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このページは、ダニエル・ぺナックの本の感想のページです。

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「奔放な読書-本嫌いのための新読書術」藤原書店(2009年5月読了)★★★★

小さい頃は夜寝る前のお話が大好きだったのに、いつしか読書嫌いとなっていく子供たち。それはなぜなのでしょう。そしてどうすればまたお話が大好きになってくれるのでしょう。現役の高校教師だというダニエル・ペナックの場合は。(「COMME UN ROMAN」浜名優美・浜名エレーヌ・木村宣子訳)

読書嫌いが国語教育のせいばかりとは思いませんが、国語教育が読書好きを増やすことがないというのは確かかもしれません。国語の授業で求められるのは正しい理解。この文章は何に関するものなのか、この文章からはどういったことが読み取れるか、この時作者は何を言いたかったのか。あるいは、ここに入る接続詞は何なのか、この言葉を漢字で書きなさい…。そんな設問ばかり。挙句の果てには読書感想文の提出。正しい理解なしには文章を読んではいけないとでもいうような教育によって、学校では本を読むことは教わるけれど、本を好きになることは教わらないというのは、確かにその通りですね。そしてまた1人本嫌いが生まれるのです。
そこで現役の高校教師でもあるダニエル・ペナックが打ち出したのは、本の読み聞かせ。予備知識は一切なしで、メモをとる必要もなく、とにかく静かに本が朗読されるのを聴いていればいい、という状況を作り出すこと。そしてひたすら読み聞かせているうちに、続きが気になった子供たちは逆に自分から本を手に取るようになったといいます。(ここでペナックが選んだのはパトリック・ジュースキントの「香水」なのですが、外側は威圧感を感じさせるとても大きな分厚い本、しかし内実は大きな字に広い余白、というのがペナックらしくて可笑しいところ)
ここから考えられるのは、まず「読書と引き換えに何も求めないこと」の大切さ。実際、こうして本を読むのが好きな私ですが、その本をどのように読んだかと分析的なことを問われるとつらいものがあります。同じ人間が同じ本を読んでも、その時々の経験値や精神状態によって印象が変わってくるもの。ましてや同じ作品を読んでも人によって受け止め方が違い、感じることが違うのは当然のこと。一般の本好きとしては、評論家のように読む必要はないのです。やはり読書をする上で一番大切なのは、読み手の自由のような気がします。そんな読書の自由を得た上で、他人と本を読む楽しみを共有できれば、それ以上言うことはないかもしれません。
「本嫌いのための新読書術」という副題ですが、これは本が嫌いな人間に向けての本とは思えません。むしろその周辺のための本。本嫌いの子供を持つ親、そして学校の国語教師に向けて書かれたような本ですね。

読者に与えられた権利10ケ条(あるいは読者が絶対に持ってる権利)とは。
 1. 読まない
 2. 飛ばし読みする
 3. 最後まで読まない
 4. 読み返す
 5. 手当たり次第になんでも読む
 6. ボヴァリズム(小説に書いてあることに染まりやすい病気)
 7. どこで読んでもいい
 8. あちこち拾い読みする
 9. 声を出して読む
 10. 黙っている


「人喰い鬼のお愉しみ」白水社(2004年10月読了)★★★★★

バンジャマン・マロセーヌは、デパートの商品の品質管理係。しかしその実態は苦情処理係。職業的なスケープゴート。怒った客がデパートに来るたびに「お客様ご要望コーナー」に呼び出され、客の前で上司・レーマンにこっぴどく叱られる毎日なのです。しかしマロセーヌが反省して嘆き悲しみ、それに追い討ちをかけるようにレーマンが怒り狂い解雇や減給を言い渡すと、見ていた客たちは一様に態度を一変。みな一様にマロセーヌに同情し、マロセーヌが首にならないようにレーマンに喰ってかかり、訴えを引っ込めることになるのです。そして結果的に、デパートは損害賠償を払わずに済むという寸法。そんなある日、マロセーヌの目の前で爆弾事件が起こります。その爆弾事件は2度3度と続き、そのたびに死人が出ることに。当然、常に現場近くにいるマロセーヌが疑われることになるのですが…。(「AU BONHEUR DES OGRES」中条省平訳)

フランスでブレイクしているという、ダニエル・ぺナックのユーモアミステリ。
バンジャマン・マロセーヌは6人きょうだいの長男。看護婦で妊娠中のルーナと、秘書学校に通う占い好きのテレーズ、カメラの好きな高校生・クララ、中学生の弟・ジェレミー、そして「ちび」、さらに犬のジュリユスと共に暮らしています。彼らの母親は、父親の違う子供を次々に生み、その世話をバンジャマンの手に任せたまま、現在も新しい恋人・ロベールと一緒に家出中。一家の家計は全てマロセーヌの肩にかかっているため、マロセーヌは今の仕事をなかなか辞められないという状況。というように、マロセーヌの家庭もかなり個性的なのですが、職場の方でも、デパートのボス・サンクレール、直属の上司・レーマン、常にスピード写真を撮っているおかまのテオ、夜間警備員のストジル、「アクチュエル」の記者で、雌ライオンのような美女・ジュリア叔母さんなど、個性的なキャラクターのてんこ盛り。物語の展開も軽快、小さなギャグもふんだんに取り入れられており、ユーモアたっぷりです。
しかし、そんな風に個性的なキャラクターが入れ替わり立ち代り登場し、面白そうな愉しそうな雰囲気だけは十分なのですが、いかんせん、人間関係の説明があまり親切ではないのです。このマロセーヌの周囲の人物たちの関係、そしてマロセーヌの仕事の実態を掴むのにかなり時間がかかってしまい、そのためにせっかくの面白さが半減してしまったような気がします。それがとても勿体無かったですね。それでも、どこか後を引く面白さがある作品。この1作目で大体掴めたように思いますし、シリーズの続きを読めば、もっと楽しめるのではないかと思います。続きもぜひ読んでみたいシリーズです。

2008年9月に再読。初読の時は基本的な設定を掴むのに精一杯でしたが、2度目ともなると純粋に楽しむことができました。前回とは比べ物にならないほど面白かったです。


「カービン銃の妖精」白水社(2008年9月読了)★★★★★

冬のベルヴィルでは4人もの老婆が喉を掻き切られ、しかも老人が薬の売人に狙われるケースが多発していました。マロセーヌの家にも元肉屋のロニョンじいさん、元本屋のリソンじいさん、元床屋のメルランじいさん、そしてヴェルダンじいさんらがかくまわれ、隣に住む元靴屋もマロセーヌの家へ。家族や老人たちの世話のために、マロセーヌは職場のタリオン出版にも出勤できない状態となっていたのです。(「LA FEE CARABINE」平岡敦訳)

「人喰い鬼のお愉しみ」の続編のマロセーヌシリーズ第2弾。
前回のラストでデパートを首になり、出版社に転職したマロセーヌ。「文芸部長」という肩書きもなんのその、またしても同じようなスケープゴートの仕事です。しかし扶養すべき家族も増え、のんびりしている暇などないマロセーヌなのですが、家に世話すべき老人たちまでが増えてしまい、現在は休暇中。職場ではなく、プライベートでもスケープゴートを演じることになります。今回も「人喰い鬼のお愉しみ」にあった、「すべての説明不可能な出来事を説明する、謎の、だが異論の余地のない原因(P.150)」状態。今回起きるいくつかの事件が、どれもマロセーヌを犯人として名指ししていると思われ、警察の目はマロセーヌ一直線。本当はマロセーヌこそが聖人だというのに。
今回、最初の殺人事件を目撃した「ちび」が、「ねえ!妖精を見たんだ!」「本物の妖精さ。とっても年寄りで、とってもいい妖精なんだ!」「男の人を花に変えちゃったんだ!」と兄や姉に報告、頭がスイカ割りのスイカのように吹き飛んでしまうような陰惨な血塗れのシーンが、まるで違う雰囲気になってしまうことに驚かされるのですが、作品全体がそのような感じ。どこか本筋から離れてしまっているような、どこか読者を食ったような文章がとても饒舌です。特に1章の饒舌さには、ニコルソン・ベイカーの「中二階」を思い出してしまいました。そして今回も個性的な… というよりも一癖も二癖もある面々が我先にと動き回ります。5人の父親の違う弟や妹たちに癲癇持ちの犬、デパートの警備係のストジルコヴィッチは既にお馴染みですが、今回初登場の2人の刑事、ヴァン・チアンとパストールもいい味を出していますね。パストールの「危ないじゃないですか」も、思わず本音が出てしまった感じでとても良かったですし、占い好きのテレーズの活躍も光ります。チアンがマロセーヌの家にいる場面は、いかにもコミカルで笑いを誘います。
訳者は変わっても、面白さには変わりありません。むしろパワーアップです。


「片目のオオカミ」白水uブックス(2008年11月読了)★★★★★

檻の前に2時間以上も身動きせずにじっと立ち続けていたのは1人の少年。少年は青い毛並みのオオカミが行ったり来たりするのを1日中眺め続けていたのです。少年が一体自分に何をして欲しいのかと不思議に思いながらも、そのうち飽きるだろうと考えるオオカミ。しかし少年は翌日もそのまた翌日も、そしてその翌日も、月に一度の休園日も、オオカミの檻の前に1日中立っていたのです。10年前に人間に生け捕りにされた日に片目を失って以来、人間に二度と興味を持つまいと誓っていたオオカミですが、やがて根負けし、檻の中を歩き回るのをやめて少年に真正面から向き合うことに。(「L'OEIL DU LOUP」末松氷海子訳)

目に映るものも見ようとせず、何にも興味を持たず、外界から心を閉ざし、無気力で孤独なまま檻の中を歩き続けていたオオカミ。そのオオカミが少年のまなざしに正面から向き合い、少年を理解し信頼することによって徐々に心を開き、再び生きる力を得る物語。
作品としては児童文学の範疇に入るのかもしれませんが、これはとても深い物語ですね。子供のうちに読んでも楽しめるでしょうけれど、この作品を本当に理解できるのは大人になってからでしょう。「先進国に対するアフリカ」や「自然破壊」など表にはっきりと表れているテーマもありますが、一番大切なことはもっと深いところに隠れています。ここに登場するオオカミとは。少年が片目をつぶるというのはどういうことを意味しているのか。そして動物園の他の動物たちとは。読んでいると1つ1つの言葉の隠し持つ意味を考えたくなります。オオカミを理解するために少年は片目をつぶり、少年に理解された時にオオカミは片目を開け、その時オオカミの人間に対する恐怖や不信感、絶望は払拭し、目の前には新たな世界が広がります。
とても静かな物語ですが、様々な意味合いを内包していると思います。フランス人作家のダニエル・ペナックがこのような物語を書いていることに驚きましたが、モロッコのカサブランカで生まれ、両親とともにアジアやアフリカの各国で暮らした経験を持つと知って納得です。


「散文売りの少女」白水社(2008年10月読了)★★★★

タリオン出版でスケープゴート(身代わりの山羊)の仕事をしていたマロセーヌは、ザボ女王に辞表を提出。妹のクララが60歳の刑務所所長と結婚すると言い出し、マロセーヌは大きなショックを受けていたのです。そんなマロセーヌに逆にクビを言い渡すザボ女王。しかし2日後に態度を翻します。今度は「憎悪」ではなく「愛」の仕事があるというのです。そしてマロセーヌは、覆面ベストセラー作家・J・L・B になりすますことに。(「LA PETITE MARCHANDE DE PROSE」平岡敦訳)

マロセーヌシリーズ第3弾。
毎回自分が悪いわけでもないのに激怒している人々に怒鳴りつけられ、しかもあまりにも身の回りで事件が頻発するせいで警察からは爆弾犯や殺人犯と間違えられ、大迷惑を蒙っているバンジャマン・マロセーヌ。しかし今回の彼の悲惨さはこれまでの比ではありません。最早現実に起こりえることとは思えないほどです。それでもいつもながらのアクの強い登場人物たちやアクの強いストーリー展開に、なし崩しのうちに納得させられてしまうのが凄いですね。今回面白かったのは、バンジャマンとそれぞれ父の違う6人の弟や妹たちが、母親の「情熱の果実(パッション・フルーツ)たち」と表現されていたこと。これはなかなか粋な表現。そして血の繋がった家族以外にも、不潔で臭い癲癇持ちの犬のジュリユス、バンジャマンの恋人のジュリー。友達でイカサマ賭博の元締めのアドゥシュ、両親不在のマロセーヌ一家の親代わりのアマルとヤスミナ、ホー・チ・ミンの顔にジャン・ギャバンの声で子供たちに物語を聞かせるベトナム系フランス人のチアン刑事などが、バンジャマンの味方として控えています。バンジャマンがどのような事態に陥っても、彼らは決して彼を見捨てたりはしません。
そして今回は、ガリガリの体に恐ろしく太った顔、並外れた嗅覚の持ち主のザボ女王と、ザボ女王を支えるアフリカ系フランス人・カザマンスのルサのエピソードが良かったです。ただ、「散文売りの少女」という題名は原題の忠実な訳とはいえ、あまりこの作品に似合っていないような気がしますね。


「カモ少年と謎のペンフレンド」白水uブックス(2008年11月読了)★★★★

カモの英語の成績は20点満点の3点。ロシア移民の祖母を持ち、自分でも10ヶ国語ぐらい話せるお母さんは通信簿を見て怒りだし、カモに3ヶ月で英語を完璧にマスターしろと言いつけます。3ヶ月で外国語を1つ丸々覚えるなんて到底無理だと抗議するカモにお母さんが渡したのは、英語っぽい響きの名前がずらりと並んだメモ用紙。それはペンフレンドの名前のリストでした。カモがフランス語で手紙を書くと英語で返事が来るという仕組みで、3ヶ月も経てばバイリンガルになるというのです。そしてカモが15の名前の中から選ぶことになったのは「キャサリン・アーンショー」でした。(「KAMO L'AGENCE BABEL」中井珠子訳)

カモ少年のシリーズは日本ではこの1作しか訳されていないのですが、4部作でフランスの小中学生に人気のシリーズとのこと。
カモ少年の文通相手の名前が「キャサリン・アーンショー」だと分かった途端に、何かがおかしいとは思いましたが、そのキャサリン・アーンショーからの返事の内容が、まさにそのキャサリン・アーンショーならではの手紙。この時点で展開はある程度予想できてしまうのですが、それでもとても楽しかったです。伏線の生かされ方もとても粋でいいですね。
最初の15人のリストにあった名前の中で作中に書かれているのは、メイジー・ファランジュ、ゲイロード・ペンティコスト、ジョン・トレンチャード、キャサリン・アーンショー、ホールデン・コールフィールド。最初の3人については知らないのですが、ジョン・トレンチャードは英国の政治評論家のようですね。そして途中で出てくるのは「テッラルバ子爵」に「ネートチカ・ネズナーノワ」、「イエスタ・ベルリング」。分かる人には分かるでしょう。にやりとさせてくれる作品です。


「ムッシュ・マロセーヌ」白水社(2008年10月読了)★★★★★

ベルヴィル最後の映画館・ゼブラ座の舞台で、ヤスミナのクスクスを囲んでいたマロセーヌ一家。集まったのはバンジャマン、クララ、テレーズ、ルーナ、ジェレミー、ちび、ヴェルダン、《天使だね(セ・タン・ナンジュ)》、犬のジュリユス、バンジャマンの子供を妊娠中のジュリー、錠前屋の<雪のシスー>、ゼブラ座の女主人・シュザンヌ、ベン・タイェブ一族の総勢18人。その時、ゼブラ座の扉からノックの音が響き渡り、全員が固まります。しかしそれはマロセーヌ一家のママが28ヶ月ぶりに帰還した音。ママの姿を見て喜ぶ一同でしたが、バンジャマンにとってはどことはなく違和感がありました。パストール刑事との28ヶ月にわたる逃避行にも関わらず、ママのおなかはぺったんだったのです。(「MONSIEUR MALAUSSENE」平岡敦訳)

マロセーヌシリーズ第4弾。
前回は本にまつわる話だったのですが、今回は映画。たとえば「執行吏のラ・エルスは二度ベルを鳴らした」が「郵便配達は二度ベルを鳴らす」からの文章だったりと、あちらこちらに映画のネタが散りばめられているようです。そしてこれまで以上にミステリとしての謎がいっぱい。おなかがぺったんこのまま帰ってきた「ママ」の謎。一体パストール刑事はどうしたのでしょう。2人の仲が破局して「ママ」が帰ってきたのか、それとも…? そしてチアン刑事の娘・ジェルヴェーズが世話をしていた売春婦たちが消えた謎。刺青のコレクションと殺人鬼の謎。聖女の妊娠の謎。シリーズ最終巻に相応しく1冊目「人喰い鬼のお愉しみ」からの登場人物が勢揃いです。そして物語はこれまで以上にとんでもない展開を見せてくれます。これまでも血塗れの死体が散乱していましたが、今回はさらにグレードアップ。累々と横たわる屍の山。しかもクードリエ警視長が定年退職してしまったため、バンジャマンの天性のスケープゴートぶりを理解してくれる人間がいなくなってしまいます。後任のルジャンドルはクードリエ警視長の娘婿なのですが、この人物に関してはクードリエ警視長が警告していた通り。
しかしここまで読んできたものは、もしや全てジェレミーの創作だったのでしょうか。どこからどこまでが物語の中の真実で、どこからどこまでが物語の虚構なのか、微妙に捩れてきて分からなくなってきてしまいます。しかし訳が分からなくなりつつも、面白さとしてはこのシリーズの中では1番かもしれません。
これでシリーズは一応終了。しかし本国では番外編の小品が3作ほど出ているようです。

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