
英雄となったシーザーの凱旋と、出迎えるローマの人々。競技の席では、アントニーが3度シーザーに捧げようとした王冠をシーザーは3度とも退けます。しかしキャシアスやブルータスは、シーザーの野望を危惧していたのです。そして1人の占師がシーザーに呼びかける「気をつけるがよい。三月十五日を」という言葉…。(「JULIUS CAESAR」福田恆存訳)
「ジュリアス・シーザー」という題名であり、確かにジュリアス・シーザーの暗殺を中心に描いた戯曲ではあるのですが、主役はジュリアス・シーザーその人ではなかったのですね。むしろ主役はブルータス。もしくはその暗殺をめぐるブルータスとアントニー。もしくは群像劇といった印象。クライマックスは、暗殺そのものは早い時点で終わってしまい、その後の市民を前にしたブルータスとアントニーの演説合戦がクライマックスとなります。「私はシーザーを愛していた。しかし、それ以上にローマを愛していたのだ」と言い、自分の演説が終わってもアントニーの演説を聞くようにと市民を説得するブルータス。それに対して、なかなか狡猾なアントニー。彼は決してブルータスを誹謗中傷はしません。それどころかブルータスの人格を褒めちぎります。しかし褒めながらも巧みに市民の意識をずらし、シーザー礼賛に摩り替えていくのです。もちろん自分の立ち位置のは安全圏に確保しています。そしてアントニーの演説が終わった時、既に勝負がついているのです。ブルータスは世間知らずの育ちの良いおぼっちゃまという位置に成り下がってしまいます。この作品ではまるでシーザーの腰ぎんちゃくのようにも見えてしまうアントニーですが、さすが弁論術の盛んだった古代ローマの政治家。
ブルータスやキャシアスは、なぜシーザーを殺そうとしたのか。塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでいても今ひとつすっきりしない部分でした。そちらを読むと、まるでブルータスたちの行き当たりばったりの犯行で、シーザーの死は全くの無駄死にだったという印象が残ります。シーザーが一手に権力を握ることを阻止しなければならないという熱意のみで、それ以外はあまり何も考えていなかった行動だったように思えるのです。そして、この作品を読んでも「そうだったのか」と膝を打つところまではいきません。終身独裁官となったシーザーに集中した人気と権力を面白くなく思い、そして危惧したというのも理解できますし、ブルータスが高潔な人物であり、その理想の道を進もうとしたこと、そんなブルータスを周囲の面々が利用したことはよく分かるのですが…。ここまで見事な演説合戦を繰り広げる作品なだけに、惜しい気がします。やはりその辺りをもう一歩踏み込んで描いて欲しかったです。
デンマークのエルシノア。ハムレット王が亡くなって2ヶ月足らず。夫をこよなく愛していたはずのガートルード王妃は、王位を継いだ亡き王の弟のクローディアスと再婚。そんな時、エルシノア城の銃眼胸壁の上の狭い歩廊に亡きハムレット王の亡霊が現れます。甲冑に身を固め元帥杖を手に、見張りのマーセラスとバーナードの目の前を何も言わずに通り過ぎる亡霊。その話を聞いたホレイショーは自分も亡霊の姿を目にすると、早速友人であるハムレット王子に告げることに。そして亡霊と対峙したハムレット王子は、父の死の顛末を聞かされることになるのです。(「HAMLET」福田恆存訳)
シェイクスピアの四大悲劇の1つ。どのシェイクスピアの作品にも元となる話が存在していて、あまりオリジナリティがないというのも、私がシェイクスピアに今ひとつ感心しない理由の1つ。「ハムレット」もよく似た戯曲が同時代の劇作家によって書かれ、「ハムレット」の出る数年前までロンドンで上演されていたのだそうですし、それ以前に、サクソーの「デンマーク国民史」や、それを元にしたベルフォレー「悲劇物語」にもハムレットの物語があるのです。しかし今回訳者による解題を読んで、「エッダ」や「ベオウルフ」にハムレットの原型が存在するとされていると知って驚きました。
そして興味深かったのは、同じく解題に書かれている、「ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演戯していることにある」という言葉。これには納得させられますね。そして「ハムレットの演戯法はハムレットに教わることだ。シェイクスピア劇の演戯法はシェイクスピアに教わることだ。そのハムレットは演戯をし、演戯しながらそれを楽しんでいる。そういうハムレットを役者は演戯すればいい。演戯ということが既に二重の生であるがゆえに、そこには二重の演戯がある」…確かにこれこそがハムレットの魅力なのでしょう。そして本来ならやはり演じられるハムレットを観るべきなのでしょうね。演じる役者によってそのハムレット像はかなり変わるでしょうし、説得力のあるハムレットを演じるのは実はとても難しいのかもしれませんが…。新潮文庫版のシェイクスピアはどれも福田恆存氏による訳が素晴らしいのですが、この「ハムレット」では福田恆存氏による解題がまたとても勉強になります。本場ロンドンでのシェイクスピア劇も観てらっしゃるようですし、演劇にも詳しい方なのですね。
トロイ戦争において、ギリシャ軍によるトロイ城包囲が7年過ぎた頃。アガメムノンやユリシーズたちは、ギリシャ軍の華・アキリーズを戦場に駆り立てようとしていました。しかし自分の力や名声に酔いしれ、すっかり高慢になっていたアキリーズは、毎日パトロクラス相手にふざけたり、アガメムノンらを嘲るばかり。なかなか戦争に参加しようとしないのです。そんな時、トロイ軍の将軍・イーニーアスがギリシャの軍営を訪れます。それはプライアム王の息子であり、トロイ軍の大将であるヘクターからの一騎打ちの申し出でした。ユリシーズの提案によってヘクターの相手に決まったのは、エージャックス。そしてその頃、パリスの弟のトロイラスは、ギリシャ側に寝返った神官・カルカスの娘・クレシダに一途に恋をしており、クレシダの叔父であるパンダラスに仲を取り持ってくれるよう頼んでいました。(「TROILUS AND CRESSIDA」小田島雄志訳)
ギリシャ・ローマ時代の神話や出来事を題材に取ったような後世の作品で何が困るといえば、人名がまるで違ってしまうこと。先日ラシーヌの戯曲を読んだ時も苦労したのですが、こちらも慣れるまでは大変でした。ユリシーズがオデュッセウス、アキリーズがアキレウス、ヘクターはヘクトルという辺りはまだしも、エージャックスが大アイアースで、イーニーアスがアイネイアースのことだとは…。それでも、一旦人名がきちんと飲みこめてしまえば、これが意外と面白く読めました。まず可笑しかったのは、ヘクターと戦うことが決まったエージャックスを、ユリシーズやアガメムノン、ネスターやダイアミディーズがおだてつつ、実は虚仮にして いるところ。そしてギリシャ陣営にやって来たクレシダをギリシャの将軍らが歓迎しているところ。これはどちらも、日本語で読んでも笑えるような訳になっているのです。読みながら思わずくすくす笑いが漏れてしまったほど。小田島雄志さんの訳がとても素敵です。
この作品では「トロイの城壁が七年にわたる包囲にも屈せず」とあるのですが、おそらくホメロスの「イーリアス」と同時期の話なのでしょうね。(「イーリアス」はトロイ戦争の10年目) 「トロイラスとクレシダ」というタイトル通り、トロイの王子・トロイラスと、トロイの神官でありながらギリシャに寝返った神官カルカスの娘・クレシダという2人の悲恋物語ではあるのですが、それと平行して進んでいくのはトロイ戦争の顛末。むしろ戦争の方が全体的な比重としては重いかもしれません。戦う気をまるで失っているアキリーズを、それと悟らせないように遠回し遠回しに戦場に引っ張り出すユリシーズの知略の物語と言えそうです。そして戦争の話ばかりだと観客が飽きてしまうだろうからと、トロイラスとクレシダの恋物語を入れてみたという印象。
人物の造形は、ホメロスの「イーリアス」とはかなり違うのですね。一番目についたのは、ユリシーズに対するアキリーズの態度。「イーリアス」では、アキリーズはアガメムノンに対しては敵意を燃やしながらも、ユリシーズに対して敬愛の情を示していました。アガメムノンが折れて出た時も、ユリシーズが仲介役となったほど。しかしこちらの作品でのアキリーズは、親友のパトロクラス以外の人間は全て見下しているのですね。ユリシーズのことも同様。しかもアキリーズがヘクターを討ち取る場面は、これはないだろうという卑怯なやり口。それまでのギリシャ陣営とヘクターの正々堂々としたやり取りからすると、これは考えられないですね。驚きました。シェイクスピアの時代の人々には、アキリーズは元々不人気だったのでしょうか。
この作品は、シェイクスピアの作品の中でも「問題劇」という扱いをされてるそうなのですが、最後まで読んでみてその評価にも納得。この終わり方には驚きました。作品の最後が失われてしまったのかと考えてしまうほどの、呆気にとられるような幕切れ。現代の小説でも、ここまで読者に丸投げしてしまう作品は珍しいのではないでしょうか。それに、一応悲劇に分類される作品のようなのですが、とても悲劇とは思えません。確かに愛は破局を迎えますが、これはむしろ喜劇なのでは...?
シェイクスピアの作品に先んじて、チョーサーも同じ題名の作品を書いており、日本では「トロイルス」という題名で訳されているようです。こちらで はクレシダの造形がかなり違うようなので、そちらもぜひ読んでみたいところ。そして「イーリアス」と並んでトロイ戦争についての筋の主な材源となっていると いう、ジョン・リドゲイド「トロイの書」、ウィリアム・キャクストンの「トロイ史集成」、チャップマン「イリアッド」も読んでみたいものです。
登場人物
プライアム…トロイの王(プリアモス)
ヘクター…プライアムの息子(ヘクトル)
トロイラス…プライアムの息子(トロイラス)
パリス…プライアムの息子(パリス)
ディーフォーバス…プライアムの息子(デーイポボス)
ヘリナス…プライアムの息子(ヘレノス)
マーガレロン…プライアムの私生児
イーニーアス…トロイの将軍(アイネイアース)
アンティーナー…トロイの将軍(アンテノール)
カルカス…トロイの神官(カルカス)
パンダラス…クレシダの叔父(パンダロス)
アガメムノン…ギリシアの総指揮官(アガメムノーン)
メネレーアス…アガメムノンの弟(メネラーオス)
アキリーズ…ギリシアの将軍(アキレウス)
エージャックス…ギリシアの将軍(大アイアース)
ユリシーズ…ギリシアの将軍(オデュッセウス)
ネスター…ギリシアの将軍(ネストール)
ダイアミディーズ…ギリシアの将軍(ディオメーデース)
パトロクラス…ギリシアの将軍(パトロクロス)
サーサイティーズ…身体障害者で口汚いギリシア人。
ヘレン…メネレーアスの妻(ヘレネー)
アンドロマキ…ヘクターの妻(アンドロマケ)
カサンドラ…プライアムの娘(カッサンドラ)
クレシダ…カルカスの娘(クレシダ)
ノールウェイ王の不意打ちに、スコットランドのダンカン王のもとで獅子奮迅の働きを見せるマクベス。戦いが終わり、マクベスとバンクォーが通りがかった荒地に現れたのは3人の魔女でした。魔女たちは口々に「グラミスの領主様」「コーダの領主様」「いずれは王ともなられるお方」と呼びかけます。確かにマクベスは現在グラミスの領主。しかしコーダの領主は元気で、まだまだ勢いが盛ん。王も同様。いずれは王になるなどとは、信じられない言葉でした。しかもバンクォーの方は、子孫が王座につくというのです。不思議に思うと同時に困惑する2人。しかしその2人を出迎えたロスとアンガスは、マクベスにコーダの領主と呼びかけます。ノールウェイ王を密かに援けていた裏切り者のコーダの領主は処刑が決定し、その地位は今やマクベスのものだというのです。(「MACBETH」福田恆存訳)
シェイクスピアの四大悲劇の1つ。四大悲劇の中ではもっともシンプルで、しかしエッセンスのように凝縮している作品だと思います。戯曲という形式上、小説のような説明や描写がないというのは当然なのですが、1つ1つの台詞がその文字以上に多くのことを含んでいるのですね。それは福田恆存氏の解題にもある通り。それが他の作品以上に顕著だと思います。しかしそれでも説明不足としか思えない部分もあり… 当初書かれた作品から多くの場面が割愛されているとも考えられていると知り、納得です。
野心はあるにしても、心は正しかったマクベスが、魔女の予言をきっかけに大それた罪を犯し、幻影に悩まされ、自滅していくという悲劇。小心者と言われるマクベスも強気のマクベス夫人も、魔女の手の平で遊ばされていたようなもの。結局のところ、悪人にはなりきれない、平凡な人間に過ぎなかったというわけですね。魔女の予言はおそらくマクベスの性格も見越してのことだと思うのですが、もしマクベスが自分の良心に負けなければ、結末を急がなければ、一体どうなっていたのでしょう。コーダの領主の地位も何もせずに手に入ったのだから、王位もそうなるだろうとは考えなかったのでしょうか。そのようなことを考えること自体、最早無意味なのでしょうか。それでもやはりマクベスの人生は、魔女によって滅ぼされたようなもの。元々そういった資質があったとはいえ、やはり魔女の言葉によって引き起こされた出来事だったと思いますね。第1幕第1場の「きれいは穢ない。穢ないはきれい」という魔女の台詞が暗示的。そしてこれらの魔女は、ハインリヒ・ハイネによると、元々のマクベスの伝説の中では3人のワルキューレだったのだそうです。戦死者を選ぶ役割を持つワルキューレにとって、マクベスへのこの予言はなんと相応しい役回りだったことでしょう。
子供の頃に読んだ時、「マクベスを倒す者はいないのだ、女の生み落とした者のなかには。」という魔女の言葉とその言葉の裏返しは、こじつけのようにしか思えず、正直あまり感心しなかったのですが、「マクベスは滅びはしない、あのバーナムの大森林がダンシネインの丘に攻めのぼって来ぬかぎりは。」の方は、実際に森が攻め上ってくるという絵画的な場面描写と相まって、とてもインパクトが強かった覚えがあります。ちなみに実在したスコットランド王としてのマクベスは、善王だったようですね。この作品では、当時の王であるジェームズ一世(元々はスコットランド王であったのが、エリザベス女王の死後イングランド王も兼ねるようになり、ステュアート王家の祖となった)への政治的配慮もあるのか、極悪非道の人物として描かれているのですが。
シーザー亡き後、ローマを治めていたのはアントニーとオクテイヴィアス、そしてレピダスの3人の執政官。シーザー暗殺者たちを追討する軍を起こし、さらにギリシャや小アジアに進軍していたアントニーが出会ったのは、エジプトの女王・クレオパトラでした。アントニーはクレオパトラと恋に落ち、その冬をアレクサンドリアで過ごすことに。そんな時、アントニーの妻・フルヴィアと弟がオクテイヴィアスを相手に反乱を起こしたという知らせがアレクサンドリアに届き、アントニーはローマへと帰国。アントニーが着いた頃、既にオクテイヴィアスは勝利しており、フルヴィアは戦死していました。オクテイヴィアスはフルヴィアの代わりに自分の姉をアントニーに嫁がせて、和睦を図るのですが…。(「ANTHONY And CLEOPATRA」福田恆存訳)
ジュリアス・シーザーの死後の物語。同じ古代ローマ物で、同じアントニーが登場していても「ジュリアス・シーザー」とは打って変わって、こちらは愛の物語。それも「ロミオとジュリエット」のあの若い性急な恋心とは対極にあるかのような、アントニーとクレオパトラの成熟した恋愛です。クレオパトラはエジプトの慣習で弟と結婚し、その後もシーザーと子を成す中にまでなった恋多き女。アントニーも軍人ではありますが、人並みの結婚歴はありますし、クレオパトラと恋愛している時点でも妻をローマに残しています。若いロミオとジュリエットなら、自分以外の人間がかつて相手の心を奪っていたことがあるなどということに耐えられないだろうと思うのですが、こちらの2人は大人なだけに役者です。若さで突っ走るわけにもいかない大人にとって、相手に恋しながらも周囲もきちんと見えてしまう大人にとって、恋愛における演技力の重要性というのは、実はとても高いのかもしれません。歴史的真実としては、おそらく、純情な男を手玉に取ったしたたかな女という構図なのでしょうけれど、この描き方が、またとてもシェイクスピアらしい気がします。