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このページは、魯迅の本の感想のページです。

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「阿Q正伝・藤野先生」講談社文芸文庫(2009年4月再読)★★★★

【狂人日記】…郷里に帰る時に中学時代の友人兄弟を訪ねた「余」。会えたのは兄の方。大病をしていたが今は全快して任官を待っているという弟の日記を2冊見せられます。
【孔乙己】…12歳の頃から村の入り口の酒屋で小僧になっていた「わたし」。やがて燗番専門という退屈な仕事の「わたし」でしたが、孔乙己が来た時だけは笑うことができました。
【薬】…秋の夜中、月も沈んだ頃。華老栓は銀貨の包みを持って薬を買いに出ることに。息子の小栓が咳の病で、その特効薬となるものを買いに行ったのです。
【髪の話】…先輩のNさんがその日話したのは、髪のこと。髪は中国人の宝でもあり仇でもあり、昔から今まで多くの人が一文の値打ちもない苦しみを受けてきたという話でした。
【小さな事件】…田舎から北京に出てきて6年。その間、「わたし」にとって深い意義があったのは、ある1つの小さな事件だけ。それはある朝乗った人力車でのことでした。
【故郷】…20年ぶりに、厳しい寒さの中2千里も遠くから故郷に帰った「わたし」。しかしそこに見た故郷は、「わたし」の記憶の中にある故郷とは違っていたのです。
【阿Q正伝】…家がなく、未荘の地蔵堂の中に住んでいた阿Q。以前は豊かだったらしく、自尊心も強く見識も高いのに今は定職はなく、日雇いで麦刈りや米搗き、船漕ぎをする暮らし。
【家鴨の喜劇】…ロシアの盲詩人のエロシェンコがギターを携えて北京にやって来て間もない頃。エロシェンコは私に「砂漠にいるようにさびしい」と訴えます。
【祝福】…旧暦の年末。竈王爺を天に送る爆竹で大きな音と火薬のにおいがいっぱいに広がる中、既に故郷のない「わたし」は魯四旦那の家に厄介になることに。
【酒楼にて】…故郷に近いS市に行った時のこと。すっかり変わってしまい、知り合いもないまま、以前よく行った酒楼で1人で飲んでいると、そこに現れたのはかつての友人でした。
【孤独者】…「わたし」が魏連殳と出会ったのはS市にいた頃。変わった人物だという噂で、実際人々の噂には彼の名前が頻繁に挙がっていました。
【離婚】…新年の挨拶のために通船に乗り込んだ荘木三とその娘の愛姑。慰旦那のところに七大人が来ており、2人は愛姑のことで頼みごとをしに行くのです。
【藤野先生】…仙台の医学専門学校に行くことにした「わたし」は、そこで藤野先生に出会います。(駒田信二訳)

清代末期から辛亥革命を経て中華人民共和国となった中国に生きた様々な人の姿を描いた短編集。高校時代に読んだことがあるので、随分長い時を経ての再読となります。初読時はあまり理解しないまま終わってしまったのを自分でも意識していたのですが、今回改めて読んでみて、「藤野先生」を細かいところまで非常によく覚えていたのに驚きました。これは魯迅が仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に留学していた時のことを書いた作品。以前はそれほど気に留めずに読んでいたと思うのですが、実は文章をそのまま思い出せるほど、藤野先生と「わたし」のやり取りの一つ一つが読む前に分かってしまうほど記憶に残っていました。その時には分からなくとも、実はそれだけの力を持った文章だったのだと改めて感銘を受けた次第。そして国境を越えて、藤野先生から魯迅に人として大切なものが伝わったのだということを改めて実感させられます。そして魯迅は体を治すよりも先に精神を改造しなければならないと、文学者への道を歩むことになったのですね。
そして「精神を改造」しなければならないのは、「阿Q正伝」の阿Qを取り巻く人々でもあります。魯迅は阿Qに自分自身を重ね、そして同時に阿Qを取り巻く人間の1人でもあったというのが興味深いです。それにしても阿Qの他人には侵されないプラス思考はそれだけでもとても迫力がありますね。誰に負けてもそれを自分の勝ちに摩り替えて満足できるその能力。暴力を振るわれようが、酷い言葉を投げかけられようが、彼のは誰にも傷つけられることはできないというのがすごいです。何事にも影響されず、泰然として生きていく… 一般社会に適応できない阿Qに「泰然」という言葉を使うのは奇妙な気もするのですが、しかしその言葉がぴったりくるような気がしてなりません。そして「狂人」の病人は本当に完治しているのでしょうか。これほどまでにきっちりと狂っている人間が普通の神経に戻ることなどあり得るのだろうかと考えてしまいます。そして「薬」の怖さ。これは「狂人」とも共通するのですが「医食同源」。この辺りには比喩ではない「人が人を食う」という行為が描かれており、「人を食う」という言葉を比喩としか受け取れないところに日本人の甘さがあり、魯迅の本質を理解することを難しくさせているようです。
それぞれの作品を通して見えてくる中国という国。文章を通して魯迅が訴えたかったこと。「藤野先生」は「朝花夕拾」という自伝的回想録に収められている作品ですが、他は全て「吶喊」という題名の本に納められている作品。「吶喊」とは大きな叫び声をあげるという意味なのだそうです。閉ざされた状況を打破するために必要なのは、まず大きな叫び声をあげて他の人間の注意を喚起しなければならない、そんな魯迅の思いが込められている題名であり、作品からもそのことが強く伝わってきます。

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