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このページは、E. L. カニグズバーグの本の感想のページです。

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「クローディアの秘密」岩波少年文庫(2006年3月再読)★★★★★お気に入り

毎日同じことを繰り返し、そしてオール5の優等生・クローディア・キンケイドでい続ける生活がいやになったクローディアは、家出をすることを決心。昔式の家出が自分には無理だと良く分かっているクローディアは、行き先をニューヨーク市のメトロポリタン美術館に決め、慎重に計画を練ることに。同行者として選んだのは、3人の弟の真ん中のジェイミー。ジェイミーは口が固くて信用できる上、お小遣いを溜め込んでお金持ちなのです。そしてある水曜日、クローディアとジェイミーは、自分たちの楽器ケースに下着を詰め込んで家出を決行することに。(「FROM THE MIXED-UP FILES OF MRS. BASIL E. FRRANKWEILER」松永ふみ子訳)

子供の頃何度も読んだ「クローディアの秘密」。大人になって読み返してみても相変わらず面白かったです。子供たちが家出をする話は良くありますが、そのほとんどはクローディアが考える「昔式の家出」。メトロポリタン美術館に隠れてしまうなんて、そんなアイディアがこの作品以前にあったでしょうか。何よりもとても新鮮ですし、合理的で現代的でもあります。とても今らしい作品です。しかし本国では1967年、40年も前に発表されたという作品。これは「魔女ジェニファとわたし」と一緒に出版され、その2冊がその年のアメリカの児童文学賞ニューベリー賞を争い、「クローディアの秘密」が受賞したのだそうです。
小学校6年生のクローディアと3年生のジェイミーという姉弟はもちろんのこと、彼女たちを最終的に保護することになる82歳のベシル・E・フランクワイラー夫人の造形も鮮やか。もちろん、クローディアが綿密に立てた計画通りにスクールバスの運転手に見つからないように身を潜めたり、美術館の中でも警備員から隠れ、夜は16世紀の黴臭いベッドで眠ったり、冬のさなかに噴水で水浴びをして、ついでにコインを拾ったりという冒険譚もとても楽しいです。しかし今回再読して改めて気がついたのは、家出をしたクローディアにとっての「秘密」の存在。これに関しては、小学校の頃読んだ時にはあまり深く理解できていなかったように思います。自分探しの物語は色々とありますが、その中でもこれほど自分だけの「秘密」を持つことの大切さ、そして分かち合うことの素晴らしさをさりげなく描いている作品は、まだまだ珍しいのではないでしょうか。なくても生きてはいけるけれど、楽しく前向きに生きていくためには大切なスパイスのようなもの。そして少女は大人になっていくのですね。

P.106「ホームシックってのは指をしゃぶるようなもんなんだね。じぶんに自信がもてないと出てくるんだ」
P.193「日によってはうんと勉強しなくちゃいけないわ。でも、日によってはもう内側にはいっているものをたっぷりふくらませて、何にでも触れさせるという日もなくちゃいけないわ。そしてからだの中で感じるのよ。ときにはゆっくり時間をかけて、そうなるのを待ってやらないと、いろんな知識がむやみに積み重なって、からだの中でガタガタさわぎだすでしょうよ。そんな知識では、雑音をだすことはできても、それでほんとうにものを感ずることはできやしないのよ。中身はからっぽなのよ」


「魔女ジェニファとわたし」岩波少年文庫(2006年4月読了)★★★★

初めてジェニファに会ったのは、ハロウィーンの校内行列のために家に帰って仮装し、学校に戻る途中でのこと。エリザベスは、9月の新学期の前に引っ越してきたばかりなので、まだ友達もおらず、1人ぼっち。しかし林を通り抜ける時に、木の上に腰掛けていたジェニファのぶかぶかの靴をはかせてやったのがきっかけで、2人はその日の晩のハロウィンまわりを一緒に行くことに。エリザベスもジェニファも巡礼の仮装。しかしジェニファのやり方は、エリザベスがこれまで一度も見たこともないようなものでした。(「JENNIFER, HECATE, MACBETH, WILLIAM McKINLEY, AND ME, ELIZABETH」松永ふみ子訳)

E.L.カニグズバーグのデビュー作。ハロウィーンの「おふせまいり」だの「ハロウィーンのおねだり」(Trick or Treat!)という訳文に時代を感じてしまいましたが、それさえ慣れてしまえば、とても可愛らしい物語でした。
転校したばかりでなかなか友達ができないままのエリザベスと、自分のことを魔女だと言ってしまう、ちょっと不思議な女の子ジェニファの物語。エリザベスが主人公ですし、読んでいると一見、「内気なエリザベスに友達ができて良かった良かった」的な話に思えてしまうのですが、実はそうではないのですね。頭が良すぎて、周囲の子たちが子供っぽく見えてしまうジェニファにとっての、友達ができたという物語でもあります。図書館の常連ですごい勢いで本を読み、小学生ながらもマクベスをかなり読み込んでいるらしいジェニファ。友達がいなくて1人ぼっちでも自信満々に振舞っているように見える彼女ですが、やはり淋しかったのでしょうし、自分のことが魔女だと言ってしまったのは一種の虚勢だったのでしょうね。エリザベスと友達になろうなどとは、最初は思っていなかったのかもしれません。しかしジェニファが不思議な言動を繰り返し、しかもハロウィーンではそんな言動が素晴らしい効果を発揮しているのを見たエリザベスは、ジェニファについて魔女修行をすることになります。魔女という言葉で虚勢を張っていたジェニファの心の隙間にするりと入り込んできたのが、エリザベスだったのでしょう。
エリザベスに友達がいないことを心配して「社会性」がないのではないかと考えるお母さんに対し、お父さんが、普通の体温は36.5度だけれど、36度で健康な人もいるのだから「だから、なにがふつうだなんて、だれにもいえるもんか」という言葉が良かったです。


「ベーグル・チームの作戦」岩波少年文庫(2006年12月読了)★★★★

リトルリーグの野球チーム・ブネイブリスの今年のスポンサーは婦人会。なんとマークのママが野球チームの監督に、そして兄のスペンサーがコーチになることになってしまうのです。そのせいで、12歳になってバーミツバの式の準備を本格的に始めなければならず、親友のハーシュが少し離れたクレセントヒルに引っ越したせいで微妙に距離が開いてしまい、しかも嫌いだったバリー・ジェイコブスに間に入り込まれて何かと気苦労の多いマークの生活は、まるでプライバシーも何もない状態になってしまうのです。(「ABOUT THE B'NAI BAGELS」松永ふみ子訳)

「ロールパン・チームの作戦」からの改題。
アメリカのユダヤ人家庭が中心になっており、確かにバーミツバや教会堂(シナゴク)などのユダヤ教ならではの用語や風習が登場しますが、それはただの背景にすぎません。訳者あとがきに、ユダヤ教の家庭の特徴がいくつか挙げられているのですが(両親が教育熱心で、子供は自由に育ち、やや過保護であることなど)、宗教や風習が違っていても、ここに登場するのは普通の家庭。アメリカのごく一般的な家が舞台の物語です。
しかし家庭としてはごく一般的とはいえ、母親が野球チームの監督、兄がコーチになってしまった少年の環境は一般的ではありません。母親も兄も、家庭の中の自分と野球チームの中の自分という「ダブり」で困っているようですが、マークの気苦労はそれ以上。家の中の末息子としての自分と、野球チームの選手としての自分の「ダブり」。身内が監督やコーチをやっているということで、周囲の視線も当然変わってきますし、エラーやミスなどできる雰囲気ではないどころか、周囲の期待以上のことをしなければ、決して認めてもらえないのです。
この本を読んで一番感じたのは、このマークの母親のベスの素敵なこと。冒頭でスペンサーとロールキャベツのことで口論になるので、感情的で視野の狭い母親像を思い浮かべていたのですが、実はとても素敵な人だったのですね。特に雑誌のプレイボーイをめぐるセルマやスペンサーとの会話が良かったです。個人個人の個性を大切に、細かい部分まで干渉し管理してしまおうとはせずに、包み込むような目線で息子たちの成長を見守っています。バリー・ジェイコブスの家庭のように一切隠し事がないというのは、一見理想ではありますが、子供の成長過程においてはやはり問題があると思いますね。親に反抗し、隠し事をしながら、子供は大きくなっていくのですから。マークが自分の母親のことを誇りに思うのも尤もですね。


「ティーパーティーの謎」岩波少年文庫(2006年12月読了)★★★★

エピファニー校から博学大会の州大会に出場しているのは、ノア・ガーショム、ナディア・ダイアモンドスタイン、イーサン・ポッター、ジュリアン・シンの4人の6年生。各地の中学校の部の優勝者は8年生ばかり。学校内で6年生が優勝しただけでも周囲にとっては驚きだったのに、いまやこの6年生4人は、州の大会の決勝に出場しているのです。4人のクラスを受け持っているイーバ・マリー・オリンスキー先生自身、自分がなぜこの4人を選んだのか分かっていませんでしたが、自分たちのことを「ソウルズ」と呼ぶこの4人の結び付きは、ある土曜日のティーパーティから始まっていたのです。(「THE VIEW FROM SATURDAY」金原瑞人・小島希里訳)

カニグズバーグ2度目のニューベリー賞受賞作品。カニグズバーグの娘・ローリー・カニグズバーグ・トッドによるあとがきによると、なんとモーツァルトの交響曲40番ト短調第1楽章を聞いている時に、この曲のように短い導入や主題の繰り返しのある本を書いてみたいと思ったのだそうです。
確かにこの作品は、短い導入や主題の繰り返しによって書かれている物語。「博学大会」の進行と共に、4人の6年生とオリンスキー先生の視点から見た「今」と「過去」が描かれていきます。読み始めた時は、まず「博学大会」とは一体何なのかが全然分かりませんし、その他の設定についてもまるで分からない状態。ノアの最初の語りがあまり面白く感じられないこともあって、他の作品に比べてとっつきにくい印象でした。しかし1人1人の視点から語られる物語が徐々に繋がり、絡み合っていくうちにどんどん面白くなっていきます。
今回魅力的だったのは、ネイティブ・アメリカンのジュリアン・シン親子。ジュリアンはそのあまりに英国的な話し方などのせいで、学校でも孤立しいじめられるのですが、彼がとても冷静に周囲を見ていたことは、その後開かれるティーパーティの人選からもよく分かります。そしてジュリアンの父親で、シリントン荘を買い取ったシェフのシンさんも、登場回数こそ少ないものの、なかなかの存在感です。カニグズバーグの作品には1人は必ず事情に通じた、子供の秘密を守れるタイプの大人が登場するのですが、今回はこのシンさんがその人物ですね。しかしそれに比べて、前面に登場している割に存在感の薄いオリンスキー先生は…。身障者であることも今ひとつ生かされていないようでしたし、中途半端な印象で残念でした。


「エリコの丘から」岩波少年文庫(2006年3月読了)★★★★

ジーンマリーは、母親と一緒にトレーラーハウスで暮らす11歳の少女。母親がケネディ国際空港に就職したのに伴い、8月末にテキサスからロングアイランド島に引っ越してきました。しかし3週間もシンガー・グローブ中学に通っても、まだ名前で呼んでくれるような友達ができなかったのです。学校にいるのは、1人では何もできないグループ大好き人間ばかり。しかしそんなある日、死んだアオカケスを見つけたことから、ジーンマリーは同じ学校のマルコム・スーと仲良くなります。2人は何か死体を見つけるたびに葬儀を行い、その墓地に「エリコの丘」と名付けることに。そしてそのうち死体がなくても学校が終わった後は一緒に過ごすようになります。しかしダルメシアン犬の死体を見つけ、いつものようにエリコの丘に埋めようとした時、2人は地中に吸い込まれてしまったのです。そこはラハブの宿。そこにいたのは、タルーラという女性。2人はタルーラのために仕事をすることに。(「UP FROM JERICHO TEL」金原瑞人・小島希里訳)

河合隼雄氏の「ファンタジーを読む」に紹介されていて興味を持った作品。以前小島希里さんの訳で一度読もうとしたのですが、どうしても違和感があり挫折。今回金原瑞人さんが手を入れたという新訳で読み直してみました。やはり新訳だとかなり違いますね。今回は序盤から話に入ることができました。元女優のタルーラ・バンクヘッドの蓮っ葉だった話し口調も、普通の話し方になっていて嬉しいです。
まずこの作品で強く印象に残るのは、往年の名女優・タルーラ。彼女が何とも言えずに魅力的です。精神的にも成熟している大人の女性ですし、しかも一筋縄ではいかない個性の持ち主。ジーンマリーがなりたいと願う、普段はそれほど美人ではなくても、映画の中では輝くような美女になってしまうタイプの女性です。このタルーラとの出会いは、ジーンマリーとマルコムに大きな影響を及ぼします。ジーンマリーは女優を目指しているのですが、みんなに笑われるのが嫌で、自分の才能は信じていても、実際にお芝居のオーディションにも参加したことがありません。それでも姿が見えなくなる「エピジーン」を通って生まれて初めての感覚を感じ、タルーラに言われたことをやり遂げることによって、自分自身に自信を持ち、自分から行動する勇気を持ち始めます。そしてマルコムは、几帳面で物事を筋道立てて考えることは得意なのですが、目に見えるもの以外はあまり信じられない性質。将来の夢は大科学者。しかし「エピジーン」を通ることによって、目に見える現実だけでなく、目には見えない心も感じられるようになるのです。
なりたいものになれた人はとても幸せです。なりたいものになる努力をしている人は次に幸せ。しかし才能とは誰にでも望む通りに与えられているものではないのです。どれだけ努力をしても、望むものを手に入れることのできない人間もいます。そんな現実を目の当たりにしながらも、2人が実際に「スター」を手にしたタルーラから得たのは、自分を信じるという力だったのではないでしょうか。輝くために必要なのは、運と才能ともう1つ。この物語を読めば最後の1つが分かります。

P.226「人生は目に見える事実だけじゃないなんて考え方は、好きじゃないけど、どうやら、それが事実らしいんだ」


「800番への旅」岩波少年文庫(2006年12月読了)★★★

母さんがF・ヒューゴ・マラテスタ1世と再婚することになり、その新婚旅行のクルージングの間、マックスともボーとも呼ばれる12歳のマクシミリアン・R(レインボー)は、母さんの昔の結婚相手でマックスの父親であるウッドローに預けられることに。ウッドローはアーメッドという名のヒトコブラクダを連れて国中をキャンピングカーで回っており、離婚の原因もそのラクダを連れた不規則な移動生活でした。そしてマックスも夏の間、物心ついて初めてのアーメッドを連れた移動の旅を経験することになるのですが…。(「JOURNEY TO AN 800 NUMBER」金原瑞人・小島希里訳)

12歳という思春期の真っ只中で、母親が再婚。アメリカでは珍しくも何ともない話なのでしょうけれど、やはりそういう出来事は子供の心にも影響を及ぼします。前の夫はラクダを連れてキャンピングカーで全国を回っていたのに対して、次の夫は金持ち。家は広く庭師や家政婦がおり、洗濯物はクリーニングを利用。ビルの最上階の会員制のレストランで食事をしたり、ファーストクラスで旅行したり、クルージングをしたりといった生活を送っています。今まで「フォートナム校の用務員の息子」だったマックスが、裕福な通学生となるのです。マックスは入学前に学校の校章のついたブレザーを作ってもらい、必要もないのに夏休みの間中、何かあるたびにそれを着用しています。それはマックスにとっての虚勢。きちんと自分を能力通り、もしくはそれ以上に認めてもらいたいという意識の表れ。しかし父・ウッドローの周囲にいる人間たちは、マックスの計算能力の速さや入学する学校のレベルの高さなどには興味ありません。彼らにとって肝心なのは純粋に人間の中身であり、それはロジータの「ボーは年のわりに子どもっぽいところがある」という言葉にも表れています。飾らない自然体の父は周囲の皆に好かれており、病気の時も周囲は精一杯のことをしてくれるのですが、それはあくまでも父のため。マックスのための好意ではないのです。正しいと思って言ったことが相手を怒らせてしまったり、他にも様々な出来事を通して、マックスは少しずつ学んでいきます。ここで「だけどマヌエーロのこと、ぼくどうしたらいい?」と聞くマックスに対して、ウッドローの「どうもできない。今後の教訓だと思うしかない」という言葉がいいですね。マックスにとっては非常に痛い言葉ですが、下手な慰めよりもずっとマックスのためになる言葉。
800番とは、アメリカにおける0120のようなものなのでしょうか。日本人の読者にはこれが何なのか終盤近くになるまで分かりませんが、おそらくアメリカの読者にはすぐにピンとくるのでしょうね。電話の向こうの、普段は何者でもない人間が、夏の間だけ確かに様々な人格を持つというのは、やはり日頃の反動でしょうか。サブリナの言う通り、何かのフリをしていない人間などいないのかも知れませんが… それでもやはりウッドローは私の目にはとても純粋で、何者をも演じていない、素のままの人間に見えました。彼らにとっては、そのような人間が存在するなど信じられないことかもしれませんが…。

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