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このページは、トーマス・パヴェルの本の感想のページです。

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「ペルシャの鏡」工作舎(2009年7月読了)★★★

暇があると古文書調べをするのが好きなルイ。夏になると七都地方を巡っては古い要塞城やドミニコ修道院、打ち捨てられたジェズイット派の学寮を見てまわり、バロックの大修道院に長居して、昔の図書館の残骸から貴重な文献や手稿を発見するのです。そしてその時ルイが古くからの友人に案内されたのは、シェスブルグのとある学院蔵書が保存されている穀物倉。何千冊もの本が版型にしたがってむくの本棚に並べられていました。これはあるドミニコ会修道院付属の図書館が起源となる蔵書で、最も貴重な部分は、数学と天文学の教授であるアロイシウス・カスパールによって集められたもの。そしてこのアロイシウスという人物は、当時ハノーヴァー王立図書館の稀覯書担当司書をしていた、哲学者のライプニッツと親しかったのです。(「LE MIROIR PERSAN」訳)

この物語には1章に1つずつ架空の書物が登場します。アロイシウス・ガスパールによる「ライプニッツの形而上学序説への批判的注釈」、ミゲル=アルバル・ツサニーによる「異端審問教程」、ジュゼッペという若者による「饗宴」、グロスの韻文五幕の悲劇「エル・マハディ」、そしてルイ自身による「ペルシャの鏡」。5つの章全てにおいて、書物の存在がとても大きいのです。特に「饗宴」の章では、読者は(おそらく)いきなり書物の中に引きずり込まれ、しかもその中にも他の章と同じように書物が存在します。「エル・マハディ」では一旦現実に戻るものの、やはりその中の書物の存在が大きすぎるため、その境目が次第に判然としなくなりそう。そして最終的には本人の書いた物語が…。
そして、途中でちらほらと見え隠れする鏡も印象的。「ライプニッツの形而上学序説への批判的注釈」の章では、アロイシウスがライプニッツの説に異論を唱える時に鏡が登場します。「それはちょうど掛けられた部屋の隅々まですべて映し出す奇跡的な凹面鏡、壁に掛けられた鏡自身の姿ももらさず、すなわちその部屋を映す鏡自体を含めた部屋全体を映す凹面鏡のようなものでしょう」… 訳者解説によると、ライプニッツは「モナドは宇宙を映す永遠の生きた鏡である」と述べているのだそう。これは作中の「ひとりひとりの魂が宇宙を総体として映しだす力を持っている」というライプニッツの言葉に通じるのでしょうね。「各実体は宇宙に対する神のあるひとつの見方を示しているのであって、同一の宇宙を見ているといっても、その見方は次々と変わっていくのだよ。そう、ちょうどひとりの散歩者にとって同じ街が観る場所によって様々に異なって見えるように」… これこそがこの作品の本質を示す言葉かもしれません。次の「異端審問教程」では、ジャン・ポール・ディオンヌの部屋の棚には「銅のオブジェや工芸品、花瓶そして小さな鏡がところ狭しと並べられ」ていますし、ルイがかつて孤独だった子供時代に「鏡を覗き込んで過ごした夜」のことが語られています。「エル・マハディ」ではエル・マハディが鏡像と激しくやりとりを交わします。そして「ペルシャの鏡」では、文字通りペルシャ製の古い鏡が登場します。このペルシャ製の鏡によるヘルマンとヘルマンに似た青年の関係が全てを象徴しているのでしょうね。現実と書物が、実体と鏡に映した鏡像のような関係となっているようです。まるでエッシャーのだまし絵のような印象。鏡だけでなく、ガラスや水晶、水面などもおそらく鏡と同様に深い意味を持っているのでしょうね。
訳者あとがきに、「ライプニッツの「可能的世界」を幻想図書と鏡で幾重にも多重化した入れ子構造の世界」とあります。しかし、そもそもライプニッツのその「可能的社会」を知らず、まるで理解していない私にとっては、かなり難解な作品でした。これはライプニッツが「神は全ての可能的世界の中から最善のものとして、この現実世界を選択した」と論じたことによるもののようですが、調べてみても、結局その意味が今ひとつ掴めないまま。作品に対する理解も深まらないまま終わってしまったのがとても残念です。

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