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このページは、オスカー・ワイルドの本の感想のページです。

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「ドリアン・グレイの肖像」新潮文庫(2009年7月再読)★★★★★お気に入り

1884年春。バジル・ホールウォードのアトリエを訪ねて来たのは、ヘンリー・ウォットン卿。部屋の中央の画架には美貌の青年の全身像がとめられており、その素晴らしい作品を見たヘンリー卿は、ぜひともグロヴノアに出品するように薦めます。しかしバジルには出品する気はまるでありませんでした。彼は、その絵の中にあまりに自分というものを注ぎこみすぎたのだと説明します。その肖像に描かれているのはドリアン・グレイ。あまりに美しい青年。ドリアン・グレイがそばに座っているだけで、バジルには新しい絵画芸術の採るべき方法が分かり、傑作を生み出すことができるというのです。しかしその肖像画を公開することによって、自分の魂を世間の浅はかな詮索の眼にはさらしたくないと考えていました。(「THE PICTURE OF DRIAN GRAY」福田恆存訳)

バジル・ホールウォードのアトリエにいた頃は、はにかんだ控えめな少年だったドリアン・グレイ。しかしヘンリー卿と出会い、その影響を受けるにつれて、その人格や生活は大きく変化していきます。人格や生活の変化というのは、その人間の姿形に表れるもの。バジルも画家ならではの鋭い目で、「ひとりの哀れな人間に罪があるとすれば、その罪は、かれの口の線、瞼のたれさがり、あるいは手の形にさえ現れるのだ」と言っています。しかしドリアン・グレイの外見は、18年前にバジルが肖像画を描いた時と、なんら変わることがないのです。顔つきは純真無垢で明るく、穢れをつけない若さのまま。そんなドリアン・グレイの外見を見ている限り、世間の悪評が信じられないバジル。しかし、堕落したドリアン・グレイの罪を全て引き受けてくれているのは、実はその肖像画だったのです。この設定は、21世紀となった今読んでも斬新ですね。
美貌の青年にとって、その美貌をなくすことは何よりも耐え難いことであり、そのきっかけを作ったのはヘンリー卿。「美には天与の主権があるのだ。そして美を所有する人間は王者になれる」と言いながら、続けて「あなたが真の人生、完全にして充実した人生を送りうるのも、もうあと数年のことですよ。若さが消えされば、美しさもともに去ってしまう、そのとき、あなたは自分にはもはや勝利がなにひとつ残ってないということに突然気づくーー」と言うのです。その言葉はドリアン・グレイに深く突き刺さります。この作品で特に印象に残るのは、やはりヘンリー卿。ヘンリー卿の言葉は箴言と言うにふさわしいもの。作品全体を通して、彼の印象は強烈です。この徹底した快楽主義ぶり、そして鋭い言葉、やはりオスカー・ワイルド自身が、ヘンリー卿に反映されているのでしょうね。それらの言葉は、なるほどと思わせながらも、知らず知らずのうちに読者をも悪い方へと感化するのでしょうか。彼がドリアン・グレイの悪行にまるで気づいていないのが少し不思議ではありますが…。しかも影響を与えた彼自身は、徹底した快楽主義者ではあっても、一般的な社会生活からは逸脱していないのです。彼こそが本物だったということなのでしょうか。彼がドリアン・グレイに貸した本が何だったのか、それが気になります。そして何といっても、特筆すべきなのは美へのこだわり。ドリアン・グレイも美しい物が大好きで色々と収集しているのですが、最早彼の存在自体が美しく感じられます。そして、作品そのものもあまりに美しい…。とは言っても、その美しさは天上の美しさではなく、堕天使の魅力。オスカー・ワイルドの美意識が全開の作品です。

P.90「小説なら書いてみたいーーペルシャ絨毯のように美しく、現実ばなれした小説を。ところが、英国には、新聞と入門書と百科辞典以外のものを読んでくれる読書階級が存在しない。世界中のどこを捜しても、英国人ほど文学の美しさに対して無感覚な国民はないでしょう」


「サロメ」岩波文庫(2009年5月再読)★★★★★お気に入り

分邦ユダヤの王・エロド・アンティパスの宮殿では宴会が開かれていました。王の執拗な視線やその客たちに耐えかねて宴会を抜けてきたサロメは、月の光に照らされる露台へ。そして砂漠から来た預言者・ヨカナーンに出会います。(「SALOME」福田恆存訳)

ここに登場するヨカナーンとは、聖書における洗礼者ヨハネのこと。ヨルダン川で人々に洗礼を授け、救世主イエスの到来を告げる使者でもあります。そしてこの「サロメ」は、マタイによる福音書(第14章第3-12節)やマルコによる福音書(第6章14-29節)に書かれているヘロデ王と、ヘロデ王妃ヘロディアの娘、そして洗礼者ヨハネの記述をふくらませたもの。ヘロデ王が自分の兄の妃だったヘロディアと結婚したことを、洗礼者ヨハネが「律法では許されないことだ」と言ったため、ヘロディアが洗礼者ヨハネを憎み、自分の娘を唆したというエピソードです。
聖書の中のごく短くそっけない記述が作品として大きく見事にふくらんだという作品は他にもありますが、これもとても見事。こちらの作品でのサロメは自らの意思でヨカナーンの首を欲しがっており、そのことがサロメの狂気じみた愛を強調し、それが作中で何度も登場する月の描写と重なっているところも興味深いです。たとえばヨカナーンに出会う前、サロメは月のことを「小さな銀貨そっくり。どう見ても、小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は…そうだよ、月は生娘なのだよ。生娘の美しさが匂ってゐるもの… そうとも、月は生娘なのだよ。一度もけがされたことがない。男に身を任せたことがないのだよ、ほかの女神たちみたいに」と表現しています。おそらくサロメ自身がそういった少女だったのでしょうね。変化の予兆を見せつつも、まだまだ身も心も生娘だったサロメ。しかしサロメがヨカナーンに出会い、その白い肌や赤い唇を求めるようになり、やがてエロド王の求め通りに踊ることを了承すると、月は血のように赤くなるのです。それはヨカナーンに「ソドムの娘」と言われてしまうサロメ自身の変化でもあるのでしょう。
聖書では、らくだの皮衣を着て腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べているはずの野性的な洗礼者ヨハネなのですが、このヨカナーンはとても女性的な美しさを持った人物のように描写されています。野の百合の花、山に積もった雪、そしてアラビアの女王の庭に咲く薔薇よりも白い肌。エドムの園の黒葡萄の房、レバノンの大きな杉林、月も星も見えない夜のよりも黒い髪。そして象牙の塔に施された緋色の縞、柘榴の実、ツロの庭に咲く薔薇や柘榴の花、葡萄の汁よりも珊瑚の枝よりも赤い唇。白い肌に黒い髪、赤い唇といえば白雪姫ですし、これはむしろ女性向きの造形。今までレオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」に違和感を持っていたのですが、このヨカナーンはダ・ヴィンチのその絵のヨハネようでもありますね。そして聖者のその声に、白い肌に、黒い髪に、赤い唇に、「ソドムの娘」であるサロメは魅了されるのです。
旧仮名遣いの訳も雰囲気たっぷりで実に美しいですし、岩波文庫版にはビアズレーの挿絵18点も収められており、それらは既に挿絵というよりも、ワイルドの「サロメ」に触発された独特の絵画世界を見せてくれ、改めてこの作品の素晴らしさを感じさせられます。


「幸福な王子」新潮文庫(2009年7月読了)★★★★

【幸福な王子】…町の高い円柱のうえに立っていたのは幸福な王子の像。全身うすい純金の箔がきせられ、目には2つのサファイア、刀の柄には大きな赤いルビー。非常な賞賛の的でした。
【ナイチンゲールとばらの花】…赤いばらを持ってきてくれたら一緒に踊るという娘の言葉を信じた若い学生。赤いばらなどどこにもないと嘆く学生の言葉をナイチンゲールが聞きとめます。
【わがままな大男】…大男の庭は緑の草が生え、あちこちに星のように美しい花が咲き、12本の桃の木がある大きく綺麗な庭。子供たちは学校からの帰りにいつもそこで遊んでいました。
【忠実な友達】…紅雀が川ねずみに話したのは、正直な小男のハンスと粉屋の大男・ヒューの友情の物語。粉屋の口癖は、「ほんとうの友達ってものはすべてを共有すべきだよ」でした。
【すばらしいロケット】…皇太子がロシアの王女と結婚することになり、国中が歓びにわき返ります。結婚式の最後に花火の大興行が行われることになっており、花火たちは互いに話し始めます。
【若い王】…戴冠式の前の晩、若い王は美しい部屋にただ1人座り、戴冠式の時にまとう金糸を織り込んだ衣服やルビーを縫い付けた王冠、真珠を沢山つけた王錫のことを考えていました。
【王女の誕生日】…その日はスペインの小さな王女(インファンタ)の12歳の誕生日。その日だけは同じ年頃の友達が呼ばれ、様々な催しが行われた中で王女が気に入ったのは侏儒でした。
【漁師とその魂】…毎日夕方になると海に漕ぎ出し、網を投げ入れる若い漁師。ある日の夕方、網が船に引き入れられないぐらい重くなったと思うと、そこにかかっていたの美しい人魚でした。
【星の子】…寒さの厳しい夜、貧しい樵は松林の中で1人の赤ん坊を拾い、自分の家にも食べさせてやれない子供が沢山いるにもかかわらず、赤ん坊を連れて帰ることに。(「THE HAPPY PRINCE AND OTHER TALES」西村孝次訳)

「幸福の王子」は、実は私が子供の頃の嫌いな物語のワースト3に入っていた作品。「幸福の王子」の偽善的なところが大嫌いでした。自分は貧しい人々を助けて満足かもしれません。でもそのために死んでしまったツバメは…? 王子の思いやりが素晴らしい、などとは間違っても思いませんでしたし、理解することもできませんでした。そして大人になった今読み返してみても、やはり凄い話ですね。宝石や金箔を届けられた人は、その場は嬉しくありがたかったもしれません。しかし金箔はともかく、立派なサファイアやルビーは、どこから取ってきたのか一目瞭然のはず。疑われることにならなかったのでしょうか。もし疑われることにならず、うまく換金できたとしても、何かの時は助けてもらえる、という心を育てることにはならなかったのでしょうか。貧しくとも正しく生きてきた生活がそれで一気に崩れてしまうことはなかったのでしょうか。幸福の王子はほんの数人の貧しい人々を助けましたが、その他の可哀想な人々はどうなのでしょう。全てに責任が取れないのなら、中途半端に手を出さない方がまだましだと思います。幸福の王子の行動は、子供の頃の私にとっても自己中心的なものでしたし、今となってもそうとしか映りません。
そして今、他の作品を読んでみてもそういう物語ばかりなのですね。美しい言葉で飾られてはいるけれど、自己中心的な人々が純情な正直者を傷つける物語ばかり。赤いばらを欲しがった学生のために無意味に死んでいったナイチンゲールや、粉屋に利用されるだけ利用された正直者のハンス。死んでしまってなお、酷い言葉を投げかけられる侏儒。しかしそのような物語も、オスカー・ワイルドの手にかかるとあまりに美しいのです。オスカー・ワイルドはどういうつもりで、こういった作品を書いたのでしょうね。そちらの方が気になってしまいます。しかしそれでもあまりに美しい作品集です。


「ウィンダミア卿夫人の扇」岩波文庫(2009年7月読了)★★★★

ウィンダミア卿邸を訪れたのは、ダーリントン卿。ちょうど花瓶にバラの花を入れていたウィンダミア卿夫人は早速通すように言いつけます。居間に入った途端に、テーブルの上に置かれた扇に目をつけるダーリントン卿。それはウィンダミア卿からの誕生祝。その日はウィンダミア卿夫人の誕生日で、パーティが開かれることになっているのです。しかしそこにベリック夫人が現れて、ウィンダミア卿に関するいかがわしい噂を吹き込みます。(「LADY WINDERMERE'S FAN」厨川圭子訳)

オスカー・ワイルド自身が生きていた19世紀末、ヴィクトリア朝末期のイギリス上流社会を描いた戯曲。中心となるのは、仲睦まじい夫婦に投げかけられた波紋の真相。夫婦の前に突如として現れたアーリン夫人は、美しく才気溢れるものの、これを機会に金持ちの男性を捕まえようとしている女性。貴族階級に相応しいとは言いがたい女性です。ウィンダミア卿夫人はもう冷静に話を聞けるような状態ではないですし、ウィンダミア卿にも何か理由があるのだろうとは思うのですが、その事情はなかなか見えてきません。今となってはあまり珍しくない展開ではあるのですが、それでも面白かったです。アーリン夫人に関してウィンダミア卿が知っている真実とウィンダミア卿夫人が見た現実が平行線をたどりつつ幕、というのが面白いですね。からりとしていて、なかなか楽しめる戯曲でした。そして当時の貴族たちのやり取りも、いかにも19世紀らしいもので楽しめます。付き合いは広くとも、基本的に上辺だけの付き合いだけだったのでしょうね。頭が空っぽな貴族同士の会話は、相手によって言うことがころころ変わるという調子の良いもの。その辺りはオスカー・ワイルドらしい皮肉な視線なのでしょうね。

P.113「私たちはみんな同じ世界に住んでいますのよ。善も悪も、罪悪も純潔も、みな同じように手に手をつないでその世界を通っていますのよ。安全に暮らそうと思って、わざと目をつぶって人生の半面を見ないようにするのは、ちょうど、落とし穴や断崖のあるところを、もっと安全に歩いてゆこうと思って、わざと目隠しするようなものですわ」

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