴師のもとに、ミスドルフから富裕な染物師の娘が嫁ぎます。コンラートとスザンナという2人の子供が生まれ、兄妹はある程度大きくなると、2人だけでミスドルフの祖父母の家に行くように。しかしある冬、2人は帰り道で迷ってしまいます。
【みかげ石】…父の生家の前にある大きな四角い石に座っていた「わたし」。差油売りのアンドレアスじいさんが、足に油を塗ってくれます。しかしそのまま家に入ったことから大騒ぎになり、祖父と散歩に出た「わたし」は、祖父の語る昔話を聞くことに。
【石灰石】…測量の仕事をしている「わたし」は、かつてヴェンゲンという小さな村で出会った1人の牧師に再会します。彼はいつ仕立てたのか分からないような上着を着て、慎ましやかな生活を送っていましたが、その下着は一見して上等と分かるものでした。
【石乳】…アクスという名の城の城主は生涯独身で、財産を管理してくれる「支配人」とその家族、支配人の子供たちのための教師と共に暮らしていました。そんな折、フランス戦争が始まります。
(「BUNTE STEINE」手塚富雄・藤村宏訳)

シュティフターは19世紀のオーストリアの作家。ここには鉱石の名がついた4つの短編が収められています。
一読して驚いたのは、その描写の美しさ。作家であると同時に画家でもあったというシュティフターによる自然の描写は荘厳なほど美しく、圧倒的されます。特に「水晶」で、道に迷った幼い兄妹が入りこんだ洞穴の中の情景が凄いです。美しい氷のアーチをくぐると、洞穴の中は一面の青。もの凄いほどの青さ。「しかしほら穴の内側は、一面に青かった。この世のどこにもないほどに。それは青空よりもはるかにふかく、はるかに美しい青さであった。いわば紺青の空色に染めたガラスを透してそとの光がさしこんでくるような青さであった。」
とても気持ちの良い場所にも関わらず、あまりの青さに子供たちは恐ろしくなって洞穴の外に引き返してしまうほど。自然の持つ厳しさを内包しつつ、尚且つ美しいです。この物語には水晶という石は全く登場しないのですが、この場面こそが「水晶」なのですね。その他にも、彼らを道に迷わせた元凶である雪そのものや、岩屋から眺める夜空もとても美しかったです。(ただ、兄のことを無条件に頼る妹の「そうよ、コンラート」という言葉だけは、少々違和感。訳者の手塚富雄氏もこの言葉には苦労されたようですね。確かに、“Ja, Konrad!” という言葉の軽やかさを表現できる日本語はなかなかないかも…)
「みかげ石」で描かれているのは、草原から湧き出る清水や「かわいたくちばし」と呼ばれる銀松、小高い丘から見える尾根や森、遠くの村や教会。本当はごく見慣れているはずの風景が、祖父によって語られる昔話によって命を吹き込まれていくかのように、きらきらと輝いて感じられました。そこで語られる恐ろしい疫病・ペストによる死もまた、「自然」なのですね。そして「石灰石」で印象に残ったのは激しい嵐と、雨があがった翌朝の情景。すべすべに洗い上げられた石灰石が白く連なり、色合いが「灰色、うす黄、紅色、バラ色」少しずつ変化して見える場面。そして水が溢れた川で牧師が子供たちを見守る場面。たとえ着ているものはボロボロでも、聖書を枕に木のベンチにそのまま寝るような質素な生活を送っていても、この牧師の醸し出す暖かさが染み入ってくるようです。最後の「石乳」は、城の中の人々の暖かさが気持ちの良い作品。これまでの3編では天災や病気といった人間の手の及ばない部分を描いていましたが、ここでは完全に人災である戦争が背景となっています。フランス軍に対する男性3人の反応が可笑しかったです。
どれも田舎の小さな村の人々のごく日常的な話を丁寧に掬い取って物語にしたという印象。たとえ劇的な出来事が起きなくても、そこには人々の営みや、自然と共存する人々の芯の強さが確かに感じられます。


「ナレンブルク-運命に弄ばれた人々の城」林道舎(2008年11月読了)★★

1836年のある夏の夕方、ペルニッツ川沿いのフィヒタウのロマンティックな森の渓谷を歩いていた若者・ハインリヒが城の廃墟を発見します。それはローテンシュタイン城。かつての当主が、その城と財産を受け継ぐ者全員に、その生涯の正確無比な自叙伝を書き保管室にきちんと整理し、それまでに書かれた自叙伝を全て読むことを義務付けていたことで、近隣には知られていました。保管庫は耐火性のある赤い石室で、自叙伝の持ち出しは厳禁。しかし何代もの当主が変わり、最後の当主がアフリカで射殺されてからというもの、城は廃墟と化していたのです。ハインリヒフィヒタウの旅館・緑のフィヒタウ館に逗留し、やがて旅館の娘・アンナと恋仲になります。そしてアンナと結婚するためには、まず地位と公職を手に入れなければと考えていました。(「DIE NARRENBURG」竹内康夫訳)

自然描写の美しさが魅力のシュティフターの作品ですが、この作品は読んでいてもまるで集中できず、あまりその魅力を味わうことができませんでした。その原因は、直訳調の訳文と誤植の多さ。今までにも訳が原因で楽しめなかった作品はいくつかありますが、これはひどいですね。まるで日本語になっていません。中学生の英文和訳のよう。しかも訳文だけならまだしも誤植まで多いとは、一体どういうことなのでしょう。そのせいで、自然描写の美しさどころか、ハインリヒとアンナのことも、ローテンシュタイン城のことも、かつて城にいた人々の物語もまるで楽しめずに終わってしまいました。
この本の解説はおそらく原書にもついていたものなのだろうと思われるのですが、ここに「「ナレンブルク」がシュティフターの創作力のもっともよく発揮されている作品の中に数えられているのは当然である」と書かれていたのには驚きました。しかしやはりこの日本語版では、到底その良さは味わえないと思いますね。残念です。他の方が改めて訳して下さるといいのですが。


「森の小道・二人の姉妹」岩波文庫(2006年2月読了)★★★★★お気に入り

【森の小道】…ティブリウス・クナイクトは、素晴らしい花と果樹に囲まれた、この上なく好ましい屋敷と美しい妻をもち、40歳を越えた今でも若々しく明るく、人々から愛されています。しかし彼が今の彼になる以前、実は彼は大変な大馬鹿者だったのです。
【二人の姉妹】…駅馬車に乗ってウィーンに向かっていたオットー・ファルクハウスは、宿泊しているホテルで旅の道連れだった年配の男性、フランツ・リカールに再会。2人ともしばらくウィーンに滞在する予定ということもあり、急速に親交を深めることになります。
(「DER WALDSTEIG/ZWEI SCHWESTERN」山崎章甫訳)

中編2編。どちらも素晴らしいです。
自然描写の荘厳さで言えば「水晶-他3篇 石さまざま」の方が上だったように思うのですが、こちらでは心が和むような情景が描かれていきます。「森の小道」では、暗い樅の木や明るい撫の木の立ち並ぶ「黒い森」の、明るく澄んだ柔らかな空気や、まっすぐに降り注ぐ昼の光、心地よい香りが描かれていきます。しかし自然の厳しさを感じさせるような描写もシュティフターならでは。一旦ティブリウスが森で迷ってしまうと、和やかだったはずの情景は一転して異界へ。驚くほど青かった竜胆の花も、恐ろしいような青色へと変化します。この場面がとても印象的でした。そして、ティブリウスが運命的に出会うことになるマリアは、まるで森の妖精のようですね。彼女の美しさに、ティブリウスはなかなか気づかないのですが。
「二人の姉妹」は、珍しくウィーンという大都会も描かれているのですが、その美しい描写の真骨頂はリカールの住む南チロル地方の場面にあります。特に印象に残るのは、夜、主人公がヴァイオリンの音に気づく場面。銀色の空には細い銀色の月がかかり、聞こえてくるのはヴァイオリンの黄金の音色のみ。
物語としてはどちらも天涯孤独で、しかし遺産によって裕福な男性が、素朴で暖かい人々との出会いを経て、愛や家族の素晴らしさを知るというもの。それほど起伏に富んでるとは言えないですし、決して派手ではないのですが、静謐な美しさに満ちています。しみじみとその良さが伝わってくるような作品。「二人の姉妹」の主人公が「永久に」「もう二度と」と思いつつ、その言葉を違えてしまうところがいいですね。最後にどうなるのかははっきりと書かれていませんが、明るい希望が感じられるラストです。最後まできちんと書かれていないのは、作者がマリアとカミラを引き離すに忍びなかったせいかもしれません。(しかしテレサとマリア・ミラノロ姉妹は、てっきり後半の物語に繋がってくるのかと思っていたのですが、そうではなかったのですね。この2人の肖像画が作品内に挿入されていますが、実在の姉妹だったのでしょうか)
読み終えた瞬間、何とも言えない満ち足りた気分になりました。人々のぬくもりが暖かく、しかし同時に滾々と湧き出る泉のような清々しい冷たさを感じるような作品でした。


「晩夏」上下 ちくま文庫(2006年2月読了)★★★★★

ウィーンに店を持つ裕福な商人の息子として生まれ、堅実な家風の中で育ち、個人教授について様々な学科の手ほどきを受けた「私」は、成人した時に自らの希望で専門のない学者となり、いずれ何かを選ぶ日がくるが来るまで様々な勉強を続けることに。ある夏、自然の観察をしながらの旅の途中、高い山脈から丘陵地へと向かって降りていた「私」は、西の方に雷雲が拡がるのを見て、近くにあった薔薇の花に覆われた家に雨宿りを求めます。求めに応じて出てきた老人は雷雨は来ないと断言。しかし「私」は、自分の研究してきた自然科学の知識を信じていました。「私」は家の中に招き入れられ、雷雨が本当に来るかどうかしばらく様子を見ることに。しかし結局雷雨は来なかったのです。なぜ雷雲があるのに雷雨が来なかったのかを解き明かす老人の言葉に感銘を受けた「私」は、その夏から足しげくその薔薇の家を訪れることに。(「DER NACHSOMMER」藤村宏訳)

オーストリアの山岳地方を舞台とした物語。「晩夏」という題名は、夏の終わりを意味する言葉ではありますが、秋のさなか、あるいは終わり頃に訪れる、短い夏のような天気、小春日和のことでもあるのだそうです。この物語の中には終始、読んでいるだけでも気持ちの良くなるような爽やかな空気が漂っており、日本でいえば五月晴れのような澄んだ空を思わせます。日本では、秋よりもむしろこの爽やかな初夏の時期に合っているかもしれません。
訳者である藤村氏の解説にもあるように、この物語には、当然人間の中にあるべき悪意などの負の感情が存在しません。主人公は両親や妹と深く愛し合い、尊敬し合い、理想と言うべき家族関係を築いています。いくらこの時代でも、このような素晴らしい家族が存在しているのか疑ってしまうほど。恵まれた環境に生まれ、自らたゆまぬ努力を続け、挫折を知ることなく成長していく主人公の姿は、あまりに出来すぎていて現実感がないとも言われてしまいそうなほどです。そして薔薇の家の主人の周囲の人々も、互いに尊敬し合い、尊重し合い、素晴らしい関係を築いています。しかしこのように負の感情が描かれていないからこそ、際立つものがあります。読み始めた時は「晩夏」というタイトルに少々違和感を覚えていたのですが、リーザハとマティルデのエピソードを読むと、この題名にも納得がいきます。実際、「DER NACHSOMMER」という題名には「老いらくの恋」のような意味合いも含まれているのだそうです。そして薔薇の家が、「純粋」の象徴である高山と「文化」の象徴である都会の中間地である丘陵地帯に位置するというのも、象徴的で興味深いですね。
シュティフターと同時代の劇作家フリードリヒ・ヘッベルには、この小説を終わりまで読み通した人には「ポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評され、一方ニーチェには「ドイツ文学の宝」と絶賛されたという作品。確かにこの長い物語は起伏に乏しく、読んでいて退屈な人も多くいるのかもしれませんが、私自身はニーチェの言う「ドイツ文学の宝」という言葉を支持したいです。読むこと自体が喜びとなるような雄大な流れを持つ作品です。


「石さまざま-シュティフター・コレクション1・2」上下 松籟社(2008年12月読了)★★★★★

【花崗岩】…父の生家の前にあった大きな八角形の石に座っていた「私」は、車軸用の油を売りに来ていたアンドレーアスじいさんに足に油を塗ってもらい、嬉しいような落ち着かないような気持ちのまま母のところへ。しかし綺麗に洗われ磨かれた床に油の跡がついて大騒ぎになります。
【石灰岩】…測量の仕事をしている「私」は、職務のために訪れたむき出しの石灰石の丘ばかりある恐ろしい土地で、かつて小さな町で出会った1人の貧しい田舎司祭に再会します。彼は貧しい暮らしで、上着もひどい状態でしたが、その下に隠された下着は一見して上等と分かるものでした。
【電気石】…幾年か前にウィーンの都に住んでいた奇妙な男の物語。彼は40歳ぐらいで、30歳ほどの美しい妻と小さな娘がおり、日々沢山の肖像画を眺め、グランドピアノとヴァイオリン、フルートで演奏し、油絵を描き、隣の小部屋では詩や物語を書き、読書や工作をして日々過ごしていました。
【水晶】…谷間の小村・グシャイトの靴師のもとに、活気のあるミスドルフから富裕な染物師の娘が嫁ぎます。コンラートとズザンナという2人の子供が生まれ、兄妹はある程度大きくなると、2人だけでミスドルフの祖父母の家に行くように。しかしある冬、2人は帰り道で迷ってしまいます。
【白雲母】…都会から遠く離れた美しい農園。農園主と妻は冬の間は首都で暮らし、春になると農園で農園主の母の元へ。その暮らしに、2人の娘・エマとクレメンティア、さらに息子のジギスムントが加わると、祖母は孫たちを連れて丘や谷を歩き、胡桃山に登り、様々な物語を語って聞かせることに。
【石乳】…アクスという名の城の城主は生涯独身で、財産を管理してくれる「支配人」とその家族、支配人の子供たちのための教師と共に暮らしていました。そんな折、フランス戦争が始まります。 (「BUNTE STEINE」高木久雄・林昭・田口善弘・松岡幸司・青木三陽訳)

「石さまざま」の全編が読める新訳版。「水晶」「花崗岩」「石灰石」「石乳」は再読。
この本の序文は、こういう言葉で始まっています。「かつて私はこう言われたことがある。私が描くのは小さなものばかりで、登場人物たちも、いつもありふれた人間ばかりだと。もしこの言葉が真実だとしたら、私が今日読者の方々にお店しようとしているのはさらにもっと小さいもの、もっとつまらないものだということになる」 …シュティフターが生きていた当時、シュティフターの作品はあまり一般的に評価されなかったようです。シュティフターが描くものは、一貫してシュティフターの故郷の小さな村やすぐ近く流れるモルダウ川、そしてボヘミアの森の情景。美しくも恐ろしい大きな自然の描写はとても力強く絵画的なもので、作家であると同時に画家でもあったというシュティフターの特質が良く表れています。
そして次に印象に残るのは、そういった美しく大きな自然と共に暮らす人々の姿。彼らは純朴ながらも気高く、美しく、賢い、常に向上心を持ち続ける人々。シュティフター自身、外的な自然に対して人間の心を内的な自然と考えていたようです。そして自然における「大気の流れ、水のせせらぎ、穀物の成長、海のうねり、大地の緑、空の輝き、星のまたたき」を偉大だと考えていたように、人間の中の「公正、素朴、克己、分別、自分の領域での立派な働き、美への感嘆。そういったものに満ちた人生が、晴れやかで落ち着いた死をもって終わるとき、私はそれを偉大なものと見なす。」と書いています。こういった文章を読んでいると、シュティフターの描こうとしていたもの、そして実際に描いたものがより一層理解できるような気がしますね。シュティフターが描いているものは、波乱に満ちたドラマティックな人生ではなく、人間の普通の日常生活の繰り返し。しかし「私の中に何か高貴なもの、善きものがあれば、それは自ずから私の書くものの中に存在するだろう」とあるように、シュティフターの作品には見間違えようもない普遍的な輝きがあると思います。
収められた6編もとても素晴らしいのですが、こういったシュティフターの姿勢が分かる序文が素晴らしいです。そしてもっと気軽に自分が子供時代に好きだったもの、今も好きなものについて語った「はじめに」も。岩波文庫版の「水晶 石さまざま」を読んだ時にも収められていた序文ですが、あらためてじっくりと読み入ってしまいます。


「森ゆく人-シュティフター・コレクション3」松籟社(2008年12月読了)★★★

オーストリアとボヘミアの両国が接する辺りに広がるボヘミアの森やモルダウ川の近くにあるトイフェルスマウアーの峡谷に、かつて好んで森を訪ねることから「森ゆく人」というあだ名のついた老人・ゲオルグが暮らしていました。彼は森番のライムント一家と親しくなると、森番の1人息子のジミことジーモンを連れて森の中を歩き回り、読み書きを教えるようになります。(「DER WALDGANGER」松村國隆訳)

シュティフターの故郷なのでしょうね。ボヘミアの情景がまるで風景画のように細密に描写されて、物語の進行そのものよりもそちらに重点を置かれているように感じられるほど。その情景の中に「森ゆく人」の物語がはめ込まれたという印象の作品です。物語の中心となる「森ゆく人」という言葉が登場するのが、物語が始まって20ページも過ぎてからというのは、多少構成に難があるような気もしますが。
「森ゆく人」が最初に登場した時は既に老人。隠者のような落ち着きを見せるゲオルグの姿に、いつものように穏やかな流れの物語となるのかと思ったのですが、そうではありませんでした。今回は自然の情景があくまでも美しいままで、その恐ろしさを見せなかったからなのでしょうか。物語のメインは、後半は「森ゆく人」となるゲオルグの半生の物語。若くして両親を失うことになったゲオルグとコローナ。この2人がめぐり合い結婚した短い幸せな日々とその後の2人の物語。
クライマックスは、やはり新しい人生を歩み始めたゲオルグとコローナの再会の場面でしょうか。この場面でゲオルグが感じる後悔と喪失感が何ともいえません。しかしコローナの言い分がどうであれ、そのことを受け入れてしまったのはゲオルグの責任なのです。そして同時にコローナの言動が、ゲオルグを試すものだったようにも感じられてしまうのですが、その責任を取らなくてはならなくなるのは、他ならぬコローナ自身。ここで1つの物事に対する男女の考え方の違いが露に描かれており、しかもとても現実味があるのが、深く印象に残ります。


「書き込みのある樅の木-シュティフター・コレクション4」 松籟社(2009年2月読了)★★★★

【高い森】…200年ほど前、30年戦争が起きた頃。今は廃墟となっている城はヴィッティングハウゼンの宮殿と呼ばれ、そこにはクラリッサとヨハンナという美しく優しい姉妹が住んでいました。
【書き込みのある樅の木】…ボヘミア南部の「書き込みのある樅の木」は、広大な森林に入る時にある種の指標となるように定められた場所の1つ。そこには幹に沢山の印が刻まれた大きな樅の木がありました。その樅の木がまだ若木で、美しいハンナとハンス、そして美男子グイードがいた頃の物語。
【最後の1ペニヒ】…主の館が建てることになり、みなが次々とやってきてそれぞれに建物に贈り物をしていきます。山にいた貧しい男は最後に残った1ペニヒを捧げることに。
【クリスマス】…聖霊降臨祭が愛らしい祝祭で、復活祭が崇高な祝祭だとすれば、クリスマスは真心の祝祭であり、子供の中の王者たる幼子の祝祭。そのクリスマスについてのエッセイ。(「DER BESCHRIEBENE TSNNLING」磯崎康太郎編訳)

今回のこの本は、シュティフターの作品に共通する主題である「森」に着目して編んだという短編集。モルダウの流れるボヘミア南部の森、自然の美しさと恐ろしさを併せ持つ森は、シュティフターの故郷だということもあって作品中によく登場しますが、ここに収められた作品もそういった作品群。読んでいると気持ちが穏やかになるような気がしてくるシュティフターの作品でも、一層静けさを感じるものだったように思います。読んでいると、本当にしんと静まり返った森の中にただ1人いるような気がして、なにやら怖くなってしまうほど... 作品には森で暮らす人々のことが書かれているのですが、本当の主人公はこの「森」そのものなのかもしれませんね。最初の「高い森」と表題作「書き込みのある樅の木」は中編、次の「最後の1ペニヒ」が短編、そして「クリスマス」がエッセイ。
美しくも哀しくロマンティックな「高い森」もいいのですが、私が好きなのはやはり表題作でしょうか。訳者解説を読むと、シュティフターの同時代の人々には酷評されていたようですが... どうやら違う点にばかりに目を向けていたようですね。しかしこの結末が雑誌版ではまた違っていたと知って驚きました。この本に収められている結末の方が断然好きです。それが次の「最後の1ペニヒ」に繋がっていくとあれば尚更。そう、この並び順がまたとても素敵なのです。

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