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このページは、ベルンハルト・シュリンクの本の感想のページです。

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「朗読者」新潮クレスト・ブックス(2005年12月読了)★★★★★

15歳の秋に黄疸にかかり、翌年初めにようやく癒えたミヒャエル・ベルクが、元気になってまず最初に出かけたのはバーンホーフ通り。10月のある月曜日、ミヒャエルは学校からの帰り道に突然吐いてしまい、そこに住む女性の世話になったのです。その女性の名はハンナ・シュミッツ。最初の訪問では着替え中のハンナと目が合ってしまい、逃げるように家に帰ったミヒャエルでしたが、彼女のことが忘れられず、1週間後再びハンナの家へと向かいます。そしてミヒャエルは36歳のハンナに恋してしまうことに。2人は身体の関係を持ち、ミヒャエルはハンナに求められるがままに、毎日本の朗読をします。毎日のように逢う2人。しかしある日突然ハンナがいなくなってしまうのです。(「DER VORLESER」松永美穂訳)

15歳の少年と36歳の女性の短く濃い恋物語かと思いきや、物語は思わぬ方向へと展開していくことになります。大学で法律を勉強していたミヒャエルが傍聴したナチスの裁判で、ハンナに再会することになろうとは。
恋愛中に突然相手に去られてしまうというのは、これ以上ないほどの失恋であり、しかも同時に相手への気持ちを残してしまうものなのではないかと思います。ハンナとしては、ミヒャエルが彼に相応しい仲間たちに囲まれているのを見て、身を引いたつもりだったのでしょうけれど、残された方はずっと一緒にいたはずなのに、自分は相手の何を見ていたのか、何を知っていたのか、と自問自答を繰り返してしまうのではないでしょうか。ゲルトルートとの結婚生活が短く終わってしまったのも、その痛手をまともに受けたミヒャエルが、大人になっても心の奥底に残っていたわだかまりを溶かすことができないままでいたせいかもしれませんね。本当は大人の包容力でミヒャエルを無事に卒業させて欲しかったとこころなのですが、ハンナにはあれが精一杯だったのでしょう。そういう行動しか取れなかったところに、逆にハンナの深い愛情と切ない気持ちを感じます。そして中盤から終盤にかけて、ハンナの過去や思いなどが徐々に明らかになっていきます。何を言っても正しく理解してもらえないことに全てを諦めてしまうハンナ。そして知られたくない自分の秘密を隠し通すために、罪を甘んじて受けることにしてしまうハンナ。この秘密のことが分かった時、前半の様々なことが腑に落ちます。
おそらくテープを送り続けるという行為は、他ならぬミヒャエル自身の心のわだかまりをほぐし、ハンナの気持ちを柔らかくし、様々な過去の出来事を昇華させてくれたのでしょうね。ラストのハンナの決断は哀しいですし、同じことを2度も繰り返して欲しくなかったのですが、ここでもやはりハンナの気持ちは痛いほど分かる気がします。今のミヒャエルは15歳の時とは違いますし、今度こそ間違いなく受け止められるのでしょうね。

P.107「わたしは… わたしが言いたいのは… あなただったら何をしましたか?」


「逃げてゆく愛」新潮クレスト・ブックス(2005年12月読了)★★★★

【もう一人の男】…仕事を引退して2、3ヵ月後、末期癌だった妻が亡くなり、全てが片付いてしまった後で、知らない男から妻宛てに親密そうな手紙が届きます。
【脱線】…チェスを通してスヴェンと知り合った「ぼく」。スヴェンとパウラ、そして娘のユリアとの友情はベルリンの壁崩壊後まで続くのですが…。
【少女とトカゲ】…父の仕事部屋に大切に飾られていた少女とトカゲの絵。少年は、絵を文章で表現するという宿題でこの絵を使おうとするのですが、父に止められます。
【甘豌豆】…建築学を修め、屋根の改築や増強をしていたトーマスは、ある日橋のコンペティションで2位に入賞。仕事も結婚も好きな絵も愛人関係も順調に進むのですが…。
【割礼】…ニューヨークに留学中のドイツ人のアンディは、ユダヤ人のサラと恋に落ちます。サラの一族のユダヤ式の儀式にも招かれ、その一族にも快く受け入れられるのですが…。
【息子】…現在紛争中の国に派遣された12人の監視団。彼らは2人ずつ6つの地域に派遣され、同じ地域に派遣されたドイツ人とカナダ人が、それぞれ息子のことを思います。
【ガソリンスタンドの女】…15、6歳の頃から彼が何度もみていたのは、荒涼とした平原を車で走り、ガソリンスタンドで1人の女性に出会う夢でした。(「DER VORLESER」松永美穂訳)

7編がおさめられた短編集。全体的にとても静かな印象です。熟年に達した男女の愛情や生活を描いた「もう一人の男」や「甘豌豆」、「ガソリンスタンドの女」のような作品もありますが、「脱線」も「少女とトカゲ」「割礼」「息子」といった、ドイツ人とユダヤ人、あるいはドイツが内包する政治的問題などを絡めて描いた作品も目につきます。特に「少女とトカゲ」と「割礼」では、戦争を直接体験した親世代、そして知識としてしか知ることのない子供世代について考えさせられます。しかし「割礼」のサラのような女性とつきあっていたら、どのような男性でも自分の言葉に細心の注意を払わないとならず、相当苦しいでしょうね。ユダヤ人は誰に悪いことをしたわけではない、しかしドイツ人は自分たちがユダヤ人にしたことをきちんと知り、常に意識していなければならないし、ユダヤ人がドイツ人の中にナチを探すのは当然である、という考えを持つ女性と恋愛関係にあるなど、考えただけでも息が詰まってしまいそうです。もちろん知らずに済まされることではありませんし、サラにとっては「無知=罪悪」なのでしょう。自分の父親が戦時中に何をしていたのかという質問にも答えられないアンディのような人間は、見ていて相当歯がゆいはず。しかしだからといって、サラがそういう意識を持っている限り、アンディとサラが民族の違いを乗り越えることは決してないでしょうね。アンディが割礼などしても、この2人の間の根本的なことは何も変わらないでしょう。彼の努力は認めてしかるべきだと思いますが。
この中で一番印象に残ったのは、「もう一人の男」。ここでは妻を亡くした男と、その妻が関係していたかもしれない男の2人が登場し、疑心暗鬼なやり取りが繰り返されるのですが、肝心の妻が既に死去しているため、その妻の気持ちだけは誰にも分からないままなのです。確かに愛と感じていたものは、本当は何だったのでしょう。
かつては確固とした存在を持っていたはずが、いつの間にか形を変え、掴み所のないものへとなり、指の間からすり抜けていってしまう「愛」。ごく個人的なものでありながら、その人間の存在する社会の情勢変化の影響を受けずにはいられないものであり、たとえそれらの形が変容しても、ただ見ていることしかできない人々。「逃げてゆく愛」という邦題はこの短編集にとても良く合っていると思います。


「帰郷者」新潮クレスト・ブックス(2009年2月読了)★★★

子供のころ、毎年のように休暇をスイスの祖父母の家で過ごしていたペーター・デバウアー。祖父母は「喜びと娯楽のための小説」という冊子シリーズの編集の仕事をしており、ペーターはよく裏の文章は読まない約束で綴じた見本刷りの余りをもらっていました。ペーターの父は既に死んでおり、母の稼ぎは少なく、紙は高価だったのです。数年間は祖父母との約束を守って文章を読まなかったペーター。しかし数年後、ふとしたことから裏に書かれていた帰還したドイツ兵の物語の断片を読み、そこに書かれていた物語に興味を引かれることに。(「DIE HEIMKEHR」松永美穂訳)

物語の中心となるのは、作者も題名も分からない小説の断片。その最後のシーンで、やっとの思いで帰郷したカールというドイツ兵が見出したのは、相変わらず美しい妻、妻と共にいる2人の幼い女の子、そして見知らぬ男性。ペーターは小説の断片をつなぎ合わせて読むうちに、それがホメロスの「オデュッセイア」になぞらえられていることに気づきます。そしてこの小説を読んだ時から、ペーターの長い遍歴も始まるのです。しかし遍歴の後イタケーに帰り着いたオデュッセウスが見出したのは貞節なペーネロペイアでしたが、彼が帰り着いた時、そこで待っていてくれるのはペーネロペイアとは限りません。
シュリンクの作品を読むのは3冊目ですが、今回はあまり入り込めませんでした。中心となる小説の断片にあまり魅力が感じられなかったというのもあるのですが、他にも気になる点がいくつか。まず、事実の周りをぐるぐると回るうちに、ペーターはある時いきなり核心に近づくのですが、なぜその確信を得たのでしょう。突然自信を持って話し始めるペーターに驚かされたのですが、天啓のようなものだったというのでしょうか。この辺りには、もう少し説明が欲しかったところ。そして少年時代に出会ったルチアを始めとして、いかにも意味がありそうなのにそのままになってしまった人物や出来事があり、それらの放置も気になりました。さらに「オデュッセイア」。私が読んだ「オデュッセイア」はイタカに戻ったオデュッセウスがペーネロペイアと幸せに暮らすという幕引きだったはず。私が読んだのは岩波文庫の松平千秋訳なのできちんとしているはずなのですが… ペーターと同じように私も勘違いしているのでしょうか。それともドイツ版は違うのでしょうか。
この作品でもこれまで同様、ナチスのことや、東西ドイツを隔てていた壁の崩壊などのドイツの歴史的瞬間が描かれ、まだまだシュリンクにとって第二次世界大戦は過去のことではないのだということを感じさせられます。ペーターの読んだ「オデュッセイア」で、オデュッセウスがイタケーに戻った後もさらに遍歴を重ねなければならなかったとあるように、シュリンクもまた遍歴し続けなければならないのでしょうか。しかし安住の地を見出したペーターのように、どこかに希望も感じられますし、シュリンクの中の第二次世界大戦も、徐々に終わりに近づいているということなのでしょうか。

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