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このページは、C.S.ルイスの本の感想のページです。

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「喜びのおとずれ-C.S.ルイス自叙伝」ちくま文庫(2007年11月読了)★★★★★お気に入り

「ナルニア国物語」で一躍有名となった、C.S.ルイスの唯一の自叙伝。無心論者だった幼年期のこと、家族、特に兄との親密だった関係のこと、母との別離、ベルゲン、シャルトル、ワイバーンと呼ぶそれぞれの学校で受けた教育やそこで得た友人たちとのこと。そして兵役を経てオックスフォード大学に復学し、モードリン学寮の特別研究員に選ばれ、キリスト教を受け入れるようになった頃までのことを辿っていきます。(「SURPRISED BY JOY-THE SHAPE OF MY EARLY LIFE」早乙女忠・中村邦生訳)

本来は無心論者だったC.S.ルイスが紆余曲折を経てキリスト教を信じるようになった過程を書こうとした作品のようなのですが、キリスト教云々よりも興味深いエピソードが沢山盛り込まれているため、私にとってはあまり宗教的な匂いが感じられない自叙伝となっていました。実際、キリスト教について大きく取り上げられているのは2度だけ。1度目は信仰心を失ってしまった14歳の頃。そして30歳過ぎに信仰心を取り戻した頃が2度目。そのキリスト教の信仰を取り戻したことが書かれている章は、意識的に書かれずに終わってしまった事柄も多かったせいか抽象的で、それほど印象には残るようなインパクトは感じられませんでした。唯一、キリスト教という心の支えを得たことで、「喜び」を失ってしまったように見えるところは興味深かったのですが。
それに比べて、子供時代の回想部分が素晴らしかったです。ルイスが幼い頃に感じた感動が、今読んでも生き生きと伝わってくるようですし、ルイスが好んで読んでいた本は、私自身が好む本とかなり重なっているので、その面でもとても興味深く読めました。特にロングフェローの詩「オーラフ王の伝説」の中の「テグネールの頌詩」で初めて北欧神話に出会った時の感動は印象的。北欧神話の夏の太陽神・バルドルについて何も知らなかったにも関わらず、「わたしの心は広大な北の空に引きあげられるとともに、冷たく広く厳しく暗く遠いということばを使うほか筆の力では描写することのできぬ世界を、抑えがたいほどに激しく渇望したのである」と書いています。この渇望こそが、ルイスにとっての「喜び(ジョイ)」。「どんな満足感よりも願わしいものだが、決して満たされることのない渇望というものである」なのです。
そして様々な生活描写の中にナルニアの面影が垣間見えるようで懐かしかったです。特にルイス自身の母が亡くなる場面では、「魔術師とおい」のディゴリーが危篤の母親のことを思う場面を思い起こしますし、ノック先生ことカークパトリック先生は、「ライオンと魔女」で疎開するペベンシーきょうだいを引き取るカーク教授を彷彿とさせます。ルイスと兄が違う寄宿に入ったため、新学期の寄宿舎に向かう時は途中の駅で別れ、その学期が終わって帰省する時はその駅で再会するなど、まるでペベンシーきょうだいが休暇を終えて寄宿学校に戻る途中、カスピアン王子のふく角笛に呼び出される場面を思い起こさせますね。
ちなみに本書のタイトルは、ワーズワースの詩の一節から取ったもの。「喜びの不意なる訪れ… 風のようにもどかしく、娘よ、わたしはおまえとともに法悦にひたろうとした」です。もちろん幼い頃から感じていたものが、まさに「喜び」という言葉で表現しうるものだったというのもあるのでしょうけれど、のちに結婚した女性の名前が「ジョイ」だったというのも大きいのでしょうね。


「マラカンドラ-別世界物語1-沈黙の惑星を離れて」ちくま文庫(2007年7月読了)★★★★★お気に入り

徒歩旅行で丘陵地帯を訪れたケンブリッジ大学の言語学者のエルウィン・ランサムは、当てにしていたナダービーの宿に泊まれず、1つ先のスタークの町に向かって歩いていました。その時、息子が帰ってこないのを心配している女性に出会います。彼女の息子のハリーは少し先のライズ荘にボイラーの世話に通っており、6時になったら家に帰るはず。それなのになかなか姿が見えず、頭が弱い息子に何かあったのではないかと心配していたのです。ライズ荘の人間が大学の先生だと聞いたランサムは、あわよくば泊めてもらえるのではないかと彼女の息子を探しに行くことに。ライズ荘にいたのは物理学者のウェストンと、ランサムの昔馴染みのディヴァインでした。しかしランサムはハリーを無事に家に戻させるものの、何かを企んでいた2人によって薬を盛られ、気がついたらなんと宇宙船の中にいたのです。(「OUT OF THE SILENT PLANET」中村妙子訳)

ナルニア国物語のC.S.ルイスの描いた大人向けの作品は、火星を舞台にしたSF3部作。SFとはいっても、それは単なる形式に過ぎず、SFという枠を通してルイスにとっての神を描こうとする作品と言った方が相応しいと思います。
今でこそ火星の実態もある程度掴めていますが、この頃はH.G.ウェルズのSF作品の火星人が一世を風靡した時代であり、ウェルズの描く火星人は頭脳が大きく四肢が退化したタコ型生物でした。しかし同じように重力の弱さを考慮しても、ルイスの描く火星人はタコ型ではなく、背が高くひょろ長い生命体。ウェルズの作品とはまるで違っているのですね。火星の情景描写もとても豊か。ルイスの描く火星は水も植物も豊富な惑星であり、フロッサ、ソーン、フィフルトリッギといった何種類かのひょろ長い生命体たちが住んでいます。事前に知らなければ、ここが火星とはなかなか気づかないのではないでしょうか。そして、来た当初は生贄にされると思い込んでいたランサムですが、ここの生命体たちが実はとても高度な知能を持っていることに気づかされます。3種族は、同じ言葉によるコミュニケーションを取っており、それぞれの特性を生かした生活を送っていて、ランサムが最初考えたように支配・被支配的な関係は存在しないのです。地球の人間なら「侵略」「征服」といった文字が浮かびそうなところですが、彼らにそのような概念は存在しません。さらに、ここにはさらにエルディルという透明な天使のような存在がおり、その上の存在としてオヤルサという存在が火星を統べています。オヤルサよりも上の存在には今回ランサムは出会うことができなかったのですが、それは造物主のマレルディル。エルディルが一般的な天使とすれば、オヤルサはラファエルやガブリエル、ミカエルやウリエルといった上位の天使であり、マレンディルが神ということになりそう。とても神話的な世界です。
ランサムがこの星の長であるオヤルサと出会い、話すところが特に面白く、興味深かったです。全てを統べるマレルディルのこと、ペレランドラのこと、サルカンドラ(地球)のこと。かつて地球のオヤルサは最も輝かしく偉大な者であったのに、いつしか「曲がった者」となってしまい、他の世界をも腐敗させようとしたため、地球の大気の中に閉じ込められ、地球は他の惑星からは隔離された「沈黙の惑星」となってしまったといいます。そして「マレルディルが世にも不思議なことを思いつかれ、敢えてある恐ろしいことを行われて、サルカンドラで<曲がった者>と身をもって争われたとのこと。これはおそらく堕天使ルシファーのことなのでしょうね。キリスト教的な様々な暗喩がこの作品にはあると思いますが、それほど直接的でないためか、とても面白く読めました。


「ペレランドラ-別世界物語2-金星への旅」ちくま文庫(2007年7月読了)★★★★★お気に入り

上の存在からの命令で、今度は金星(ペレランドラ)へと向かうことになったランサム。ランサムは自分が何をすべきかまるで知らないまま、<オヤルサ>によってペレランドラに送られることに。そして辿り着いたのは海の上。ランサムは、やがて見えてきた浮島によじ登り、そこの果物を食べて過ごします。そこは生まれたばかりのような純粋さを持つ、理想郷のような場所でした。そして出会ったのは、この世界の「女王」でした。ランサムは美しく無垢な女王と共に様々なことを語り合います。しかしそんなある日、丸い宇宙船に乗ってウェストンがやって来たのです。(「PERELANDRA」中村妙子訳)

C.S.ルイスのSF3部作、2作目。
少しでも聖書の創世記を知っている読者なら、この金星がエデンの園にとても良く似ていること、そして女王はイヴその人であることに気づくと思います。こちらで禁じられているのは、知恵の木の実を食べることではなく、固定された陸地で夜を過ごすこと。どちらの禁止も、その理由が分からない人間にとっては、なかなか理解しがたいという部分で共通していますね。そしてランサムの役割は、この罪を知らない女王を堕落から守ることだったようです。ということで、今回の大きなテーマは原罪と楽園喪失。
もしイヴが蛇の誘惑に負けず、知恵の木の実を食べなかったら。そう考えたことのある人は多いと思います。そして知恵を知る前の無邪気な状態と今の状態とどちらが本当に幸せなのか、そう考えたことのある人も多いのではないでしょうか。聖書にはごく簡単な記述しかありません。ミルトンの「失楽園」での楽園喪失の場面では、私にはアダムとイヴは楽園から追放されてほっとしたようにも見えてしまったのですが、実際のところはどうだったのでしょうね。しかしそれはともかくとして、今回の悪魔の女王への誘惑は非常に執拗で、それがとてもリアル。聖書では、まるでイヴがあっという間に誘惑に負けてしまったかのように書かれていますが、おそらくイヴもこのペレランドラの女王のように言葉によって巧みに誘惑され、反論はするもののその小さな隙を突かれ続け、執拗に囁き続けられるうちに根負けしてしまったというのが真実なのではないでしょうか。
「マラカンドラ」よりも一層神学的な要素が強まった分、好き嫌いは分かれるかもしれませんが、ルイスの描き出すエデンの園は非常に美しく、そして魅力的です。


「サルカンドラ-別世界物語3-かの忌わしき砦」ちくま文庫(2007年7月読了)★★★★

半年前に結婚して以来、すれ違いがちな生活を送っているジェーンとマーク・スタドック。その日もマークは大学の会議で遅くなるはずで、そう考えた途端、ジェーンは憂鬱になります。そして、その日の朝刊に載っている写真を見た時にジェーンが思い出したのは、その前の晩の夢。それは外国人らしい男と一見立派そうな来客者が四角い小部屋で話し合っているうちに、いきなり来客者が男の首をを取り外したという夢と、数人の男が墓地のような所から老人の死骸を掘り出す夢でした。夢の中で首を取り外されていたのは、新聞によるとギロチン処刑されたアラブ系の科学者・アルカサン。ジェーンは知らないはずのアルカサンの顔を夢に見ていたのです。一方、大学の会議に出席していたマークは、副学寮長のカリーら"コレッジの推進派"の仲間入りが出来たことを喜び、さらに紹介されたフィーヴァーストーン卿には能力を認められ、大学の敷地である森を買い上げようとしている国立統合実験機関NICEへの転職を提示されて舞い上がっていました。(「THAT HIDEOUS STRENGTH」中村妙子訳)

C.S.ルイスのSF3部作、3作目。完結編です。
1冊目では火星へ、2冊目では金星へと行ったランサムですが、こちらの3冊目ではなかなか登場しません。こちらの話の中心となっているのは、マークとジェーン・スタドック夫妻。マークはNICEという科学者集団からの仕事の誘いを受けており、悪夢に悩むジェーンは親しいディンブル博士夫妻の紹介で、セント・アンズ・オン・ザ・ヒルのミス・アイアンウッドやその仲間たちに勧誘されます。この2つの集団が結局、この作品では敵味方ということになります。前2冊はSFというよりもむしろファンタジーらしい作品だったと思うのですが、この3作目は宇宙飛行こそないものの、とてもSFらしい作品になっていますね。キリスト教的部分もやはり健在。
今までの火星や金星の描写がとても好きだったので、地球が舞台となった途端あまりに現実的になり過ぎてしまい、しかもこれまでとは雰囲気がまるで違うのが残念でした。今まで話に出てきていた悪いエルディルのことを考えれば、これが順当なのでしょうけれど…。終盤になるとそれぞれの惑星のオヤルサなども登場する神秘的な場面もあり、その辺りでは想像力をとても刺激されますが、基本的にサスペンス小説になってしまったような印象もあり、これまでの2冊ほどのめりこむことはありませんでした。


「愛はあまりにも若く-プシュケーとその姉」みすず書房(2007年8月読了)★★★★★お気に入り

神々、特に<灰色の山>の主である神を糾弾するために、巻物にギリシア語で逐一書き記し始めたオリュアル。オリュアルはシュニット川の左岸に都を持つグローム国の王・トロームの姉娘であり、オリュアルと妹のレディヴァルの母が亡くなった後、強国・カパドの王の第三王女がグローム王に輿入れし、妹が生まれます。妹の名はイストラ。イストラは生まれた時から非常に美しく、オリュアルの目には女神のように映るほど。オリュアルはギリシア人奴隷のきつねと共に、イストラの世話に心血を注ぎます。しかしイストラのあまりの美しさが災いを招き、イストラはグロームの国民が信じるウンギット神の息子である<灰色の山>の神、山の獣へと輿入れさせられることになったのです。(「TILL WE HAVE FACES-A Myth Retold」中村妙子訳)

イストラとは、ギリシア語ではプシュケーという意味であり、ウンギットはギリシア神話ではアプロディーテに当たる神。アプレイウスの「黄金のろば」の中のキューピッドとプシュケーのエピソードを使い、C.S.ルイスが描き出した物語です。「黄金のろば」の中で語られるのは、プシュケーの良い暮らしに嫉妬したプシュケーの姉たちが、プシュケーにランプでキューピッドの顔を見るようにそそのかしたというもの。この物語でも、実際に途中でそういう神話が語られます。しかしそれは、プシュケーの姉であったオリュアルの目から見た真実とはまるで違うもの。オリュアルにとっては、彼女の愛するプシュケーは盗賊あるいはならず者たちに騙されており、救い出さねばならない相手だったのです。
しかしオリュアル自身にも本当は分かっていたのでしょうね。彼女は自分の目で垣間見た宮殿の存在が真実だと分かっていたのに、彼女自身がそれを信じたくなくて、きつねやバルディアの言葉にすがりついてしまっただけなのでしょう。結局のところ、確かに神話の語る通り、オリュアルはプシュケーに嫉妬していただけなのかもしれません。しかしそれはアプレイウスの物語の中にあるような嫉妬ではなく、プシュケーが夫である神に向ける、絶対的な信頼に対する嫉妬。愛するプシュケーを神に取られたくない、プシュケーにもう一度自分だけを見つめて欲しいという、切実な、しかしあくまでも人間的な思いだったのですね。プシュケーを一番愛していた2人の人間が、あくまでも人間的にプシュケーを愛することによって、結局プシュケーを危機に追いやることになったというのが皮肉です。
ギリシャ神話の神々といえば、人間よりも人間らしいどろどろとした感情を持った存在として描かれることが多いのですが、この作品に現れる神々はそういった神々とはまるで違います。人間とはまるでレベルの違う存在。同じ土俵に立つことすら考えられないほどの存在。ギリシャ神話に描かれる神々の姿は、所詮人間の想像力の限界を表しているとすら言いたくなるような、そんな神々しい姿が描かれることによって、この作品は非常に崇高な作品になっているように思います。人間がいくら神々を語ろうとも、人間がどれだけ頑張ろうとも、所詮人間は人間。人間の能力の範囲を超えた神々の存在、そんな神々の神々たる所以がこの作品の中には現れていると思います。素晴らしいです。そして、晩年には結婚したものの、ずっと女嫌いとして独身生活を送ってきたルイスの作品とは思えないほど、女性が深く描きこまれている作品でもありました。ルイスは女嫌いなどではなく、実際には女性を非常に理解していたのかもしれないですね。


「悪魔の手紙」平凡社ライブラリー(2007年9月読了)★★★★

悪魔の最も重要な仕事の1つは、人間を誘惑し堕落させること。これは、かつて多大な功績を挙げて今は引退している大悪魔のスクルーテイプが、新人の悪魔である甥のワームウッドに対して書き綴った31通の手紙。なかなか上手く人間を誘惑しきれないでいるワームウッドからの進捗状況の報告の手紙に対して、スクルーテイプはいかに人間を惑わせてキリスト教に背を向けさせ、堕落に至らしめるか、様々な状況に応じた助言をしていきます。スクルーテイプが誘惑者養成所の晩餐会の会場で行ったスピーチの「乾杯の辞」を同時収録。(「THE SCREWTAPE LETTERS」中村妙子訳)

全編通して悪魔の視点から書かれているのですが、同時に悪魔の言葉を通してキリスト教について語る作品でもあります。ここにはワームウッドからの報告の手紙は一切登場せず、読めるのはスクルーテイプからの返信のみ。ワームウッドが人間を誘惑しようとしているのは、ルイス自身も生きていた第二次世界大戦中のロンドン。人間の持つ弱さにつけこむ悪魔のやり方はとても狡猾で、日々の生活やそこに存在する感情、人間の持つ深層心理を巧みに突いて来ます。人間とはいかに弱い存在か、いかに周囲の環境に染まりやすい存在かということをターゲットである人間自身には悟らせずに、目の前にある現実に集中させようとするのです。たとえば、かつてスクルーテイプが大英博物館の図書館に通っていた無心論者の男を担当していた時は、ある日突然敵(神)のことを考え始めた男に対して、すかさず外に昼食に出させて、ロンドンの町という現実を目の当たりさせたのだとか。悪魔の何世紀にも渡る根回しによって、人間は見慣れているものが目の前にある間は、見慣れないものを信じることがほとんどできなくなっているのだそうです。時々どきりとさせられる箇所があり、知らず知らずのうちに、悪魔の思惑通りに行動していることもあるかもしれません。ルイスの人間洞察はすごいですね。スクルーテイプの手紙に対して、ワームウッドが書いたであろう内容を想像させるのも面白いところ。
この作品は、「指輪物語」のトールキンに捧げられています。これを読んだトールキンはどう感じたのか、気になるところです。

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