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このページは、E.T.A.ホフマンの本の感想のページです。

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「黄金寳壷-近世童話」岩波文庫(2009年4月読了)★★★

昇天祭の日の午後3時頃。大学生のアンゼルムスはドレスデンの市で「黒門」を走り抜けた途端、醜い老婆が商売に出している林檎や菓子の入った籠に真っ直ぐ飛び込んでしまいます。中身が散らばったのを見た子供たちはすかさず商品を我先にと拾い、アンゼルムスは老婆に中身のあまり入っていない財布を渡すとそそくさと野次馬の輪を抜け出します。しかしその背中に老婆は「いまに玻璃の中に跳び込んで、非道い目に遭ふぞよーー玻璃の中へ!」と不気味な喚き声を浴びせるのです。せっかくの昇天祭なのに一文無しとなってしまったアンゼルムスが不運を嘆いていると、ふと頭上に覆いかぶさっている紫丁香花の樹の枝葉の陰から聞こえてきたのは、水晶の鈴の三和音のような響き。そこにいたのは3匹の緑金の小蛇。そしてアンゼルムスはそのうちの1匹に恋をしてしまうのです。それはセルペンチナでした。(「DER GOLDNE TOPF」石川道雄訳)

ドイツロマン派のホフマンの初期の作品。昭和9年初版発行という古い本で読んだため、旧字・旧かな遣いの訳文です。ホフマンらしい幻想味がたっぷりの物語。アンゼルムスが恋する金緑の蛇は、アンゼルムスの雇い主となるリンドホルストの末娘。アンゼルムスとセルペンチナは最初から両思いですし、父親もその恋を始めから応援しているのですが、セルペンチナの持つ黄金の壷を狙うラウエリン婆さんが、ヴェロニカの恋を助けようとするので話はややこしくなります。
しかし主人公のアンゼルムスはともかくとして、その相手役であるセルペンチナの描写がとても少ないのです。むしろアンゼルムスを一途に思う16歳のヴェロニカの方の存在感の方が大きく、アンゼルムスの物語とヴェロニカの物語が2つ平行して進んでいくような感覚があります。ヴェロニカがアンゼルムスのことを乙女らしく一途に慕うだけに、ヴェロニカが少し気の毒にはなってしまうのですが、ヴェロニカがアンゼルムスに惹かれたのは、アンゼルムス本人よりも「宮中顧問官」という役職だったようなのが可笑しいところ。最後の変わり身の早さも楽しいです。結局、物質的な幸せを求めたヴェロニカとヘールブラント、精神的な幸せを求めたアンゼルムスとセルペンチナという構図なのでしょうか。アンゼルムスは本当にこれでいいのか、とも思ってしまうのですが、詩の中の世界に生きるというのも、幸せの選択としてはありなのかもしれません。ほんの少し視点を転じれば、幸せになれるのに、とそんなことを言われているような気がしてきます。


「クルミわりとネズミの王さま」岩波少年文庫(2005年10月再読)★★★

医学顧問官シュタールバウム家の子供たち、ルイーゼやフリッツ、マリーがその年貰った沢山のプレゼントの中にあったのは、1つのクルミわり人形。頭でっかちながらも、立派な服装をした人形はとても感じが良く、マリーは大喜び。ルイーゼやフリッツも一緒になって、クルミわり人形に盛んにクルミを割らせていました。しかしフリッツが一番大きくて固いクルミを割らせた時、クルミわりの歯が3本落ちて、下あごがグラグラになってしまったのです。マリーは抜け落ちた歯を拾い集め、怪我をしたクルミわりのあごに白い綺麗なリボンを巻き、ハンカチでくるんでやります。そしてその晩、時計が12時を告げた時、不思議な出来事が起こります。(「NUSSKNACKER UND MAUSEKONIG」上田真而子訳)

バレエでも有名な「くるみ割り人形」の原作。子供の頃にも読んだことがあるお話ですが、大人になってから改めて読んでみると、バレエとはかなり雰囲気が違っていたので驚きました。幻想的な美しさはもちろん昔読んだ時のままなのですが、「ドロッセルマイヤーおじさん」はこれ以上ないほど怪しいですし、マリーがあちらの国のお后さまになってしまってそのまま終わってしまうところなど、これで本当にいいのかと考えてしまうような結末です。てっきり夢オチで終わるのだろうと思っていたのですが、そうしなかったところに何か特別な意図があったのでしょうか。子供たちに語り聞かせた物語そのままというだけなのでしょうか。最初のクルミわりとネズミの戦いでも、マリーは本当に怪我をして血を流していますし、現実と幻想の交錯具合が何とも言えないですね。実はかなり不気味な物語だったのでは…。
しかし人形の国の描写はとても魅力的。氷砂糖の牧場、アーモンド・干しぶどうの門、麦芽糖の回廊、大理石のように見えるクッキーの敷き詰められた道、オレンジ川にレモネード川、ハチミツクッキーの村、キャンデーの町、コンポートの里、お菓子の都… 読んでいるだけでも、いい香りが漂ってきそう。金や銀の木の実が色とりどりの小枝からぶらさがり、リボンや花束で飾られているクリスマスの森や、かぐわしいバラの香りが漂うバラ色の湖もとても素敵です。


「悪魔の霊酒」上下 ちくま文庫(2008年12月読了)★★★★

フランツィスクスは、父がサタンにそそのかされて犯した呪わしい悪行を償うために、両親が遠い寒冷の地プロイセンの聖地リンデに巡礼の旅に出ていた時にできた子供。苦行を積んで身体を損なっていた父は、フランツが産まれた丁度その瞬間に赦免と慰籍を得て他界。母はリンデの修道院で出会った巡礼の男性の言葉に感銘を受け、故郷に帰る途中にフランツをシトー会の女子修道院の院長である侯爵女史に預けることになります。司祭について様々なことを学んだフランツは、16歳の時に隣町のカプチン会修道院に移って更に勉強し、メダルドゥスという修道名を得るまでに。そして、修道院に入って5年が過ぎた時、メダルドゥスは老齢の兄弟キュリルスの代わりに聖遺物の管理をするようになります。ほとんどの聖遺物は偽物。しかしその中には、聖アントニウスを誘惑するために悪魔が持参したという霊液(エリクシル)もあり、キュリルスはメダルドゥスにこの霊酒の入った小函だけは決して気軽に開けないようにと注意するのですが...。(「DIE ELIXIERE DES TEUFELS」深田甫訳)

ふと「悪魔の霊酒」を口にしてしまったことから、主人公が様々な出来事に巻き込まれていくという物語。奇妙な類似や繰り返しが印象に残る幻想的な作品です。登場人物に関してもそうなのですが、この物語の中で起きる出来事も、全てが類似と繰り返しなのです。つまりこの主人公にまつわる全ての出来事は、実はその場限りで起きたことではなかったということになります。(しかも最後には、5代にわたる大河小説だったということが判明します) そう考えると、主人公が悪魔の霊酒を飲んだのは、実は決して偶然ではなかったということになるわけです。「つい、うっ かり」のように見えて、実は巧妙に仕組まれた罠にはまっていたということなのですね。そしてそれが彼の運命(宿命)だった、という言い方もできると思うのですが、それにしては巧妙すぎるのが気になります。やはりこれは悪魔(そして悪魔と表裏一体の神)の仕業だったということなのでしょうか。読んでいると、まるで悪魔が本当に存在し、「悪魔の霊酒」が本物だったことを証明されてしまったような気になります。
とてもキリスト教色の濃い物語なのですが、何かしら起きる出来事が必ず後々に直接的に影響してるのを見てると、「因果応報」「輪廻転生」といった仏教的な言葉が浮かんできてしまいます。「因果応報」は、前世の行いが今世に影響してるということですし、「輪廻転生」も1つの魂が生と死を繰り返すということなので、少し違うのですが…。ここで繰り返すのは一族の犯す罪であり、それが後々に直接影響していきます。となると「業(ごう)」でしょうか。これもやはり仏教的な言葉ですね。
最初はとてもそうは思えなかったのですが、実はっても緻密に出来上がった物語でした。全てが夢の中のことのようでありながら、同時に妙に現実的。最終的に綺麗に収まってしまうのはミステリ的でもあります。圧倒的な迫力のある作品ですね。


「スキュデリー嬢」岩波文庫(2009年4月読了)★★★★

ある真夜中、サント・オノレ通りにあるマグダレーヌ・ドゥ・スキュデリーの小さな家の戸が激しく叩かれます。それは見知らぬ若い男。まだ目を覚ましていた侍女のマルティニエールが玄関を開けることになるのですが、外にいる時は哀れっぽいことを言っていた男は家の中に入るなり荒々しくなり、匕首まで持っていたのです。男は小箱をマルティニエールに握らせると、スキュデリー女史に渡して欲しいと言い残して消え去ります。折りしもパリでは宝石強奪事件が相次いで起きていた頃でした。その箱に入っていたのは見事な宝飾品。当代随一の金細工師・ルネ・カルディラックの作った品だったのです。(「DAS FRAULEIN VON SCUDERI」吉田六郎訳)

ルイ14世の時代のミステリ作品。日本に紹介されたのは、森鴎外訳の「玉を懐いて罪あり」が最初だったとのこと。パリで続けざまに起きていた宝石強奪殺人事件に、高貴な貴婦人であるスキュデリー嬢が巻き込まれることになります。ルイ14世やその愛人・マントノン夫人も登場しますし、主人公・スキュデリー嬢も実在の人物とのこと。
この中では、中心となるスキュデリー嬢が断然素敵です。スキュデリー嬢自身にも分からない理由で、夜中に現れた若い男も金細工師のルネ・カルディラックもスキュデリーを信頼しきっているのですが、このスキュデリー嬢が実は73歳になるという老嬢で、一般的な小説のヒロインとはまた全然違う魅力を持っているというのがいいですね。そしてこの作品には、スキュデリー嬢が探偵役となるミステリ小説風味もあります。スキュデリー嬢自身が積極的に事件の謎を解こうとするわけではないですし、彼女はむしろ騒ぎにまきこまれた被害者。結局のところ、真相が分かったのはスキュデリー嬢の探偵能力というよりも人徳のおかげ。最初からミステリを期待して読むとがっかりするのではないかと思いますが、事前情報が何もない状態で読んだ私にとっては、楽しい驚きでした。ほのぼのとした時代ミステリ感もこの作品の魅力ですね。


「ホフマン短篇集」岩波文庫(2009年4月読了)★★★★

【クレスペル顧問官】…今まで会った人物の中で一番風変わりだったのは、H町のクレスペル顧問官。学識があり経験豊かな法律家で、有能な外交官でもあるのですが…。
【G町のジェズイット教会】…乗っていた郵便馬車に大修理が必要になり、3日間G町に滞在することになった「私」は、ジェズイット教団付属のアロイジウス・ヴァルター教授を訪ねることに。
【ファールンの鉱山】…7月。スウェーデンの港町イェーテボリにインド航路に船が帰着。町はお祭り騒ぎとなっていました。しかしエーリス・フレーブムだけは暗い目つきで黙りこくっていたのです。
【砂男】…子供の頃、9時になると「砂男がきますよ」と寝に行かされていたナタニエルと妹。ナタニエルは砂男の姿をありありと思い描ます。砂を目にかけられると、目玉が取れてしまうのです。
【廃屋】…テオドールが話したのは、前の夏**n市で過ごした時の話。**門への大通りは趣きの違う建物が立ち並び、活気に溢れた場所。しかしここに1軒の雰囲気にそぐわない建物がありました。
【隅の窓】…悪性の病のために両足の自由を失った従兄は、評判の良い物書き。「私」は天井の低い屋根裏部屋に住む従兄を訪ね、一緒に窓から外を眺めます。(「SECHS NOVELLEN」池内紀訳)

ホフマンらしい怪奇幻想風味がたっぷりつまった短編集。訳者池内紀さんによる解説「ホフマンと三冊の古い本」によると、ホフマンの作品ではしばしば鏡や望遠鏡が重要な小道具として登場するとあります。そして「砂男」の「コッペリウス」と「コッポラ」という2つの名前が共に「眼窩」を意味する「コッパ」からきているとも。確かに気がついてみれば、鏡や望遠鏡だけでなく、目玉や眼鏡、窓といったものが、ホフマンの作品では常に異界への扉のように存在しているのですね。その異界に待っているものは「死」。しかしその「死」は物質の冷たい死というよりも、幻想的な詩の世界へと生まれ変わるための入り口のように思えます。常識的な人間から見れば狂気と破滅にしか見えないその世界ですが、一旦足を踏み入れた人間にとってはまさに理想郷。そしてホフマンはその2つの世界のどちらにも生きていた人間なのですね。最後の「隅の窓」を読めば、現実的な世界から幻想的な世界への転換が、ホフマンにとってはいかにたやすいものなのかよく分かります。だからこそ、ホフマンの作品には一見異様に感じられる結末が多いのでしょう。ホフマンの描き出す幻想的な情景はとても美しいのですが、それは常に薄気味悪い不気味さと紙一重です。
この中で特に気に入ったのは、幻想的な情景の美しさが際立っている「ファールンの鉱山」。これはどこかバジョーフの「石の花」のようでもあります。そして「砂男」は、バレエ「コッペリア」の原作となった作品。しかし物語の筋はすっかり変えられており、狂気を秘めた悲劇は、明るく楽しい喜劇となっています。


「黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ」光文社古典新訳文庫(2009年4月読了)★★★★

【黄金の壺】…昇天祭の日の午後、大学生のアンゼルムスがエルベ川のほとりの接骨木(にわとこ)の木陰で自分の不運を嘆いていると、そこにいたのは金緑色に輝く蛇が3匹。アンゼルムスはそのうちの1匹の美しい暗青色の瞳に恋してしまいます。それはゼルペンティーナでした。
【マドモワゼル・ド・スキュデリ】…ある夜更け、サン・トノレ街に住むマドレーヌ・ド・スキュデリの家の戸を激しく叩いたのは若い男。哀れっぽい声を出していた男が扉を開けた途端荒々しい声に代わり、侍女のマルティニエールが助けを求めて叫ぶと、男は小さな箱を押し付けて逃げ去ります。
【ドン・ファン】…宿泊しているホテルの泊り客専用桟敷で「ドン・ファン」を上演しており、早速観ることに。オペラに夢中になっていた「ぼく」が幕間に振り返ると、そこにはドンナ・アンナが。
【クライスレリアーナ】…誰もその出自を知らない楽長・ヨハネス・クライスラー。演奏の腕前は一流で、知力と教養も備えている彼が突然失踪します。「音楽嫌い」「ヨハネス・クライスラーの修業証書」の2編。(「DER GOLDEN TOPF/DAS FRAULEIN VON SCUDERI」大島かおり訳)

昭和9年発行の「黄金寳壷」では面白味が今ひとつ感じられず、好きなモチーフのはずなのにおかしいと思っていた「黄金の壺」ですが、こちらはとても面白く読めました。やはりきちんと読み取れていなかったのですね。解説にありましたが、昇天祭という普通の日、ドレスデンという普通の町に、するりと摩訶不思議なものを滑り込ませ、現実と相互に侵食しあう夢幻の世界を描くホフマンの作風は、この時代では画期的なものだったのかもしれないですね。
そしてこちらで新たに読んだのは「ドン・ファン」と「クライスレリアーナ」。「クライスレリアーナ」はシューマンの楽曲にもなっており、以前から読みたいと思っていた作品です。「クライスレリアーナ」とは「クライスラーの言行録」といった意味なのだそうで、失踪した楽長・ヨハネス・クライスラーの書き残した断片集という体裁。このヨハネス・クライスラーという人物はまるでホフマンその人のようで、特に「音楽嫌い」は実際にこういう出来事が少年時代にあったのだろうと思わせるところが楽しいです。
古典新訳文庫は使われている日本語が軽すぎてがっかりさせられることも多いのですが、この本は良かったです。訳者あとがきに、「新しさ」に拘りすぎずに自分の言語感覚を頼りに訳したということ、そして「ホフマンの作品は十九世紀初葉に書かれたものですから、その文体や語彙が古くさいのは当然です。でもその古さをなるべく大事にして、その大時代な雰囲気を殺さないようにしたい」と書かれていました。他の作品もこういったスタンスで訳されていれば、新訳文庫にももっと好感が持てると思うのですが…。

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