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このページは、アーシュラ・K・ル=グウィンの本の感想のページです。

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「闇の左手」ハヤカワ文庫SF(2005年12月読了)★★★

エクーメン暦1491年44日。地球を含む83の居住可能な惑星にある3000もの国家の同盟体・エクーメンの使節として、<冬>と呼ばれる惑星ゲセンにやって来たゲンリー・アイ。エクーメンはゲセン諸国家との同盟を望んでおり、ゲンリー・アイはまず手始めにカルハイド王国のアルガーベン15世を訪ねます。セレム・ハルス・レム・イル・エストラーベンというカルハイド王国の宰相の助力を得るものの、折悪しくエストラーベンは王の逆鱗に触れ失脚。代わりに宰相となったのは、王の従弟パメル・ハルジ・レム・イル・チベでした。王に謁見の叶ったアイですが、王に自分たちのことを理解させることができず、同盟を結ぶことに失敗。しかしカルハイドにおける自由は保障され、まず東のとりでに向かって予言者たちから情報を集め、各地を歩き回り、隣国オルゴレインへと向かうことに。(「THE LEFT HAND OF DARKNESS」小尾芙佐訳)

1969年にヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞したという作品。これはハイニッシュ・ユニバースと呼ばれるシリーズの4作目だったのですね。元々SFはあまり得意ではないところに、良く分からない用語が沢山登場、説明もほとんどなかったため、かなり苦戦しました。読了後も疑問は色々と残りました。近親相姦について、すっきりしないのですが…。そしてシフグレソルとは、結局何だったのでしょう。巻末に「ゲセンの暦と時間」が載っていたのに気づいたのも読了後。地図や用語辞典が欲しかったです。
舞台となるゲセンは常に雪と氷に覆われている惑星。ここに住むゲセン人は、外見的には人類と同じですが、両性具有で、26日周期でめぐってくるケメルと呼ばれる発情期にパートナーと性交して子供をもうけるのが特徴。そんな地球とは常識とされるものがまるで違う世界で、ゲンリー・アイがいくら同盟のことを説明しても、宇宙船はもちろんのこと、空を飛ぶ鳥すら見たことのない人々に、ゲンリーの言葉を素直に理解させるのは至難の業。説明すればするほど狂人と思われてしまいます。いくらゲンリーの側が適応力に富んでいても、まずかれが「男性」として固定されており、1年中ケメルだというところで、人々にはゲンリーが薄気味悪い存在としか思えないのですし。
終盤の氷原の逃避行は良かったです。曲がりなりにも友情として確立しようとしていたものが、ケメルによって違うものに変貌しようとする一瞬など、かなりドキドキしました。文化や性別など、人と人との間には様々なものが横たわっていますが、最終的には個対個なのですね。そして途中で挿入されたゲセンの民話や説話が面白かったです。これらの話がこの世界観に奥行きを与えているのですね。


「影との戦い-ゲド戦記1」岩波書店(2005年12月再読)★★★★★お気に入り

絶え間ない嵐に見舞われる東北の海に浮かぶ島・ゴント。古来より数多くの魔法使いを生み出したこの地は、「竜王」「大賢人」の称号を得たゲドを生んだ島。母親は早くに亡くし、鍛冶屋の父親と2人で暮らしていたハイタカは、7歳の時に人並みはずれた力が備わっていることが分かり、伯母であるまじない師に様々な物の真の名や呪文を習うことに。そして12歳の時、ゴント島に攻め入ってきたカルガド帝国の兵士たちを呪文で追い払ったのが評判となり、ル・アルビの大魔法使い、沈黙のオジオンに「ゲド」という真名をつけてもらいます。しばらくオジオンに弟子入りしていたゲドは、やがてローク島の学院に入学。しかし最初から気の合わなかったヒスイとの果し合いで、ゲドは恐ろしい影を呼び出してしまうのです。(「A WIZARD OF ESRTHSEA」清水真砂子訳)

ゲド戦記1巻。剣と魔法の異世界ファンタジーです。竜がおり、大賢人と呼ばれる魔法使いたちがおり、物にはそれぞれ真名があり、それによって支配されている世界。そんな世界で、1人の才能溢れる若者が、自分の力に慢心し、死の世界から「影」という大きな危機を呼び寄せてしまうという物語。
1人の人間の持っている光と影。光も影も、どんな人間の中にでもあるもの。光があるからこそ影が生まれ、光が強ければ強いほど影は濃くなります。そんな光と影のどちらをもあるがままに認め、受け止めることこそが大切だということなのでしょうね。ゲドと影の関係のように、影から逃げているうちは、影は強大な力を持って襲い掛かってきますが、自分から受け止めようと追いかけ始めれば、影は弱くなり、逃げていこうとするもの。そしてこの作品をここまで印象付けているのは、この影の濃さなのかもしれません。
ここに描かれているのは、まだまだ若いゲド。高い能力は持っているものの、うぬぼれが強く傲慢で、鼻持ちならない人物です。しかしそんなゲドが周囲を巻き込む大きく辛い失敗を経て、内面的に大きく成長していく様が描かれています。この出来事があったからこそ、後年のゲドという大魔法使いが生まれたのでしょうね。オジオンやカラスノエンドウ、オタクといった脇役たちも魅力的です。


「こわれた腕環-ゲド戦記2」岩波書店(2005年12月再読)★★★★★お気に入り

カルガド帝国のアチュアンの墓所では、唯一絶対の大巫女が死ぬと、同じ日の夜に生まれた女の子が探し出され、その子供が5歳になった時に死んだ巫女の生まれ変わりとして神殿に連れてこられ、“永遠に生まれ変わる巫女”、喰らわれし者たるアルハとしての教育を受けるしきたり。テナーもそのようにしてエンタットの西の村からアチュアンの墓所に連れてこられた少女。テナーが15歳で成人を迎え、名実共にに大巫女となってしばらく経った頃。テナーがいつものように玉座の神殿の下にある地下の洞窟に行くと、そこにいたのは見知らぬ男。灯りが禁止されている洞窟で灯りを点していたのです。その男はゲド。ゲドは世の中を平和にする力をもつというエレス・アクベの環の失われた半分を求めてアチュアンの墓所へとやって来たのです。(「THE TOMBS OF A TUAN」清水真砂子訳)

ゲド戦記2巻。「影との戦い」の数年後。この頃、既にゲドは「竜王」と呼ばれています。竜王とは、竜と話し合いができる人間ということ。そして「影との戦い」で影を追跡している最中にゲドが手に入れた腕環が、この物語に繋がってきます。今回ゲドは途中からの登場。しかも前巻の颯爽とした姿はなく、かなりやつれています。アチュアンという古い精霊が支配する場所では、魔法使いとしての自分の力も十分には出せないようです。
アチュアンの大巫女の受け継ぎ方は、丁度チベットのダライラマのようですね。巫女が死んでも、その瞬間、新しく巫女となるべき少女が生まれているため、絶えることがないのです。しかしそのようにして、歴史と伝統を背負わされるというのは、相当重そうです。死んだ先代のアルハの言葉を「あなたさまがお亡くなりになる前におっしゃったことです」というように話されるというのは一体どのような気持ちがするのでしょう。彼女のよりどころは、闇の精霊に対する信仰だけ。しかもその信仰も、自分以外の人間にはそれほど重要ではないと、意外なほど身近な人間から思い知らされることになるのです。
この巻では、アチュアンの墓所から解放されたはずのテナーが、思いがけずそのことに悩むのがポイントでしょうか。たとえ退屈でたまらなかったとはいえ、確実に彼女を庇護してくれていた世界を捨て去ること、それまでの自分を否定してしまうことは、外の世界をまるで知らない彼女にとって本当に大きな冒険。彼女が生まれて初めて得た自由は、本当に良いものなのか。色々と規制され、管理されている方が、彼女にとっては逆に楽だと思いますが、その試練を乗り越えてこそ、彼女はようやく自分自身を取り戻すことができるのですね。


「さいはての島へ-ゲド戦記3」岩波書店(2005年12月再読)★★★★★お気に入り

良き魔法の伝授が行われている賢人の島・ローク。ここの学院の長として大賢人になったゲドのもとに、ひとりの少年が知らせをもってやって来ます。この少年はエンラッドとエンレイド諸島の統治者、モレド家の王子・アレン。アレンの島から西に500マイルほどの位置にあるナルベデュエン島では、魔法の力が弱くなり、呪文は力を失い、魔法使いたちは魔法の言葉を忘れてしまったと伝えにやって来たのです。実はそのような知らせは、アレンからだけではありませんでした。賢人たちは話し合い、ゲドはアレンと共に旅に出ることに。 (「THE FARTHEST SHORE」清水真砂子訳)

ゲド戦記3巻。ゲドも既に若くなく、世界にただ1人の竜王であり、大賢人となって5年。学院の生徒であるカケによると、40歳から50歳ぐらいにはなっているとのこと。エレス・アクベの腕環が1つに繋がってからというもの、カルガド帝国の侵略はふっつりやんでいるようです。
今回は冒頭からゲドが登場するものの、中心となっているのはモレド家から使者としてやってきた王子アレン。ゲドやテナーが登場した時とは違い、生まれながらに上に立つものとしてしっかりと育てられたアレンに傲慢なところはなく、しっかりと落ち着いていながら初々しい少年。彼はゲドと出会い、最初は恋にも似た気持ちを抱き、一緒に旅に出られることに有頂天になります。しかしその旅の途中、アレンはきちんと物事を説明してくれないゲドに不信感を抱き、一緒に旅出たのを後悔することに。ここでのゲドは、まるでかつてのオジオンのようですね。しかしゲドも旅の始めに言っていますが、これはゲドのための旅なのではなく、アレンのための旅だったのですね。
「さいはての島」は「影との戦い」でゲドが得た教訓をアレンに伝える旅だったような気がします。生と死は両極なのではなく、裏表のようなもの。そのどちらをも、あるがまま受け入れなければならないというのは、まさに「影との戦い」のゲドと影の関係のように思えます。
ゲドを取り巻く長たちが意外と大人気ないような気もしましたが、それもまた外界の影響を受けて、獏とした不安に苛まれていたのかもしれませんね。


「夜の言葉-ファンタジー・SF論」岩波現代文庫(2007年9月読了)★★★★★お気に入り

アーシュラ・K・ル=グウィンによる、ファンタジー・SF論。各地で行われた講演会やエッセイのために書かれた原稿を集めたもの。「夜の言葉」というタイトルは、「わたしたちは、人間は昼の光のなかで生きていると思いがちなものですが、世界の半分は常に闇のなかにあり、そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語るものなのです」という言葉からきたものだそうです。(「THE LANGUAGE OF THE NIGHT」山田和子他訳)

ファンタジーやSFファンにとってもとても興味深く読める本ではありますが、それ以上に創作する人にとても勉強になる本なのではないかと思います。その面で特に印象に残ったのは、「エルフランドからポキープシへ」という章。これはファンタジー作品の持つべき文体に関する話で、エルフランドの王者であることは唯一の真なる王であるということである以上、そういった人物が語る言葉の一語一語に深遠な意味があるべきだという主張です。ロード・ダンセイニの格調高い詩的な文体が、おいそれと真似できるものではないというのは以前から聞いていましたが、ファンタジー作家の多くは古文体手法の罠に陥りやすいのだそうです。ここで良い例として挙げられているのは、E.R.エディスン、ケネス・モリス、J.R.R.トールキンの3人。しかしその他にも古文体を見事に使いこなしている作家はいるそうで、特にフリッツ・ライバーとロジャー・ゼラズニイの2人は口語体のアメリカ英語と古文体を場面に応じて使いこなしているのだそう。確かにフリッツ・ライバーの作品を読んだ時、訳文が突然格調高い雰囲気になった覚えがあるのですが、ライバーがそれほど言葉を巧みに操っているというのは、英語圏の人に言われなければ分からないこと。ル=グウィンはライバーとゼラズニイに関して、「シェイクスピアに深く精通し、きわめて広範なテクニックを展開しているライバーが、いかなるものであれ、雄弁にして優美なる一定の調子を保ちつづけられないはずがないのは百パーセント確かだというのに。ときどきわたしは考えこんでしまいます。この二人の作家は自らの才能を過小評価しているのではないか、自身に対する自信を欠いているのではないか、と。あるいは、ファンタジーがシリアスに取り上げられることがほとんどないこの国のこの特異な時代状況が原因で、二人ともファンタジーを真面目に考えることを恐れているのかもしれない。」と書いています。日本語で作品を読む限り、それらは読者にあまり関係ないことではありますが、知りようがないことなだけに、本当に興味深いです。
そして「善と悪」の二勢力の明らかな対立と思われがちな「指輪物語」において、実は一群の輝かしい人物たちがそれぞれに黒い影を伴っているという分析が見られる「子どもと影」の章も、「ゲド戦記」の第1巻「影との戦い」を思い起こさせて興味深いところ。これは「指輪物語」において、たとえばエルフにはオークが、アラゴルンには黒い騎手が、ガンダルフにはサルーマンが、フロドにはゴクリが影として存在しているという話。「ファンタジーが心の旅と魂の内部での善悪の抗争を自然に、そして適切に語ることができる言葉だから」こそ、「指輪物語」はファンタジーとして書かれたのだということ。
この本で一貫して語られているのは、夢物語だと切捨てられがちなファンタジーやSFもまた、芸術であり文学であるということ。確かにファンタジーやSFを現実逃避の絵空事として切り捨てる人は多いのかもしれませんが、ファンタジーは「事実」ではないにせよ、「真実」であるからこそ、読まれる価値があるものだというのは、子供でも分かっていることだとル=グウィンは言います。もちろん、最上のものを作り出そうとしなければ最上のものは生まれませんし、最上のものを作り出そうとしても、その中で最上のものとなれるのはごく一握りの作品だけだというル=グウィンの言葉はその通りだと思います。
序文には、1979年に初版が出版され、10年後の1989年に著者によって改訂が加えられたとあります。そのほとんどは人称に関するもののようで、これは日本語にしてしまうとほとんど埋もれてしまう部分なのですが、その他にも、10年前とは考えが変わってきている部分も当然あるわけで、その辺りに関しても注釈が入っています。「後半の意見が正しいことは当時にもまして自信を深めていますが、前の意見はどうも間違っているようです」というように、現在の考えを付け加えている形。信じるものは信じ、しかし自分が間違っていると思えば潔く認め、自分自身の変化と正面から向き合って、さらに思考を進めていこうとしている姿勢に好感が持てますし、アーシュラ・K・ル=グウィン自身の執筆に対する真摯な態度が伺えて、その点でもとても興味深く読める本でした。


「帰還-ゲド戦記最後の書」岩波書店(2005年12月再読)★★★★★

中谷で農園をやっているヒウチイシと結婚したテナー。夫が亡くなり、息子は船乗りになり、娘が結婚して家を出て、現在は大やけどを負ったテルーを引き取って面倒をみています。そんなある日、オジオンからの来て欲しいというメッセージが。2人は早速オジオンの家へと向かいます。オジオンはなんと余命いくばくもない状態だったのです。オジオンを看取った2人は、しばらくその家に滞在。そして数日後、心身ともに消耗しきったゲドが竜のカレシンに連れられてやって来ます。(「TEHANU」清水真砂子訳)

16年ぶりに刊行されたという、ゲド戦記4巻。
今回の主役は「こわれた腕環」のテナー。ここにゴント島に帰ってきたゲドと、テナーが面倒をみることになったテルーという女の子が加わります。
ゲドとテナーの、女は大賢人になれるのかという議論、そして帰ってきたヒバナの行動は、そのままジェンダー問題に繋がります。ゲド戦記は、その最初から強いメッセージが篭められていましたが、ここではあまりにストレートで驚かされました。個人的には、あまりにそのメッセージが表面に出すぎているように感じられて、読んでいて少し辛かったです。そして魔力を失ったゲドたちが直面する現実も厳しく、人としての生き方の物語にもなっています。まるでゲドが魔法の力を失うと共に、作品も徐々にファンタジーではなくなっていっているようですね。しかし勇者とお姫様だけがファンタジーの主人公なのではなく、それらの人間にも「老い」という現実が突きつけられているところが普通のファンタジーと一線を画しているところだと思いますし、ゲドやテナーがそれぞれにしっかりと自分の足で立ち、生きているところ、特に妻として母として生きてきたテナーの強さにこの作品の大きな価値があると思います。


「アースシーの風-ゲド戦記5」岩波書店(2005年12月読了)★★★★★お気に入り

故郷のゴント島でひっそりと余生を送るゲドの元へ、ハンノキという男が訪れます。彼はタオンに住む、物直しのまじない師。しかし妻のユリがお腹の中の赤ん坊と共に死んでから2ヶ月ほどして、夢を見始めたのです。彼がみていたのは、丘の斜面に連なる低い石垣のところでユリに呼ばれている夢。次にその夢を見た時に現れたのは、5年前に亡くなった師匠のシロカツオドリ。そして次に見た時には、数多くの人が現れ、それぞれにハンノキの真の名を呼び、自由にしてくれと頼んでいました。ハンノキは寝るたびに夢にうなされるようになり、相談した魔法使いの助言に従ってロークへ。そして様式の長に言われて、ゴント島にやって来たのだといいます。その頃、テナーとテハヌーはハブナーの王宮へと招かれていました。(「THE OTHE WIND」清水真砂子訳)

11年ぶりに刊行されたという、ゲド戦記5巻。
ゲドも既に70歳ぐらいで、老年に入っています。「最後の書」と銘打たれた前作の後で発表されたこの作品で、これまで「影との戦い」や「さいはての島へ」で明らかになっていた「石垣のある黄泉の国」について、新たな疑問が投げかけられ、当たり前のようにそのまま受け止めていたその世界について、今回改めて考えさせられることになります。アースシーの人々は死んだら黄泉の国へ行くのですが、カルガド人は死んだ魂は生まれ変わっていくのだと信じています。確かに黄泉の国には多くの死者たちがいましたが、その中にカルガド人はいないようです。カルガド人や動物、そして竜は一体どこに行くのでしょう。ゲドやレバンネン王が見てきた死後の世界は、本当は一体何だったのでしょう。この謎を解き明かす過程で、太古のアースシー世界での人と竜の関係、そしてハード人とカルガド人との関係が明らかにされることに。人は大地と水を選んで東へ、竜は風と火を選んで西へ、だったのですね。
テナーはもちろんのこと、ローク島の様式の長・アズバーはカルガド人ですが、これまでは基本的に「カルガド人=敵」であり、アルハの信仰している神も、ゲドによって「闇」と切りすてられていました。しかし今回カルガド人の王女が登場することによって、この「常識」にも改めて疑問が投げかけられることになります。カルガド人の王女にとってアースシーの人々は呪われた言葉を話し、死んだら生まれ変わることもない人々。しかし全く付き合いのない違う民族と初めて触れ合う時、自分たちの常識が相手には通用しないと知った時、驚くのは当然としても、だからといって相手を根底から否定することが正しいと言えるでしょうか。相手が野蛮だと決め付けるのは簡単ですが、本当に野蛮なのは相手なのか、そう決め付けようとしている自分こそが野蛮なのではないのか。どちらかが100%善でどちらかが100%悪ということは有り得ません。これは民族同士だけでなく、違う考え方を持つ人々の間でも言えることですね。ル=グインのこの姿勢によって、物語の奥行きがぐんと広がったような気がします。
4冊目から既にファンタジーという枠を超えた作品となっていると思いますが、さらにじっくりといぶし銀のような深みを増していますね。まだ「外伝」は残っていますが、この「アースシーの風」によって、今までのゲド戦記の世界が綺麗に閉じたと思えました。以前4巻まで読んだ時とは満足度がまるで違います。続編が出たと聞いた時には驚きましたが、やはり書かれるべき物語だったのだと実感です。


「ゲド戦記外伝」岩波書店(2005年12月読了)★★★★

【カワウソ】…エンラッドのベリラで600年ほど前に書かれた「暗黒の書」や、ハブナーの人々に伝わってきた物語。ロークの学院がどのようにして生まれたのかという物語です。
【ダークローズとダイヤモンド】…ハブナーの西部の町・グレイドに生まれたダイヤモンドは、幼い頃から歌を歌うのが大好きな少年。魔法の力が強く、勉強を始めることになるのですが…。
【地の骨】…ル・アルビの魔法使い・ダルスは、ロークの学院でネマールに教わった魔法使いで、オジオンの師。ある日オジオンはダルスに大地震が来ると知らされます。
【湿原で】…ハブナーの北西にある島・セメル。その島にあるアンダンデン山から1人の旅人が湿原に下りてきます。家畜に伝染病が出たと聞いてやって来たのです。
【トンボ】…ウェイ島の広々とした領地に代々住んでいたアイリア一族。しかし相続争いで財産を失い、領地は荒れ放題。そのうちの1人、なかば廃墟と化した館の所有者にはトンボという娘がいました。(「TALES FROM EARTHSEA」清水真砂子訳)

年代も登場人物も様々な物語が5編収められています。ずっと昔の話もあれば、ゲドやオジオンが登場する話もあり、これまでの5巻での物語がまたしても奥行きを増すような作品群。特に「トンボ」は、もう1つの結末だったのですね。 「カワウソ」で語られる、ロークの学院の成り立ちもとても興味深い物語。後の世の「女は入れない」という規則は一体いつできたのでしょう。学院の長たちもこの成り立ちを知らないはずがないのに、なぜあそこまで男尊女卑の態度を取れたのかとても不思議。そして「湿原で」では、大賢人時代のゲドに会えるのも嬉しいですし、1つ間違えていればゲドもこんな青年になっていたのかも… と思うと感慨深いです。
ル=グイン自身による詳細な解説もあり、アースシー世界の全体像が見えてきます。やはりこの世界は何とも言えずに魅力的です。

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