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このページは、カズオ・イシグロの本の感想のページです。

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「日の名残り」ハヤカワepi文庫(2006年3月読了)★★★★★お気に入り

1956年7月。35年もの間ダーリントン卿の家に仕え、ダーリントン卿が亡くなった今は、新たにダーリントン・ホールを買い取ったアメリカ人・ファラディの執事となっているスティーヴンス。父親の代からの執事であり、執事としての高い矜持を持っています。しかし多い時には28人の召使がいたこともあり、スティーヴンスの時代でも彼の下で17人もが働いていたというダーリントン・ホールには、現在スティーヴンスを入れて4人の人間しかいません。スティーヴンスは仕事を抱え込みすぎ、その結果、些細なミスを何度か犯していました。そんな時に思い出したのは、ダーリントン卿の時代に女中頭としてダーリントン・ホールに働いていたミス・ケントンのこと。結婚して仕事をやめ、ミセス・ベンとなっている彼女は、今はコーンウォールに住んでおり、先日届いた手紙では、しきりにダーリントン・ホールを懐かしがっていました。ファラディがアメリカに5週間ほど帰国することになった時、数日間ドライブ旅行をすることを勧められたスティーヴンスは、ミセス・ベンに会いに行くことに。(「THE REMAINS OF THE DAY」土屋政雄訳)

1989年度のブッカー賞受賞作品。
スティーヴンスがコーンウォールへ車で旅行しながら、ダーリントン・ホールが華やかなりし頃の出来事を回想するだけの物語なのですが、とても美しい作品です。良い小説とは、こういった作品のことを言うのかもしれませんね。
スティーヴンスの執事としての誇り、執事に大切な品格の話なども興味深いですし、気さくにジョークを飛ばす新しい主人に戸惑い、もしやジョークを言うことも執事として求められているの仕事なのかと真剣に考えてしまうスティーヴンスの姿が楽しいです。慇懃でもったいぶっていて、少々頑固な古き良き英国の執事の姿が浮かび上がってきます。20数年前、ダーリントン・ホールに来客が多かった時期の回想では、第二次世界大戦前から戦時中に行われた会議のことも大きく語られます。世界的に重要な人物たちを招いた晩餐での、スティーヴンスの仕事振りはお見事。慌しい中で冷静沈着に全てを取り仕切り、そのプロ意識は、父親の死さえ看取ることを彼に許さないほど。回想ながらも、その緊迫感や、見事に仕事をやり遂げたスティーヴンスの高揚感が十分伝わってきます。そして一番面白かったのは、スティーヴンスとミス・ケントンのやりとり。最初はことごとく意見が対立し、冷ややかなやり取りをする2人ですが、かっかしている2人の姿も可愛いのです。
美しい田園風景が続いたドライブ、そして最後の夕暮れの中の桟橋の場面に、スティーヴンスの今までの人生が凝縮されて重ね合わせられているようです。最高の執事を目指し、プロであることを自分に厳しく求めすぎたあまり、結局人生における大切なものを失ってしまったスティーヴンス。老境に入り、些細なミスを犯すようになったスティーヴンスは、おそらく今の自分の姿を父親の姿とダブらせていたことでしょうね。今や孫もいるミス・ケントンに対して、自分はあとは老いるだけだということも…。もちろんスティーヴンスの中で美化され、真実から少しズレてしまっている出来事も色々とあるのでしょうけれど、無意識のうちにそうせざるを得なかったスティーヴンス自身に、イギリスという国の斜陽も重なってきます。第二次世界大戦後のアメリカの台頭とイギリスの没落。ダーリントン・ホールの今の持ち主もアメリカ人。こうなってみると、戦前に行われた重要会議でのやりとりが皮肉です。そして英国では最早、本物の執事が必要とされない時代になりつつあるのです。そんな中で「ジョークの技術を開発」するなどと言ってしまうスティーヴンスの姿が切ないながらも可笑しいですし、作者の視線がとても暖かく感じられます。


「浮世の画家」ハヤカワepi文庫(2007年4月読了)★★★★★

1948年10月。かつては名のある画家として尊敬を集め、多くの弟子に囲まれて一世を風靡しながらも、今は引退して、隠居生活を送っている小野益次。終戦を迎えて日本の状況は大きく変わり、戦時中の小野の行動が元で周囲の目は手を返したように冷たくなったのです。自宅である大きな屋敷で日々を送りながら、次女・紀子の縁談に気をもみ、長女節子やその夫・素一のからはかつての行動を咎めるようなことを言われ、小野は自らの過去を回想します。(「AN ARTIST OF THE FLOATING WORLD」飛田茂雄訳)

ウィットブレッド賞受賞作品。
「日の名残り」のような「信頼できない語り手」による物語。しかし「日の名残り」よりもこちらの方があからさまですね。「日の名残り」と同じように、語り手がかつてのことを回想しながら物語は進んでいき、もちろんその言葉をそのまま額面通りに受けとめることもできるのですが、もっとさりげなかった「日の名残り」に比べて、こちらではどうしても物事を自分に都合の良いように解釈し、記憶を改竄し、さりげなく自分の行動を正当化していこうとする部分が目につきます。周囲の人々との記憶の齟齬も読みどころ。読んでいる途中でこの小野益次という人物は痴呆症が入ってきているのかという疑いも持ったのですが、どうやらそうではないようですね。この思い込みは相当に強そうです。
何度も繰り返し、自分の社会的地位を十分に自覚したことなどない、自分は家柄など重視しないというように語るのですが、それが逆に小野の自負心を浮き彫りにしているようです。娘の紀子が破談されたのは相手の家との格の違いだと繰り返し語られますが、その本当の理由が小野の戦時中の行動にあることは明らか。そしてその事件が、予想以上に小野を傷つけていることもよく分かります。戦時中の小野は、確かに自分の行動に信念を持っていたのでしょうけれど、今はそれを正当化することでしか生きながらえていくことができなくなっているのです。そういった1人の男の悲哀がよく表されているように思います。この物語がもし彼の身近な人間、彼の行動をつぶさにみてきた人間の視点から語られたら、どれほど違うのでしょうね。全く違う物語になってしまいそうです。それを読んでみたくなります。


「充たされざる者」ハヤカワepi文庫(2008年11月読了)★★★★★

著名なピアニストのライダーは、長旅を終えてとある町に降り立ちます。ライダーの名前を聞いた途端に対応が丁重になるホテルのフロントマン。支配人のホフマンが<木曜日の夕べ>の準備で多忙なため、出迎えられなくて申し訳ないと何度も繰り返します。ホテルの談話室ではブロツキーという名の男がピアノを練習中。フロントマンによると、ブロツキーはその日の朝にオーケストラと4時間通してリハーサルをしており、とても順調とのこと。ライダーとポーターと一緒にエレベーターに乗り込んでいたヒルデ・シュトラットマンは、どうやらこの町にいる間のライダーのスケジュールを管理しているらしく、ライダーのこの町でのハードなスケジュールに不満はないかどうかライダーに確認します。しかしライダーはハードスケジュールどころか、実はまるでスケジュールを把握していないのです。どうやらこの町は何らかの危機に陥っており、町の人々はライダーに大きな期待をかけているようなのですが…。(「THE UNCONSOLED」古賀林幸訳)

どうやらイギリス出身で、ドイツの小さな町に演奏旅行に来たらしいピアニストのライダー。初めて訪れた町のはずなのに、話している相手の顔に見覚えがあるような気がしてきたり、実際にその人間のことを知っていたりします。町にはライダーの妻や息子まで...? そして時には昔の知り合いが現れることも。町の住民は皆一様に彼がライダーだと知ると大歓迎。みんながライダーと話したがりますし、先を競って丁重にもてなそうとします。しかし同時に丁重に厄介ごとも持ち込むのですね。そしてライダーがその場その場で相手に話を合わせているうちに、話はどんどんややこしくなっていきます。そもそもライダーは自分のスケジュールを全く把握していないどころか、演奏する曲も決めていないのです。世話役の女性が何か不満や疑問がないかライダーに確認しているのに、なぜか正直には言い出しにくい雰囲気。人々との会話の中で自分がスピーチをする予定だと知れば、素直にスピーチの内容を考え始め、会合が予定されていると知れば、場当たり的にですが、出席する方向で考えます。それよりもまず基本的なスケジュールの流れの把握が先決問題だろうと、読んでいる側は苛々するのですが、ライダーは人々との会話の中で自分が何をしなければいけないのかを探り、知ったことを順番に疑問も持たずに受け入れていきます。しかもこの世界はとにかく不条理ばかり。まるで夢の中にいる時のようです。「不思議の国のアリス」状態ですね。しかしライダーはその不条理をあまり気にしていません。その場その場でライダーが選び取る行動が、この世界での事実となって積み重なっていくような...。
「充たされざる者」なのはライダーのことなのかと思いきや、町の住民も揃って「充たされざる者」でした。しかも彼らのやり取りを読んでいる読者もまた、読んでる間に「充たされざる者」になってしまうのです。まるで他人の悪夢の中に紛れ込んでしまったような感覚の作品。読むのがしんどくなるほど長かったですが、面白かったです。訳者あとがきを読んで、マトリョーシカという言葉には納得。確かにその通りですね。


「遠い山なみの光」ハヤカワepi文庫(2006年3月読了)★★★★

今年の4月に末娘のニキが英国の田舎町に住んでいる悦子をロンドンから訪ねてきた時、話に出たのはニキの姉の景子のこと。景子は日本にいた時の夫との間の娘。しかし景子は少し前に、マンチェスターの自室で首を吊って自殺していました。そして悦子はふと、戦後間もない長崎にいた時期に親しくなった佐知子とその娘・万里子のことを思い出します。(「A PALE VIEW OF HILLS」小野寺健訳)

王立文学協会賞受賞作品。
悦子とニキの会話、そして悦子の回想によって物語は進んでいきます。長崎に住んでいたはずの悦子がなぜ今は英国に住んでいるのか、長崎に住んでいた時の夫・二郎との間に一体何が起きたのか、そして佐知子や万里子が悦子の人生に、本質的な意味でどのように関与しているのか分からないまま、悦子の回想は続いていきます。「景子は、ニキとはちがって純粋な日本人だった」という文章から、景子がおそらく二郎との間の娘であったこと、その後悦子が日本人ではない男性と再婚したこと、夫が娘に日本名をつけたがったという部分から、その男性が親日家らしいことだけは分かるのですが、再婚相手の男性が今どこでどうしているのかも分からないのです。どうやら今は家にいないようなのですが、生きているのでしょうか、亡くなっているのでしょうか。
謎があっても最後には解明される作品に慣れているので、この作品の謎のほとんどが結局分からないまま終わってしまい驚きました。確かに人が過去を回想する時、他人に分かるような説明的なものは一切ありません。そういう意味では、この回想はとてもリアル。しかし幼い頃に英国に渡り、そのまま帰化、日本語を外国語として育ったカズオ・イシグロ氏が、このような作品を書かれたということが驚きです。この作品には、はっきり言わなくても察して欲しいという、日本人ならではとも言える情緒が感じられるような気がします。
回想シーンを見る限り、悦子と佐知子はまるでタイプの違う女性。2人の会話はどこまでいっても噛み合いませんし、理解し合っているとは言いがたい状態。良き妻であり、数ヵ月後には良き母になろうとしている悦子と、あくまでも「女」である佐知子とは全く相容れません。しかし後から振り返ってみると、佐知子と万里子の関係は、悦子と景子の関係に重なるのです。佐知子と悦子の、当時は予想もしていなかった共通項は、結局「母」や「妻」であるよりも、「女」であることを選んだということ。それは結果的に景子の自殺という形となって現れ、悦子を苦しめていますし、ニキにも「わたしには初めからわかっていたのよ。初めから、こっちへ来ても景子は幸せになれないと思っていたの。それでも、わたしは連れてくる決心をしたのよ」と述懐しています。しかしまた過去のその時点に戻れたとしても、おそらく悦子は同じ選択をするのでしょうね。1人の女性の中に「母」であること、「妻」であること、「女」であることが上手く同居できれば良いのでしょうけれど、大抵はどれか1つに比重が傾きがちでしょうし、それが自分の本当の望みとは違っていた場合は…。
万里子はその後どうなったのでしょうね。語られていない部分が気になり、余韻を残す作品です。


「わたしたちが孤児だったころ」ハヤカワepi文庫(2006年6月読了)★★★★

イギリス人のクリストファー・バンクスは、上海の租界に生まれ、10歳になるまで両親と乳母のメイ・リーと共に上海の屋敷に暮らしていました。遊び相手は、隣家のアキラ・ヤマシタ。しかし10歳の時、貿易会社に勤めていた父が突然失踪し、続いてアヘン撲滅運動に熱心だった母も失踪。クリストファーはイギリスの伯母の元に送られ、寄宿学校である聖ダンスタン校に転校することに。両親を探すために探偵を志したクリストファーは、大学卒業後、探偵としてイギリスで数々の難事件を解決し、やがて名探偵としての名声を博すことになります。そして1937年の日中戦争のさなかの上海に戻ることになるのですが…。(「WHEN WE WERE ORPHANS」入江真佐子訳)

クリストファーの一人称による語りは、「日の名残り」の執事・スティーヴンスの語り以上に、どこか意図的なものを感じさせ、「信頼できない語り手」を思わせます。彼はいかに自分が寄宿学校の生活に順応し、すぐに他の少年たちのしぐさを完璧に身につけたか、いかに自分の感情を表に表さずに相手に対していたか強調するのですが、読んでいると、今にも足場が崩れそうな不安感があります。もちろんそれは意図的なものだったのでしょう。相手の意外な言葉に対して反論するクリストファーの姿が何回か描かれてており、作者の意図を裏付けているよう。クリストファーの記憶は実は、実は彼の中で巧妙に改竄されていたのではないか、と読者に疑わせます。そしてそのことが、クリストファーが無意識のうちに目を背けようとしている真実を暗示しているのでしょうね。
そして前半の上品で華麗なロンドン社交会の描写は、いつのまにか日中戦争の戦火へと移り変わり、前半では輝いて見えた人々も後半ではその光を失い、それまでクリストファーが無意識に目をつぶっていたと思われる真実が明らかにされていきます。クリストファーの記憶の中での巧妙な記憶の改竄は、やはり彼の自己防衛本能だったのでしょうね。何とも言えない哀切感が漂います。
クリストファーの両親はどうなったのか、フィリップおじさんは、アキラは、そしてそれらの一連の出来事に隠されていた真実とは、という部分はミステリ的でもありますし、戦火の上海をゆくクリストファーの行動はサスペンス的でもあります。しかしそれは単に物語の構造上の形式という印象。そういった要素を目当てに読むのはやめておいた方が無難かもしれません。


「わたしを離さないで」ハヤカワepi文庫(2008年10月読了)★★★★

キャシー・Hは31歳。もう11年も務めているというベテランの介護人。仕事は「提供者」と呼ばれる人々を世話すること。仕事がよく出来るのに2〜3年でやめされられる人もいれば、まるで役立たずなのに14年間働き通した人もいる中で、キャシーの仕事ぶりが気に入られていたのは確か。キャシーが介護した提供者たちの回復ぶりは、みな期待以上だったのです。6年ほど働いた時に介護する相手が選べるようになったキャシーは、親友のルースとトミー、そして自分が生まれ育った施設・ヘールシャムの仲間に再会することになります。そんなキャシーがヘールシャム時代のこと、そして16歳になってヘールシャムから卒業した後のことを回想していきます。(「NEVER LET ME GO」土屋政雄訳)

一見普通の生活に見える「ヘールシャム」の施設。しかしそこに「提供者」「介護人」といった言葉が忍び込み、どこか普通とは違うことを感じさせ、その予感が正しかったことが徐々に明らかになっていきます。それはまるで、ヘールシャムの生徒たちが大切なことを「教わっているようで、教わっていない」のと同じような状態。トミーの言う「何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ? その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」ということ。注意を違うことにひきつけておいて、その間に他の内容を忍び込ませるというのは、当たり前のことなのでしょうけれどすごいですね。そしてそれこそが、カズオ・イシグロの小説の書き方なのかもしれません。
キャシーの語る物語は終始押さえ気味。決して興奮したり激昂したりしません。しかし淡々とした語り口が逆に哀しく、そして予想しながらも見えてくる光景がとても怖いです。


「夜想曲集-音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」早川書房(2009年8月読了)★★★★

【老歌手】…早春のベネチア。カフェバンドも一週間前から戸外で演奏するようになっていました。そんなある朝、ヤネクは観光客に混じって座っているトニー・ガードナーを見かけます。
【降っても晴れても】…エミリとレイモンドが好きなのは、アメリカの古いブロードウェイソング。エミリのお気に入りはアップテンポの曲、レイは甘くほろ苦いバラードが好き。そしてエミリは、レイの親友のチャーリーと結婚し、レイモンドは夫婦の良き友となることに。
【モールバンヒルズ】…春はロンドンで過ごし、ギターを持って様々なオーディションに参加した「ぼく」。夏休みは4歳年上の姉・マギーの家へ行き、姉夫婦の経営するカフェを手伝うことに。
【夜想曲】…2日前までスティーブの部屋の隣に住んでいたのは、リンディ・ガードナー。お互いに高級ホテルの一室で、ボリス医師に包帯で顔をぐるぐる巻きにされていたのです。
【チェリスト】…昼食後、3回目の「ゴッドファーザー」を演奏している時に見つけたのは、チェロを弾くティボールの顔。その時、かつてティボールと出会った夏から7年も経っていると気づいた「私」は愕然とします。(「NOCTURNES」土屋政雄訳)

カズオ・イシグロ初の短篇集。しかし短篇集とは言っても、そこに描かれている主題はどれも同じ。カズオ・イシグロは、本書全体を5楽章からなる一曲として味わってもらうために、今回全て書き下ろしたのだそうです。「ぜひ五篇を一つのものとして味わってほしい」とのこと。
確かにこれは主題が繰り返し変奏され続けていく一編の音楽のような作品ですね。男と女の間にあること。そして人生の黄昏。頼まれごとを気軽に了承しながらも、どこか妙なものを感じる主人公たち。主人公に対して何かを隠し事をしつつ、頼みごとをする人々。副題に「音楽と夕暮れをめぐる」とありますが、ここでの「夕暮れ」は一日のうちの時間的なものだけでなく、もちろんその夕暮れもあるのですが、むしろ人生そのものにおける「夕暮れ」を意味しているのでしょう。そして登場人物たちは文字通り音楽を演奏したり聴くことを好んでいますが、ここでの音楽は、作品そのもの。ジャズやクラシックで1つのテーマが形を変えながら繰り返し登場するように、同じテーマが繰り返されてゆきます。
5編のうち、一番印象に残ったのは最初の「老歌手」。始まりはどうだったであれ、今は深く愛し合っている彼らの姿に感じるのは、まさに人生の黄昏。甘やかなほろ苦さと切ない哀しさ。そしてここに登場するリンディ・ガードナーは、表題作「夜想曲」にも登場するのです。5作品、どれもそれぞれに良かったのですが、私としてはこの2編が一番好きでした。

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