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このページは、イタロ・カルヴィーノの本の感想のページです。

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「不在の騎士」河出文庫(2006年4月読了)★★★★★お気に入り

フランスのシャルルマーニュ王率いるキリスト教徒軍と異教徒軍の戦争中、シャルルマーニュの麾下に隅から隅まで白銀に輝く甲冑をまとった1人の騎士がいました。その騎士の名は、アジルールフォ・エーモ・ベルトランディーノ・デイ・グィルディヴェルニ・エ・デッリ・アルトリ・ディ・コルベントラス・エ・スーラ。セリンピア・チテリオーレならびにフェースの騎士。しかしその輝く甲冑の中には誰もいなかったのです。アジルールフォは人間の騎士のように眠ることもなく、食べ物を口にすることもない甲冑の騎士。厳格な精神の持ち主で軍規に煩いこともあり、軍の中にいても他の兵士や騎士たちに煙たがられており、本人も周囲に馴染めないものを感じていました。そんなアジルールフォに声をかけたのは、ゲラルド・ディ・ロッシリヨーネ侯爵を異教徒のイゾアッレ太守に殺されて、復讐の念にかられていたランバルドという青年。彼はこの軍に来たばかりで、気をはやらせていました。(「IL CAVALIERE INESISTENTE」米川良夫訳)

「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」に続く、カルヴィーノの寓話的歴史小説3部作の最終作。シャルルマーニュは、8〜9世紀に実在したフランスの王で、カール大帝という名前で有名。十字軍を率いて遠征、イスラム教徒であるサラセン人たちと戦い、「ロランの歌」にも歌われています。
人間としての肉体も骨格も持たず、まるで甲冑が意志を持ったかのようなアジルールフォと、自分が存在するかどうかも分っていないグルドゥルーの関係はまるでドン・キホーテとサンチョ・パンサのよう。肉体がないアジルールフォは、自分の意志を強く持って存在しないといけないのですが、グルドゥルーは自分の肉体がきちんと存在しているにも関わらず、自己の意志が不在。いくつもの名前で呼ばれ、自分が人間であることすら確信していません。自分を家鴨や蛙だと思い込んでみたり、スープを飲みながら、自分がスープを飲んでいるのではなく、自分がスープに飲まれていると勘違いしてみたり。
そして父の復讐に燃えるランバルドは、彼が思い描いていた騎士たちと、甲冑の下に隠された現実とのギャップを知り、外見が人を欺くものであると痛感しています。そしてアジルールフォに惹かれることに。現実には存在しないはずなのに、彼の思い描いていたような完璧な武芸と高潔な精神を持ち、騎士道を全うしているのはアジルールフォだけなのです。肉体があるかどうか、本当に存在するか存在しないかということは、二次的な問題になってしまいます。それは蔓日々草(ベルヴィンカ)の騎士・ブラダマンテにとっても同様。そしてアジルールフォと敵対し、自分が実は本当はコーンウォール公の末子ではないと明かしたトリスモンドもまた、自分の地位、つまりトリスモンドとしての自我をもう一度組み立てなおすことになります。
それにしてもラストには驚かされました。見事な畳み方ですね。見事な枠物語です。


「魔法の庭」ちくま文庫(2008年9月読了)★★★

カルヴィーノの比較的初期の作品だという11編を収めた短編集。(「IL GIARDINO INCANTATO」和田忠彦訳)

青い空に白い雲、眩しい光、そんな光を照り返す海の水、と明るすぎるほど明るい情景を感じるにも関わらず、どこか不穏な空気が感じられる短編集。「蟹だらけの船」で子供たちが目指すのは、戦争中にドイツ軍が沈めた船。「不実の村」で逃げているのは、パルチザンの青年。「小道の恐怖」に描かれているのは、駐屯隊から駐屯隊へと走る伝令・ビンダの物語。「動物たちの森」は、パルチザン狩りに来るドイツ兵の物語。第二次世界大戦の前後のイタリアの人々を描くこれらの短編は、おそらく、未読ですが「くもの巣の小道-パルチザンあるいは落伍者たちをめぐる寓話」に近いのでしょうね。
私が気に入ったのは、現実の物語でありながらとても寓話的な「動物たちの森」。ドイツ兵がパルチザン狩りに来ると、パルチザンたちが自分の大切なものを持って森に逃げ込むのですが、この森はまるで魔女の森のよう。現実のような非現実のようなこのバランスがとても好きです。そしていい年をした大人が揃いも揃って自分のしなければならないことよりも、ついついお菓子を食べることに夢中になってしまう「菓子泥棒」も楽しいですね。いくつになっても、やはりお菓子というのは特別な魅力を持っているのでしょう。戦争が続いて何年も甘いものを口にしていないとあれば尚更。これを読んでいると、どの作品も文字通りの「子供」、あるいは良くも悪くも子供の部分を残した大人たちの物語であることが改めて感じられます。そして美しい庭でジョヴァンニーノとセレニッラという少年少女が遊んでいる情景はとても微笑ましいはずなのに、同時にどこか落ち着かない気分にさせられてしまう「魔法の庭」も、不思議な雰囲気の作品でした。

収録:「蟹だらけの船」「魔法の庭」「不実の村」「小道の恐怖」「動物たちの森」「だれも知らなかった」「大きな魚、小さな魚」「うまくやれよ」「猫と警官」「菓子泥棒」「楽しみはつづかない」


「むずかしい愛」岩波文庫(2009年4月読了)★★★★

【ある兵士の冒険】…背の高い豊満な女性が、トマーグラ歩兵の隣の席に腰を下ろします。
【ある悪党の冒険】…警官に追いかけられたジムは、咄嗟にアルマンダの家へ。
【ある海水浴客の冒険】…バルバリーノ夫人は、気がつくと水着なしで泳いでいました。
【ある会社員の冒険】…エンリーコ・ニェーイは美しい奥方と一夜を過ごし、出勤します。
【ある写真家の冒険】…アントニーノ・パラッジは写真おせいで疎外感を覚えていました。
【ある旅行者の冒険】…フェデリーコ・Vはいつものように列車でチンツィア・Uのいるローマへ。
【ある読者の冒険】…アメデーオ・オリーヴァは岬のお気に入りの場所で読書をする習慣でした。
【ある近視男の冒険】…アミルカーレ・カッルーガが眼鏡をかけると味気ない生活は一変します。
【ある妻の冒険】…夫の旅行中にステファーニア・Rは初めて朝帰りをすることになります。
【ある夫婦の冒険】…工場の夜勤勤務のアルトゥーロ・マッソラーリは妻と入れ違い生活。
【ある詩人の冒険】…詩人のウズネッリはとびきり美人のデーリアと南イタリアの海岸へ。
【あるスキーヤーの冒険】…スキー場で人目を引いたのは、リフトに乗らずに上っていく娘。(「GLI AMORI DIFFICILI」和田忠彦訳)

「ある○○の冒険」という形で統一されている短編12編。「冒険」と言われてみれば確かに冒険と言えるのですが、その「冒険」とは、決して事前の準備をした上で乗り出していく類の冒険ではなく、どちらかといえばハプニングに近いもの。日常の偶然から生まれたちょっとした出来事から発展した、ちょっとした冒険。いつもの日常からほんの少しずれた場所で、主人公たちは何かしら新しい景色を見ることになったり、何かに気づかされることになる、そんな物語。そして「むずかしい愛」という題名ですが、真面目な愛に関する物語ではありません。それどころか、解説には「愛の物語の不在」だと書かれているほど。「ここで語られているのは恋愛譚ではなく、愛の物語の不在である。現実の(とよべるかどうかさえ覚束ない)愛のなかでなら、おそらく誰もが感じるであろうコミュニケーションのむずかしさを、カルヴィーノは、それは困難なのではなく、ほぼ不可能と考えているらしい。愛を語ることは、その不在を語ることからしかはじめられない、というより、不在を語ることこそが愛を語る唯一の方法だということなのかもしれない」(P.220)…それでも愛が全くないわけではありません。主人公たちはいつもの日常からほんの少しずれた場所で、ささやかな愛情を見出すことになるのですから。しかしそのささやかな愛情が一般的な意味での「恋愛」として成長し成就することはなく…。そういった意味では、やはり「むずかしい」のかもしれないですね。


「なぜ古典を読むのか」みすず書房(2006年9月読了)★★★

「なぜ古典を読むのか」という問いの下に、カルヴィーノが定義した「古典」の14の定義。そしてホメロス「オデュッセイア」、クセノポン「アナバシス」、オウィディウス「変身物語」、プリニウス「博物誌」、アリオスト「狂乱のオルランド」に始まり、バルザックやトルストイ、ヘミングウェイ、ボルヘス、レーモン・クノーや、その著作について。(「PERCHE LEGGERE I CLASSICI」須賀敦子訳)

カルヴィーノによる古典の定義。
1.古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。
2.古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじぐらい重要な資産だ。
3.古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。
4.古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である。
5.古典とは、初めて読むときも、ほんとうは読み返しているのだ。
6.古典とはいつまでも意味の伝達を止めることがない本である。
7.古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか慣習のなかに)足跡をとどめている書物だ。
8.古典とは、その作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりをたてつづけるが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である。
9.古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。
10.古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。
11.「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本である。
12.古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえで、その本を読むと、たちまちそれが〔古典の〕系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。
13.時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。
14.もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが古典だ。

1の定義には思わずにやりとしてしまいます。しかし「若いときは、世界、そしてその世界の一部としての古典と、初めて出会うことに意味がある」とし、2・3の定義において、若くして読んだ時はそれほど実りがなかったように感じていても、その内容が全く記憶に残らなかったとしても、気づかない間にそれは自分にとっての血肉になっているとしながらも、人生のある時期にもう一度読んでみることは大切であり、「ある古典を壮年または老年になってからはじめて読むのは、比類ない愉しみをもたらす」とカルヴィーノは書いています。そして4〜6の定義。だから「読む」と言ったところで、「読み返す」と言ったところで、それほど大きな差はないとのこと。確かにその通りかもしれませんね。そして7の定義で、「古典は、読んだとき、それについて自分がそれまでに抱いていたイメージとあまりにかけ離れているので、びっくりする」とあるのには、正直驚きました。これは私の場合よくあることなのですが、世の中の人々の中でもよくある出来事だったのですね。カルヴィーノは、だからこそ古典を読む時は原典を直接読むべきだと主張。確かに解説書や何かで読んでしまうと、その古典に対する先入観が入りがちです。そしてこの中で一番印象に残ったのは、9の定義に付随して、「古典は義務とか尊敬とかのために読むものではなくて、好きで読むものだ」という言葉。「利害をはなれた読書のなかでこそ、私たちは『自分だけ』のものになる本に出会うことができる」。読む人と本のあいだにできる個人的なつながり、そしてその時に飛び散る火花こそが大切だという言葉に、ただ好きで読んでいる私のような人間は大きく励まされるような気がします。
その後で考察されていく様々な作家やその作品は、厳密には古典作品ばかりではありません。それはカルヴィーノが11の定義で、「古代のものにせよ、近、現代のものにせよ、おなじ反響効果をもちながら、文化の継続性のなかで、すでにひとつの場を獲得したもの」としているから。このほとんどはイタリアのエイナウディ出版社の編集者の1人として、同社で出している文学叢書の「まえがき」として書かれたものなのだそうで、没後にまとめられたこともあり、これらの文章は質的にも文体的にも不揃いだと、訳者あとがきで須賀敦子さんが書いています。確かに読んでいて面白い部分と、どうにも入りづらい部分が混在していました。しかも私としては、いわゆる古い時代の作品としての「古典」について知りたかったので、少々戸惑ったのですが… それでもカルヴィーノの言わんとしたことは良く分かるような気がします。読んだことのある本はもちろん、未だ読んでいない本には出会いたくなる、カルヴィーノならではのブックガイドとして、とても興味深かったです。


「カルヴィーノの文学講義-新たな千年紀のための六つのメモ」朝日新聞社(2009年2月読了)★★★

1984年、チャールズ・エリオット・ノートン詩学講義を受けもって1年間に6回の講義をするようにと、ハーヴァード大学から正式に招待されたカルヴィーノ。主題の選択はカルヴィーノに全面的に任されており、カルヴィーノは「次の千年紀に保存されるべきいくつかの文学的な価値」を主題にすること決定。しかしその講義はカルヴィーノの急逝により、実現することはありませんでした。これはカルヴィーノが書き上げていた、6回のうちの5回分の講義の草稿を本にしたものです。
【軽さ】…カルヴィーノが小説を書き始めてすぐに気づいたのは、小説の素材となる様々な出来事と、文章を活気付かせる軽妙さの間にある大きな隔たりのこと。世界の重苦しさを逃れるために、カルヴィーノは常に「重さからの離脱」、とりわけ物語の構造と言語から重さを取り除こうと試みてきたといいます。
【速さ】…物語は継続的な時間に対する連続性・非連続性の操作。自由に伸縮させることができ、そのリズムによって物語の続きを知りたいと人に思わせることができるのです。現実の生活において時間は1つの無駄にすることのできない富だが、文学においては遠慮せずにのびのびと使える富となります。
【正確さ】…「つねに曖昧で、出まかせに、ぞんざいに用いられて」いるように思われて不愉快を感じているというカルヴィーノの言う正確さとは、「明確にかたどられ、計算のゆきとどいた作品の構図」「すっきりとして、鮮明で、記憶に残るような視覚的イメージの喚起」「できるだけ精密な言葉づかい」の3つ。
【視覚性】…想像力には、言葉から視覚的なイメージが生まれる場合と、視覚的なイメージから言葉が生まれる場合の2種類があるが、文学にとってどちらが先なのか。カルヴィーノの場合は視覚的なイメージが心の中で十分明確になると、1つの物語に展開させ始めることになります。
【多様性】…人間1人1人の中に経験や情報や想像など様々なものが詰まって常に混ぜ返され並べ替えられているように、現代の書物は開かれた百科全書であり、多種多様の解釈方法や思考形態、表現のスタイルが合流し衝突することから生まれてくることが好ましい。(「SIX MEMOS FOR THE NEXT MILLENNIUM」米川良夫訳)

「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」という5つのキーワードから改めて考えていく文学。ギリシャ神話やオウィディウス、ルクレーティウスといった古代の文学から20世紀の文学までを、このキーワードを通して考察しながら、カルヴィーノの目指してきたところを示し、それが同時に21世紀以降の文学への提言ともなっている論です。こういったポイントから文学を考えていくというのはとても斬新で面白いですし、文学以外のことにも、かなり広い範囲で通じるキーワードなのではないかと思いますね。そして文学に対するカルヴィーノの真摯で愛情と茶目っ気がたっぷりの態度が改めて感じられてとても興味深いです。
中でも一番印象に残ったのは最初の「軽さ」でしょうか。カルヴィーノの作品に常々感じていたのは身ごなしの軽さ。フットワークの軽さ。ここでの「軽さ」とはもちろん軽薄さではなく、思慮深い軽やかさ。文章に取り付いて世界をじわりじわりと重苦しく不透明にしてしまう重さから逃れるためには、別の視点、別の論理、別の認識と検証によって世界を見直さなければならないということが書かれています。カルヴィーノが発表した1作目が、パルチザンでの体験を元にしたという「くもの巣の小道」だということも、重さにまとわりつかれるような気がしていたということに繋がっているのでしょうね。そしてその重さから逃れるために、その後の寓話的であったり幻想的であったりする作品群が生まれたのでしょう。この「カルヴィーノの文学講義」の講義も思慮深く軽快で、しかも確かな存在感を感じることができます。
書かれていなかった6回目は「一貫性」について。これはメルヴィルの「書記バートルビー」に触れる予定だったということしか分かっておらず、最早読むことができないのがとても残念です。

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