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このページは、ドナ・ジョー・ナポリの本の感想のページです。

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「逃れの森の魔女」青山出版社(2007年6月読了)★★★★

小さな村の産婆として暮らしている「わたし」は、娘のアーザと2人暮らし。「醜い女」と呼ばれる「わたし」とは裏腹に、5歳のアーザはとても美しい女の子。「わたし」は、村の女バーラの口利きで西の森の貴族・オットーの奥方のお産を手伝い、そしてバーラの言うがまま、治療師として悪魔を追い払うことも勉強し始めます。(「THE MAGIC CIRCLE」金原瑞人・久慈美貴訳)

「ヘンゼルとグレーテル」の本歌取りの物語。物語はヘンゼルとグレーテルがお菓子の家にやって来るずっと前から始まります。グレーテルの機転で焼かれてしまった魔女がまだ魔女ではなかった、娘を大切に思う1人の母親であった頃に始まる物語。
ただ一度の失敗が女魔術師を追い込み、娘を守るためとは言え、本物の魔女にしてしまいます。悪魔たちの誘惑に耳を貸さないように暮らしていても、じわじわと周囲から追い詰められていく魔女。最後のグレーテルへの目での語りかけが哀しいですが、その気持ちも、そうせざるを得ない事情もグレーテルにも十分伝わっていたのでしょうね。1人の女性の哀しい末路の物語であり、同時に魔女を焼き殺してしまったグレーテルの行動に対する免罪符ともなる物語。グリム童話に残酷な面があるとはよく言われることですが、これもまた残酷な別の話。本歌とはまたまるで違った面を見せてくれます。
結局のところ、彼女は魔女になどなったのではなく、ずっと1人の母親だったのだのだと思います。神を愛し、常に敬虔な気持ちを持っていた彼女。美しいものを好むのがそれほどの罪なのでしょうか。そしてその彼女を本物の魔女にしてしまったのは、他ならぬ人間たち。病気や出産の時にたびたび助けられながらも、彼女に助けられた人々の中で、そのことを忘れず感謝し続けていたのはペーターだけ。彼女を魔女にしてしまったのは、物語の上では悪魔ですが、実際には周囲の人々だと思います。悪魔とは、人間の心の中にこそ潜んでいるものなのでしょう。


「クレイジー・ジャック」ジュリアン出版(2009年6月読了)★★★★

働き者の父さんと花を育てるのが好きな母さん、そして父さんと畑で働くのが大好きな9歳のジャック。隣の家には大好きなフローラとその両親、もうじき生まれてくる赤ちゃん。しかしそんな幸せな日々も終わりを告げることになります。雨が全く降らず、せっかく蒔いた小麦は、いくら川から水を運んでも芽を出してすぐに萎れてしまい、父さんは2度目の種蒔きをするための種を買うために賭けに出るものの、あえなく惨敗。結局一家は畑を失い、フローラのお母さんは生まれてきた赤ちゃんと共に死に、父さんは虹のふもとにある金のつぼを手に入れるために岩壁の向こうへ。父さんを失ったのは自分のせいだと思い込んだジャックの精神は徐々に狂い始めます。(「CRAZY JACK」金原瑞人・小林みき訳)

ドナ・ジョー・ナポリ版の「ジャックと豆の木」。「逃れの森の魔女」では、魔女視点から描くことによって「本当は哀しい魔女の人生」を炙り出していたのですが、こちらは巨人視点ではないのですね。物語は、ジャック視点のまま進みます。巨人は相変わらずの悪役であり、その造形にはあまり変化がありません。焦点が当てられていたのは、むしろ、なぜジャックが豆の木を登らなければならなかったのかというその行動。豆の木も巨人も、金の卵を産む鶏も、金の入った壷も、歌う竪琴も全て揃っているのに、「ジャックと豆の木」とは またまるで違う物語。子供向けの明るい勧善懲悪な童話が、ここまで陰影を帯びた深みのある物語に変わるとは驚きました。
ジャックには双方の両親も認める仲のフローラという少女がいるのですが、そのフローラのスペイン系の血筋を引いているということが、一般的にどのように捉えられているのかといった辺りがリアル。そしてジャックの幸せな日々が終わることになったのは、元はと言えば旱魃のせいなのですが、そこにジャックの父親の賭け事好きが絡むのがリアル。様々なことが丹念に描写されることによって、ジャックが精神に変調をきたしていく過程がとてもリアル。しかし父親を失ったことを自分のせいにして気に病むジャックに対し、フローラが話したことも衝撃的ですね。世の中、色々な出来事に戸惑い悲しみ、苦しんでいるのはジャックだけではないのです。そして、そんなリアルな物語に、もし従来の魔法の品物がそのまま加わっていたら、おそらく物語は宙ぶらりんになってしまっていたでしょうね。この作品で何が一番面白かったかといえば、ジャックが巨人のところから盗んできた品物についてのくだりでした。豆の木に関しても巨人の国に関しても、少し夢を見させてもらいつつ、現実的な物語を楽しむことができたのがとても良かったです。


「バウンド-纏足」あかね書房(2009年7月読了)★★★

7歳の時に実の母を亡くし、13歳の時に父も亡くしたシンシンは、今は義母と半分だけ血の繋がった姉・ウェイピンとの3人暮らし。シンシンは腕のいい陶工だった父から絵と詩と書の三芸を習い、特に習字が上手。しかしこの1年間のシンシンの呼び名は、ただの「役立たず」。義母はウェイピンにいい結婚相手を見つけようと必死で、ウェイピンは1年前に纏足を始めたため、今は洞穴からほとんど出られない状態。シンシンは、家の仕事を一手に引き受ける日々なのです。しかしシンシンは毎日泉にいる美しいコイに亡き母の魂を見て心を和ませていました。(「BOUND」金原瑞人・小林みき訳)

ドナ・ジョー・ナポリ版の「シンデレラ」。「シンデレラ」の物語は世界中に広がっていますが、その原形は中国にあったと言われており、ドナ・ジョー・ナポリが今回物語の舞台に選んだのも中国。ドナ・ジョー・ナポリ自身、1997年の夏に北京師範大学で創作を教えていて、友人から中国の三芸に関する本を手渡されたのをきっかけに、中国のシンデレラの物語をも読むことにもなったようですね。しかしこの作品で設定されている時代はそれほど古くなく、明代初代の皇帝・洪武帝の頃です。
この物語のシンデレラは、シンシン。しかしシンシンは、欧米のシンデレラほどあからさまに義母や義姉に扱いを受けているのではありません。もちろん日々の家の仕事は全てシンシンの仕事ですし、それは全く不公平です。しかしただ継子だから不公平な扱いを受けているというわけではありません。一番の理由は、義姉のウェイピンは1年前から纏足をしており、それが痛く辛くて、住んでる洞穴から外に出ることすらできない状態だからということ。家の仕事などとてもできる状態ではありません。しかも足が痛いせいで苛つくウェイピンは、ついついきつい言葉を吐いてしまいがち。そして義母の足も纏足をした足なので、働くのに向いていません。しかし一家の大黒柱を亡くした家族に、奴婢を雇う余裕があるはずもないのです。もちろん義母がウェイピンに纏足をさせたのは良い結婚のためですし、シンシンには纏足させないという時点で既に扱いの違いが出てるわけなのですが、シンシンの足は纏足をしなくても十分小さな足なのです。これは大きなポイントですね。顔立ちが不細工で、足も大きいウェイピンに、シンシンは内心優越感を抱いているのですから。そしてもう1つのポイントは、ウェイピンが実の母親に可愛がられるようになったのは、父親が亡くなってからだということ。母親はあくまでも息子を沢山産むつもりで、娘など眼中になかったのです。息子が産めないとなって初めて、脚光を浴びることになったウェイピン。やっと得た母の愛、その価値観に囚われて、纏足をしさえすればいい結婚ができると信じてるウェイピンが、なんだかとても哀れです。
そういった状態での物語なので、本家のシンデレラほど「シンデレラ vs 義母+義姉」の対比が鮮やかではないですし、最終的に立場が逆転して胸がすくような展開というわけでもありません。何も知らなかったシンシンが徐々に成長して世界を知り、最後には1人の女性として自分の進むべき道を選び取るというのはいいのですが... それでウェイピンはどうなるのでしょう? 結果的に義母と義姉を踏み台にしたようなシンシンよりも、どうしてもウェイピンの方が気になってしまいます。どうもすっきりしないラストですね。

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