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このページは、ロバート・コーミアの本の感想のページです。

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「チョコレート・ウォー」扶桑社ミステリ(2001年3月読了)★★★
私立のカトリック系の男子校・トリニティ学院。この学校では運営資金を調達するために、生徒がチョコレートを販売するのが恒例行事。しかし例年なら、1箱1ドルのチョコレートを1人25箱という割当てが、今年は副学院長・ブラザー・リオンの思惑で、1箱2ドルのチョコレートを1人50箱売ることになるのです。生徒側の裏の秘密組織・ヴィジルズに、チョコレート販売を断るように命令された新入生のジェリー・ルノーは、仕方なく断っているうちに、自分自身も徐々にチョコレート販売に疑問を持つようになります。そして命令が撤回された後も、自らの意思で販売を断り続けることに。ブラザー・リオンとヴィジルズの司令官アーチー、そしてジェリーのチョコレートを巡る戦いが始まります。(「THE CHOCOLATE WAR」北沢和彦訳)

印象としては、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のような雰囲気。「ライ麦畑」を読んだのはかなり前なので大雑把にしか覚えていないのですが、少年たちの感じる挫折や孤独、誇り、残酷さといったものがリアルに描かれている所が良く似ていると思います。 そしてこの「チョコレート・ウォー」の一番の特徴は、勧善懲悪的な要素がないということ。強い者はあくまでも強く、利巧に立ち回る者が最後に笑う… 確かに実際の社会でも、必ずしも正しい者が勝つとは限らないですし、弱い者はどう頑張っても負け犬だったりします。しかし小説の上では「正義が勝つ」ことの方が、圧倒的多いのではないでしょうか。この結末が理解できるかどうかが、この作品を気に入るかどうかの大きな分かれ道のような気がします。
ヴィジルズという秘密組織の存在が面白いですね。司令官・アーチーは絶大な権力をもち、生徒を駒のように自由に動かし、教師ですら一目置いている存在。しかし司令官の独走を防ぐために「黒い箱」が存在するのです。この黒い箱には白い玉5つと黒い玉1つが入っており、司令官は命令を下した後で、この箱から玉を1つひかなければなりません。白い玉なら命令続行、黒い玉なら他人に命令したことを司令官自ら実行することになります。これは権力の暴走を止めるのに効果的ですね。本筋とはあまり関係ないのですが、これには感心しました。

「ぼくが死んだ朝」扶桑社ミステリ(2004年11月読了)★★★
マサチューセッツ州ハロウェルで、5〜6歳の子供ばかり十数人を乗せたバスが、4人のテロリストによってジャックされます。テロリストたちは、バスを現在使われていない古い鉄橋に誘導。マサチューセッツ州フォート・デルタのデルタ機関長官宛てにテロリストの要求書が。しかし、その日初めての殺人を犯すことになっていた最年少のテロリスト、ミロ・シャンタスにとって計算外だったのは、そのバスの運転手は金髪の女子高校生だったこと。その日は病気のおじの代わりに、大型車の免許を持っているケイト・フォレスターが運転していたのです。(「AFTER THE FIRST DEATH」金原瑞人訳)

たまたまバスを運転していた女子高生ケイト、バスジャックのテロリストの中で最年少のミロ、そしてテロリストが要求を突きつけたフォートデルタの准将と、その息子である「ぼく」ことベン・マーチャンドの視線から物語は語られていきます。最初はベンのモノローグから始まりますし、ベンが一人称であることから、かなり重要な役回りであることは分かるのですが、彼の実体がなかなか掴めず、少々読みにくかったです。読み終えてみると、彼に対して感じた違和感の理由にも納得できますし、彼と父親のやり取りにやるせないものを感じるのですが… しかし読んでいる間は、ミロとケイトの間で徐々に盛り上がる緊迫感にベンが水を差しているように感じられてしまいました。ベンとベンの父親のインパクトが、ミロとケイトに比べてやや希薄だったのかもしれません。しかし「チョコレート・ウォー」でも感じられた、挫折や孤独、誇り、残酷さが、この作品でも非常に強く迫ってくるようでした。

「フェイド」扶桑社ミステリ(2001年3月読了)★★★★★お気に入り
ポールは、ある日突然故郷に帰って来たアデラールおじさんに、自分が姿を消す能力を持っていることを教えられて驚きます。この能力は、ポールの一族に代々おじから甥へと受け継がれているもの。初めはこの能力を素敵な贈り物程度に考えていたポールですが、しかしその能力ゆえに、見なくてもいいものを見、自らの誘惑と戦うことになり、良いことばかりではないのを身をもって知ることになります。ある日、町の工場の労働争議に参加していた父親が重傷を負ったことから、ポールはその能力を使ってボスを刺殺しようとするのですが…。有名作家・ポール・ロジェイの遺稿はここまでで終わっていました。果たしてこの手記はポールの作ったフィクションなのか、それとも真実の物語だったのか。ポールの親戚に当たるスーザンと、かつてポールのエージェントとして働いていたメレディス・マーティンが、物語の真相を探り始めます。(「FADE」北沢和彦訳)

姿を消す能力「フェイド」。これは自分の好きな時に透明になることのできる能力です。しかし透明になった後の設定は、H.G.ウェルズの「透明人間」とはかなりイメージが違います。「透明人間」では、透明になるのは体だけなので、包帯をぐるぐる巻きにすると、どこに身体があるのか周囲にも分かるようになるのですが、こちらは「肉体の直接的エネルギーの圏内」にある物はすべて透明になるので、身に着けている物も全て透明になります。もし自分が透明人間だったら、と考えたことがある人も多いのではないかと思いますが、良いことばかりではない、ということを思い知らされるような物語です。良いどころか、主人公のポールもアデラールおじさんも、この能力のために憔悴しきっています。彼らを見ていると、チョコレート・ウォーほどではないにしろ、読後にほろ苦さが残ります。
物語はまず発見されたポールの遺稿、それを読むスーザン、そしてその後、という構成で、それが何ともスリリング。二転三転する展開から目が離せませんでした。現実なのか虚構なのか、その境目の描き方も巧みですね。スティーブン・キングが「ヤング・アダルトばかりか、大人が読んでもうっとりすること請け合い」と言ったそうですが、本当にその通りの作品でした。

「真夜中の電話」扶桑社ミステリ(2004年11月読了)★★★★
デニー・コルバートは高校2年の16歳。家が何度も引越しをするため、現在通うノーマン・プレップの中でも、人目を避けるようにひっそりと過ごしていました。というのも父親のジョン・ポール・コルバートは、16歳の時に、ウィックバーグの劇場・グローブシアターで起きた22人の児童が亡くなるという大惨事に関わっており、それ以来、どこに引っ越しても人殺しと呼ばれ、匿名の電話や手紙、新聞記事に悩まされながら、ひっそりと生きてきたのです。(「IN THE MIDDLE OF THE NIGHT」金原瑞人訳)

老朽化した劇場のバルコニーが落ちたのは、決してジョン・ポール・コルバートのせいではないはず。しかし劇場の支配人・ザボール氏にぶつけることのできない怒りは、全てジョン・ポールに向かうのですね。事故から25年経っても、ジョン・ポールに怒りをぶつける遺族はまだいるのです。本人だけでなく、息子のデニーにまでも「人殺しの息子」という言葉が浴びせられます。実際に何かの大事件が起きた時、25年も怒りや復讐心といった負の感情は生き続けるものなのでしょうか。それが少し疑問ではあるのですが、この作品を読んでいると、そういうことがあってもおかしくないという気にさせられます。そうやって生きていくしかなかった人々も、おそらく本当にいるのでしょう。しかし、遺族にとっては何年経っても事件は風化しないというのは分かるのですが、これはとても哀しい生き方ですね。完全に後ろ向きの、単なる腹いせで自分の悲しみにジョン・ポールを引き擦り込むだけの人生。ジョン・ポールに本当に責任があると思うのなら、他にもやりようはあるはず。しかし警察に無実と認められてしまった以上、こうして八つ当たりをするしかないのです。そしてジョン・ポールにとっても、今や償う方法はほとんど何もないのです。
ルルとデニーの出会いは、傍から見る限り不幸でしかありません。しかしデニーにとって、本当に「不幸」だったのでしょうか。ルルのかけた呪縛は、ルルが意図したのとはまた違った姿で、生き続けるのだろうと思うと、怖さが残るのですが…。
巻末には、金原瑞人・馳星周・吉野仁各氏による、「われらコーミアを語る」という特別解説座談会も。
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