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このページは、イタロ・カルヴィーノの本の感想のページです。

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「木のぼり男爵」白水uブックス(2006年10月読了)★★★★

1767年6月15日の昼食の席で、姉・バッティスタの作ったかたつむり料理を食べることを拒否したコジモ・ピオヴァスコ・ディ・ロンドーは、父のロンドー男爵に「食卓から出てお行き」と言われ、外のかしの木に登ってしまいます。その時、コジモは12歳。それからというもの、コジモは地面には決して降りようとせず、木の上で暮らし続けることに。(「IL BARONE RAMPANTE」米川良夫訳)

「まっぷたつの子爵」「不在の騎士」と共に三部作とされている作品。
12歳で木に登って以来、その生涯を全て樹上で過ごすことになったコジモの物語が、弟のビアージョ視点から語られていきます。現代インドの作家・キラン・デサイの「グアヴァ園は大騒ぎ」では、主人公は木に登ったきり何もしようとせず、家族によって聖人として売り出されてしまうのですが、こちらのコジモは実に行動的。木がある限り、枝から枝へとどこへでも行きますし、樹上にいても読書もできれば盗賊と友達となったり海賊と戦うこともでき、恋愛すらもできるのです。木には登っていますが、「まっぷたつの子爵」や「不在の騎士」に比べるとずっと現実的な物語。寓意というよりはむしろ直接的なメッセージがこめられていると思うのですが、それでも物語として面白いのがすごいですね。コジモの最後の退場もとても粋でした。ヴォルテールやナポレオン、「戦争と平和」のアンドレイといった人物が登場するのも面白いです。

P.199 「兄の主張では、この地上のことをよく見ようとする者は、必要な距離をおいていなければならないのです。」


「マルコヴァルドさんの四季」岩波少年文庫(2008年9月読了)★★★

都会の暮らしにはあまり都合の良くない目をした人夫のマルコヴァルドさん。人々の目を引くために工夫された看板や信号機、ネオンサインや広告のチラシは目に入らず、逆に枝に1枚残った黄色い葉や屋根瓦にひっかかっている鳥の羽のような光景は決して逃さないのです。そんなある朝、マルコヴァルドさんがズバーブ商会に行くために電車を待っている時に見つけたのは、通りの並木の周りのわずかな土から顔を出そうとしていたきのこの頭でした。(「MARCOVALDO」安藤美紀夫訳)

ズバーブ商会の人夫をしているマルコヴァルドさんは、奥さんのドミティルラ、ミケリーノ、フィリペット、ピエトルッチョ、そしてテレザという子供4人の6人家族。お給料は少ないのに養う口は多く、家賃を支払うのも滞りがちのマルコヴァルドさん。物語が始まった頃は地下室に住んでおり、その後引越しをしても、引越し先は屋根裏部屋。相変わらず今日明日の食事にも困るような貧しい暮らしを続けているようですが、家族のおなかを満たすために日々頑張っています。そんな彼を巡る四季の物語。春夏秋冬が5回繰り返されるので、5年間の物語ということになりますね。
最初はごく普通の街の情景を切り取ったような物語から始まるのですが、徐々に現実味が薄れていきます。そしてじきに現実と非現実の境目がとても曖昧になってしまうことに。「まちがえた停留所」のように、時には家に帰るバスに乗ったつもりでインド行きの飛行機に乗っていたなどという奇想天外な展開を見せる作品もあります。しかし実際にはそこまで突き抜けた話というのはあまりなく、大抵は微妙なライン。空想的というよりはホラ話といったレベルでしょうか。そしてユニークではあってもシュールでブラックで、笑うに笑えないという話も多いのです。自分たちの貧しさを乾いた目で眺めて笑いのネタにしてしまうようなたくましさは感じるのですが、私はむしろそのことによってイタリアの労働者たちの貧しさやその悲哀を強く感じさせられてしまったような気がします。こういった話をカルヴィーノは笑い話のつもりで書いていたのでしょうか。イタリア人なら読んでいて笑えるのでしょうか。それとも子供の頃に読んでいれば、もっと楽しめたのでしょうか。

収録:「春 都会のキノコがり」「夏 小さなベンチの別荘」「秋 市役所のハト」「冬 雪でまい子になった町」「春 ハチ療法」「夏 太陽と砂とねむりの安息日」「秋 おかずいれ」「冬 高速道路の森」「春 よい空気」「夏 牛にひかれて」「秋 毒いりウサギ」「冬 まちがえた停留所」「春 川のいちばん青いところ」「夏 月と「ニャック」「秋 雨と木の葉」「冬 スーパー・マーケットのマルコヴァルドさん」「春 けむりと風とせっけんのあわ」「夏 じぶんひとりの町」「秋 がんこなネコたちのいる庭」「冬 サンタクロースのむすこたち」


「柔かい月」河出文庫(2009年1月読了)★★★★

第一部「Qfwfq氏の話」
【柔らかい月】
…地球上の大陸は月から降ってきた物質によって出来ているという話。
【島の起源】…鳥類の出現は比較的遅く、動物がほとんど進化して出揃ってからだという話。
【結晶】…当初、世界は色々な物質の溶液であり、そこから結晶が出現したのです。
【血・海】…かつて生物がその中に浸っていた海は、今は生物の体内に取り込まれているのです。
第二部「プリシッラ」
【I ミトシス(間接核分裂)】
…私が《死ぬほど恋焦がれていた》状態だった時の話。
【II メイオシス(減数分裂)】…私とプリシラ・ラングウッド、そして2人の関係についての考察。
【III 死】…生まれ、そして死んでいくもの。
第三部「ティ・ゼロ」
【ティ・ゼロ】
…ライオンを射ろうとする「私」と、「私」を襲おうとするライオンとの対峙の一瞬。
【追跡】…車で逃げる「私」と、リヴォルヴァーを持つ追っ手の車。
【夜の運転者】…恋人のYと電話でいさかいをした後で、Yのもとに車を走らせる「私」。
【モンテ・クリスト伯爵】…永年イフ城の独房に投獄されている「私」とファリア。そしてデュマ。
(「TI CON ZERO」脇功訳)

「レ・コスミコミケ」と同じくQfwfq老人が語る物語。実際にはこちらの方が後で書かれたもののようですね。Qfwfq老人の話はやはり面白いです。まず表題作「柔らかい月」からして、月と地球が相互の引力で引き合った結果、2つの天体の表面が変形し、柔らかい月の表面が地球に滴り落ちることになったという部分も映像的で楽しいですし、その出来事が起きた頃もマディソン・アヴェニューには摩天楼があり、月の柔らかい隕石に破壊されたものを、何百何千世紀かけて「かつての自然のままの外観を取り戻そうとして」作り続けているなど、一体どのような発想で出てくるのでしょう。すっかり「語り」が「騙り」になっていますね。
「Qfwfq氏の話」「プリシッラ」「ティ・ゼロ」という3部構成。「Qfwfq氏の話」で起源としての誕生、「プリシッラ」で細胞分裂としての生と死、「ティ・ゼロ」で描かれているのは永遠のような一瞬や場所といった観念でしょうか。最初は前面にいたQfwfq氏は第2部に入った頃から徐々に姿を消し、第3部ではいないも同然となります。「レ・コスミコミケ」からずっと語ってきたQfwfq氏がこのようにフェイドアウトすることにも大きな意味があるのでしょうね。2部の「死」と共に個体としての存在価値を失い、個性のない一般的な存在と生まれ変わってしまったかのようです。そして最後の「モンテクリスト伯」で描かれるのは、迷宮のような「イフ城」からの限りなく不可能に近い脱出。「個」を失ったQfwfq氏は、ここから脱出していずこへ…。というよりも、カルヴィーノはどこから脱出しようとしているのでしょうか。そのようにして重さを払いのけて身軽になろうとしていたのでしょうか。


「まっぷたつの子爵」晶文社(2006年10月読了)★★★★★

トルコ人との戦争で砲火を浴びて真っ二つになってしまったメダルド子爵。軍医たちの手術によって、右半身だけになりながらも生き残った子爵は、故郷のテッラルバに帰還します。しかし子爵の右半身は悪だったのです。右半身の子爵は様々なものを真っ二つにし、裁判では多くの人に次々に死刑を宣告していきます。(「IL VISCONTE DIMEZZATE」河島英昭訳)

「木のぼり男爵」「不在の騎士」と共に三部作とされている作品。
右半身が悪なら左半身が善と2つに引き裂かれてしまった子爵の物語が、その甥の目を通して描かれていきます。児童書で出版されているような物語でありながら、とても風刺の強い寓話作品。普通に考えれば悪よりも善の方が良いはずなのに、悪が全く存在しない善というのが、実は食わせ物だったというのが面白いですね。「悪半」の右半身に困り果てていた村人たちですが、実は「ふたつの半分のうち、悪いほうより善いほうがはるかに始末が悪」かったのです。
結局のところ、完全な存在ではあり得ない人間にとっては、どちらか一方に極端に偏っているよりも、善悪が混ざり合っている人間の方が理解しやすいということなのでしょう。そして、「悪半」と「善半」を比べた場合、「悪半」は、周囲の人間にそれを「滅ぼさなければならない」と使命感に燃えさせ、やる気を起こさせるかもしれませんが、「善半」は、ただ人をいたたまれなくさせるものなのかもしれません。多少苦境にある人間の方が頑張りがきき良い結果を出せますが、逆に何1つ不自由ない人間の方がなかなか伸びないのと似たようなものかもしれません。中でも、気晴らしができなくなり、自分たちの病気を直視せざるを得なくなった癩病患者の姿がとても印象に残ります。やはり「嘘も方便」は真実であり、「酸いも甘いもかみ分けた」人間の方が思慮深いということなのでしょうね。


「見えない都市」河出文庫(2008年9月読了)★★★★★お気に入り

マルコ・ポーロが派遣使として訪れた都市のことをフビライ汗に語り聞かせます。語られる都市の数は全部で55。最初は東方の言葉にはまるで無知で、パントマイムのように身振り手振りで様々なことを語ろうとしていたヴェネツィアの青年も、じきに韃靼人や諸民族の言葉に慣れ親しむようになり、偉大なフビライ汗に精緻詳細をきわめる報告をするようになっていたのです。(「LA CITTA INVIIBLILI」米川良夫訳)

「東方見聞録」のマルコ・ポーロがフビライ汗に架空の都市のことを語るという物語。8章に分かれて55の都市のことが語られ、各章の最初と最後にマルコ・ポーロとフビライ汗の会話があります。「見えない都市」という題名ですが、見えないどころか、文字を追うごとにそれぞれの都市の情景が頭の中に次々に浮かび上がっていくようで、その濃密さに息苦しくなってしまいそうなほど。しかしこういった情景が立ち上がるような作品は私が最も好きなタイプの作品なのですが、読み始めてすぐに一体いつの時代の都市のことなのかと考えさせれることになります。一昔前の華やかな都市を思わせる描写の中に登場するのはアルミニウムづくりの塔であったり、摩天楼であったり、上下水道が整っていたり… 海をゆく交通手段といえば帆船が中心だった大航海時代にあって、蒸気船や飛行船、地底列車が走るのです。それぞれの都市の姿もとてもユニーク。高い柱の上にそそり立つ都市であったり、奈落の底の上に宙吊りになっている都市であったり、壁も床も天井もなく水道管だけが縦横無尽に張り巡らされている都市であったり。様々な関係をより堅固にするために戸口から戸口へと糸を張り渡していき、その中を通り抜けられないほどになると、その都市を捨ててまた別の場所に都市を再建することを繰り返していたり。夢の情景を実現させようと工事を繰り返す都市であったり。そのまま物語が生まれそうな都市も多々あります。そんなマルコ・ポーロが語る都市の姿が実はどれも似通っていると、フビライ汗自身が途中で感じているのですが。そして「今では、マルコが都市を語るごとに、偉大なる汗の心はかえって気ままに旅立ってゆき、その都市をばらばらに分解しては、まったく違ったふうに組み立てなおすのだった」と書かれています。
今回は文字を追うだけで面白く読んでしまったのですが、これらの都市の描写を通しておそらく様々なことが語られているのでしょうね。マルコ・ポーロとフビライ汗の会話もとても暗示的。鮮やか過ぎるほど見えているように感じられたそれぞれの都市も、おそらく本当の意味では見えていないのでしょう。


「くもの巣の小道-パルチザンあるいは落伍者たちをめぐる寓話」ちくま文庫(2009年3月読了)★★★★★

トンネル露地に姉と2人で暮らしている少年・ピン。たった1人の肉親である姉は売春で生計を立てており、ピン自身はピエトロマーグロの親方の靴屋で働いているはずなのですが、親方は1年の半分は牢屋暮らしをしている状態。ピンはたちの悪い悪戯をしたり卑猥な言葉や悪態を吐き散らしながら、大人の世界に首を突っ込む日々。2人の母は既に亡くなり、存命中は訪ねてきていた船乗りの父親も、それ以来すっかり間遠になっていました。ある日酒場の大人たちに、姉の客のドイツ人水兵からピストルを盗んで来いと言われたピンは、姉と水兵がベッドにいる間に部屋に忍び込みます。(「IL SENTIERO DEI NIDI DI RAGNO」米川良夫訳)

第二次世界大戦中のイタリアが舞台に、落ちこぼれのパルチザンの部隊に参加することになったピンを描く物語。ファシズムや、それに対抗するパルチザンの存在が描かれていますが、それは実際には背景に過ぎないような気がします。リアルに迫ってはくるのですが、実際の戦闘場面はほとんどないですし。あくまでもピンの物語。
このピンという少年、大人と対等に付き合ってもらおうと頑張って背伸びをしているのですが、実際にはまともに相手にしてくれる大人などいません。相手をしてもその場限りで、結局はただの悪童扱い。だからといって、子供同士の仲間もいないのです。その辺りのお母さんたちは自分の子供に、ピンのような育ちの悪い子と付き合ってはいけないと言っているぐらいですから。ふと気がつけば、ピンはとても孤独な存在だったのですね。話すことが下ネタばかりなのは、売春婦の姉との2人の暮らしが長いから。実はその話題しか知らないだけ。しかも大人相手に対等な口を利くためには、際どいことを言って注目を浴びるしかないと思っているからなのです。なので、ピンのことを単純に「ませた子供」などと言うことはできません。多少目端が利いてしまうだけに、逆にとても痛々しいです。本当は歌がとても上手なので、その辺りに「自分」を見出せればいいのですが…。
本当はまだまだ子供なのにピンに子供らしさが全然ないのは(子供らしさがないだけで、子供っぽさはあります)、やはり戦争と家庭環境のせいなのでしょうね。せめて母親がもう少し長く生きていれば。もしくはこれが戦争中でなければ。どう考えても、ピンが普通の子供として生きられる状態にはないのです。昨日までの友達が明日は敵となったり、味方だと思っていた人物が裏切って何人もの人間が殺されたり、という場面を何度も目の当たりにさせられてしまうピン。戦争は、子供から子供らしさを奪うものでもあるのですね。ピンはどこに行っても自分の居場所を探しています。そんなピンに差し伸べられた手は大きくて暖かかったのですが... 読後に残ったのは、圧倒的な哀しさでした。
以前「カルヴィーノの文学講義」を読んだ時、この「くもの巣の小道」があまりに重苦しくなってしまったから「軽さ」を目指すことになったのかと思っていたのですが、実際この作品を読んでみるとそうではなかったようで驚きました。この作品にも既に十分「軽さ」があると思います。「軽さ」がありながら、その視点は容赦なく実態を抉り出しているという印象です。


「レ・コスミコミケ」ハヤカワepi文庫(2006年5月読了)★★★★

【月の距離】…かつて月が地球のすぐ近くにあった頃の物語。
【昼の誕生】…星雲が凝縮して太陽系諸惑星が出来上がる前、この世は闇でした。
【宇宙にしるしを】…Qfwfq老人が宇宙の一点につけたしるし。
【ただ一点に】…星雲が拡散を始める前は、誰も彼もがその一点にいたのです。
【無色の時代】…大気圏と海洋が形成される前の地球は、灰色一色でした。
【終わりのないゲーム】…Qfwfqは子供の頃、友達のPfwfpと水素原子で遊んでいました。
【水に生きる叔父】…水の時代が終わっても尚、水の中の生活に拘った叔父の物語。
【いくら賭ける?】…Qfwfqと学部長(k)yKn賭け事の物語。
【恐龍族】…恐竜の時代が終わっても生き残ったQfwfqは、新生物に出会います。
【空間の影】…無限低な時間の中を無限定に落ちていったQfwfqたち3人。
【光と年月】…1億光年先の星雲に立てられたプラカードには「見タゾ!」の文字が。
【渦を巻く】…Qfwfq老人が貝殻になって岩にくっついていた頃の物語。
(「LE COSMICOMICHE」米川良夫訳)

宇宙が出来る前から存在し続けているというQfwfq老人の語る12の奇妙な物語。元はハヤカワ文庫SFに入っていたという作品ですが、SFというジャンルでは括りきれないような物語です。
宇宙の成り立ちから太陽系の誕生、そして生物の進化といった壮大な物語が繰り広げられていきます。Qfwfq老人の物語は荒唐無稽なのですが、ユーモアもたっぷり。なにせ「ただ一点に」によれば、宇宙のビッグバンが「ねえ、みなさん、ほんのちょっとだけ空間(スペース)があれば、わたし、みなさんにとてもおいしいスパゲッティをこしらえてあげたいのにって思っているのよ!」というある女性の発言がきっかけで起きたというのですから。なぜビッグバンの前に人間が存在していたのか、しかもスパゲッティ… などと言ってしまうのは、あまりにも野暮というもの。それにこういう物語を単なる法螺話だと決め付けてしまうのは簡単なのですが、あまりに壮大すぎて、逆に可笑しくなってしまいます。時間の流れも雄大。「宇宙にしるしを」の中で「二億年待ったものなら、六億年だって待てる」と簡単に言ってしまうQfwfq老人は、「光と年月」でも1億光年離れた星雲と気の長いやりとりを続けています。友達のPfwfpとは水素原子でビー玉のような遊びをしたり、学部長(k)yKnとは「今日、原子ができる」という賭け事をしています。しかもこの原子が誕生するかどうかという賭け事が、サッカーチームの試合の結果と同列に並んでいるところが可笑しいのです。
私がこの中で一番好きなのは、「月の距離」。水銀のような銀色に輝く海に船を漕ぎ出し、脚榻の上に載って月へ乗り移る描写がとても素敵です。月に乗り移ると、大きなスプーンと手桶を片手に月のミルク色を集めるというのもいいですね。この月のミルク、成分を聞いてしまうと実はかなり不気味なのですが、それがとても夢のような存在に思えてきて、不思議なほど。あとは、まったくの闇の状態から昼間が出来上がっている「昼の誕生」もいいですし、色がなく灰色だった地球に初めて色が訪れる場面のある「無色の時代」も好きです。SFはあまり得意分野ではないので、どちらかといえばSF寄りの作品よりも、幻想的な情景のある作品に惹かれました。そしてユーモアよりも、幻想味でしょうか。
河出文庫から出ている「柔かい月」にも、このQfwfq老人が登場するのだそうです。


「宿命の交わる城」河出文庫(2005年1月読了)★★★★★お気に入り

深い森の中の城に、息も絶えだえで辿り着いた「私」。そこには同じように辿り着いた客が既に大勢おり、燭台の明かりに照らされた食卓を囲んで、晩餐の席についていました。そこはまるで豪華な宮廷のよう。しかし「私」を含めてそこにいる人々は、森をくぐり抜けてくるうちに、どうやら声を出せなくなってしまったらしいのです。会食者たちが静かな食事を終えた時、城主とおぼしき人物が、一組のカードを食卓に投げ出します。それは大型のタロット・カードの束でした。人々は片付け終わった卓上にカードを撒き散らし、やがてそのうちの1人が1枚を自分の前に置き、物語を語り始めます。(「IL CASTELLO DEI DESTINI INCROCIATI」河島英昭訳)

1冊の中に「宿命の交わる城」と「宿命の交わる酒場」が収められており、どちらも旅人たちがタロットカードによって自分の物語を語っていくという形。違いは城の大広間と酒場という舞台、そして貴重なヴィスコンティ家のタロットカードと、一般的に流通しているマルセイユ版のタロットカード。それぞれの舞台に合うタロットカードが選ばれているのですね。言葉を全く使わず、様々なカードだけで人々の人生が雄弁に語られていきます。タロットカードは元々寓意性が強く、占いでもその並び方によって様々な解釈がなされていくものですし、占い師もまた、一種のストーリーテラーと言えるかもしれません。しかしこの物語では、それぞれの語り手の物語の宿命は縦横に交錯し、最後には1つの大きな物語絵巻を織り上げるのです。とても緻密に計算され、濃密に作り上げられている作品なのですね。まるで人生そのもののように見えてきます。ただ残念だったのは、本の中のタロットカードがいかにも簡易な印刷で、その表現するところを余さず味わえなかったこと。私もタロットカードは1組持っているのですが、絵が違うとまた違う物語となってしまいそうです。できればタロットカード、ヴィスコンティ家のものは無理にしても、せめてマルセイユ版のものを実際に並べながら読み進めてみたいものです。そうすれば、ここに書かれている以上のものを感じ取ることができたかもしれませんね。
そしてこの物語絵巻の中には、そこに集まった客以外の物語も登場します。「ファウスト」、「パルシファル」、「オイディプース」、シェイクスピアの3大悲劇… この中でルドヴィーコ・アリオストの「オルランド狂乱」だけは全く知らないので、ぜひいずれ読んでみたいです。


「冬の夜ひとりの旅人が」ちくま文庫(2008年12月読了)★★★★★

新聞でイタロ・カルヴィーノの新しい小説「冬の夜ひとりの旅人が」が出たのを知り、早速本屋で買ってきて読み始めようとしている「あなた」。しかし準備万端整えてじっくり読む体勢に入り、読み始めてしばらく経った時、妙なことに気付きます。製本のミスで、32ページから16ページに戻っていたのです。3箇所で32ページから16ページに戻るのをみつけた「あなた」は、翌日本屋で取り替えてもらおうとするのですが、本屋はその本はカルヴィーノの作品ではなく、実はポーランド人作家の小説だったと説明。続きを読みたい「あなた」は、その本をポーランド人作家の小説に取り替えてもらうのですが...。(「SE UNA NOTTE D'INVERNO UN VIAGGIATORE」脇功訳)

カルヴィーノの作品を読んでいると思っていたら、それは実はポーランド作家の作品だった? そしてポーランド小説の続きを読もうと思って本屋で取り替えてもらった本は、実は全くポーランド小説の続きなどではなく、チンメリア文学だった...? と、迷路の中にぐるぐると迷い込んでいくような、蜘蛛の巣に絡め取られていくような、蟻地獄に落ち込んでいくような感覚の作品。作中作がなんと10作もあるのです。そしてそれらの作中作はどれも、丁度話の中に入り込んだ頃に途切れてしまうのです。その作中作がまたどれも面白く、続きを読みたくなってしまうのがカルヴィーノらしいところ。
しかし私が一番面白かったのは、終盤で何人かの読者たちが語ってる言葉かもしれません。私自身に一番近かったのはこの言葉。
「私が読む新しい本のひとつひとつが私がそれまでに読んだいろんな本の総計からなる総体的な統一的な本の一部に組み込まれるのです。でも安易にはそうなりません、その総括的な本を合成するには、個々の本がそれぞれ変容され、それに先立って呼んだいろんな本と関連づけられ、それらの本の必然的帰結、あるいは展開、あるいは反駁、あるいは注釈、あるいは参考文献とならねばならないのです。何年来私はこの図書館に通って来て、本から本へと、書棚から書棚へと渉猟し ているのですが、でも私は唯ひとつの本の読書を押し進める以外のことはしていなかったと言えましょう。(P.344-355)」
もちろん、これだけではないのですが。この読者の前の読者が言っているように、再読で新たな発見をするというのもとても良く分かりますし。私自身の読書は、この読者の次の読者が言っているような記憶の彼方にかすかに残る「唯ひとつの本」を目指して、総括的な本を作り続けているような感じでしょうか。
様々な形を取った「冬の夜ひとりの旅人が」を楽しみながら、ふと気が付いてみればそれらの作品を通して自分自身にとっての読書について考えさせられていた作品でした。


「イタリア民話集」上下 岩波文庫(2008年8月読了)★★★★

グリム童話集に匹敵するものを、とカルヴィーノが3年かけて採取し編纂したイタリアの民話集。原書では200話が収められているのですが、この岩波文庫版にはそのうち75編が収録されています。上巻が北イタリア、下巻が南イタリアの民話です。(「FIABE ITALIANE」河島英昭訳)

ヨーロッパやアジアに流布しているような物語も沢山ありましたが、イタリアらしさが感じられるものも多々ありました。たとえば「皇帝ネーロとベルタ」は、まさにイタリアならではという登場人物。ペルセウスとアンドロメダの物語のような「七頭の竜」も、モチーフ的には他の地方にも見られるパターンながらも、ギリシャ神話を感じさせる辺りがとてもイタリアらしいです。そして「眠り姫」もイタリアに来ると、王子さまが来てもお姫さまは眠り続けていて、その間に子供ができてしまうのですね。目が覚めて傍らに赤ん坊がいるのを見て驚くお姫さまには、こちらの方が驚いてしまいますが、もしやこれが「眠り姫」の原型なのでしょうか。 そして地理的に近いせいか、先日読んだ「スペイン民話集」と似通っている物語もいくつか目につきました。道を歩いていく男性との窓越しのやりとりで進んでいく物語などは、ほとんど同じと言えそうです。そちらを読んでいなければ、これがイタリアらしさなのかと思ったでしょうから、その辺りが難しいところなのですが。
私が好きだったのは、「賢女カテリーナ」というシチリアの物語。パレルモの王子が、大評判の賢女カテリーナの学校に通い始めるのですが、質問に答えられなくて、王子はぴしゃりと平手打ちをされてしまいます。平手打ちなどしたことを後悔させるために、王子は父王に頼み賢女カテリーナと結婚。そしてどうしても後悔しそうにない賢女カテリーナを地下に閉じ込めておいて、自分は旅に出てしまうのです。ナポリではカテリーナそっくりの女性を見つけて結婚し、子供を作る王子。2年ほど暮らすと飽きてしまい、次はジェノヴァへ、さらにヴェネツィアへ。どちらでも同じようなことが起こります。そしてパレルモに帰った時...。次々に女性を 見初めて結婚する割には、結局同じ女性を選んでしまっている王子が情けなくも可愛らしい物語です。
包丁で身体をまっぷたつにされた男の子の話「まっぷたつの男の子」は、カルヴィーノの「まっぷたつの子爵」のアイディアの元になっているのでしょうか。それぞれの民話はカルヴィーノによってかなり手が入れられているようで、プリミティブな力強さこそ感じられないものの、とても読みやすく面白いです。そして巻末にはカルヴィーノによる詳細な原注も。こちらも読み応えがあるので、訳者あとがきにあるように「注を主体と して読み、本文を従属的に読む」という読み方も良さそうです。


「パロマー」岩波文庫(2009年2月読了)★★★★

妻と娘が1人おり、パリとローマにアパートを持っている中年男性のパロマー氏。時には浜辺や動物園に行き、時には街角で買い物をし、時には日本の竜安寺の石庭を眺め、そして時にはメキシコにあるトルテカ族のかつての首都トゥーラの遺跡を見学するパロマー氏。そんなパロマー氏が様々なものを観察する不連続な短編集。「パロマー氏の休暇」「街のパロマー氏」「パロマー氏の沈黙」という3部それぞれが3章ずつに分かれ、そのそれぞれに3つずつの短編が入っています。(「PALOMAR」和田忠彦訳)

3つずつの短編には、それぞれ「視覚による経験」「人類学的もしくは広義の文化的要素」「より思索的経験」という3種類のの主題領域に則って書かれており、作品全体を縦に読むだけでなく、横に読むことができるようになっているのだそうです。ということが前書きにあったのですが、一読した限りでは「言われてみれば…」程度。
パロマー氏がしているのは、もっぱら観察して考えること。例えば浜辺で波について、胸を露にして日光浴をしている女性について、傾きかけた陽射しについて、あるいは街で買い物をしている時に鵞鳥の脂肪が詰まった小瓶を見ながら、店頭に置かれた様々なチーズを見ながら、肉屋のカウンターの向こうを見ながら、詳細に観察し、そして思索します。浜辺や自宅のように人気のないところで思索している分にはあまり他人の迷惑にはならないのですが、街角の商店では後ろに並んでいる人々に睨まれて、慌ててしまった挙句つまらない物を買ってみたり。
このパルマー氏が普段何の仕事をしているのかは明らかではないのですが、生活感が現れるのはそんな風に思索に耽ることが周囲の人の邪魔になって睨まれる時だけ。そして周囲の迷惑も顧みないその深い思索、その詳細さ。それはカルヴィーノ自身の思考なのでしょうか。単純に面白がって読むのはまちがっているような気がしますし、読んでると「ほら、面白くないでしょう?」と言われてる気がしてならないのです。それは例えばQfwfq氏の物語を読んでいる時にも感じることなのですが。そして読んでいると「部分>全体」ということを思い出して仕方ありません。詳細な「部分」は「全体」を凌駕するということを実践してみせた作品だったのでしょうか。

P,169「たとえば大人になって書物を読むとき、それが自分にとって大切であれば、こう言うだろう。「今まで読まずによく生きてこられたものだ」そしてまたこうも言うだろう「若いときに読んでおかなかったなんて、もったいないことをしたものだ!」ところで、こんな風に断言してみることに大した意味があるわけではない。とりわけ後者のほうは。なぜなら、その書物を読んだ瞬間から、この男の人生は、その書物を読んだことのある者の人生になるわけで、読んだ時期が早いとか遅いとかいうことはどうでもいいようなことなのだ。なにしろそれを読む以前の人生も、今はこの読書体験に縁取りされたかたちをまとっているのだから」

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