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このページは、奥泉光さんの本の感想のページです。

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「葦と百合」集英社文庫(2000年10月読了)★★★
1990年。この春から千葉県の外科病院に勤める予定の式根研次郎は、山形県の飯豊温泉にある教授の別荘に向かう3人の仲間と離れ、1人飯豊山麓にあるはずの「葦の会」へと向かいます。葦の会は、1959年に修道肇を指導者として千葉県に発足した自然との共生を目指すコミューン。式根の高校時代の同級生である時宗貴裕もここのメンバーで、式部自身も、大学1年の夏休みに当時付き合っていた鴻之池翔子と共に夏季実習研修に参加していたのです。しかしその研修が終わった時、翔子はそのまま葦の会に留まり、その後時宗と結婚。飯豊山麓の鬼音に新しく出来た共同農場へ移動したという手紙が式根に届いていました。しかし式根がいざ鬼音に着いてみると、葦の会のメンバーがいるはずの地には、人の気配が全くなかったのです。式根は地方の有力者である岩館氏の家に泊まり、翌日、同じく岩舘家に泊り込んでいたフリーカメラマンの草壁と共に葦の会の跡地に泊り込むことに。

奥泉さん御本人が、「ミステリーやら幻想小説やらメタフィクションやらの趣向を採り入れ」と語っている通り、一筋縄ではいかない作品。一体何が真実で、何が幻想だったのか、なんとも不思議な読後感を生む物語です。昔からの謎めいた伝承のある土地。そこで複数の人間が失踪し、殺人事件がおき、その謎を探る衛藤由紀子という女探偵志願が登場し、彼女の憧れの「虚無への供物」の奈々村久生をなぞらえるように、繰り返し推理が語られる… と、そこまでは確かにミステリですし、横溝正史の世界をも彷彿とさせます。しかしこの作品での一番のポイントは、見ている人間によって、物事がまるで違って見えているということでしょうか。1人の人間が確かに見ているものを、他の人間が見ることができない。そしてその人間が見ているものが、また別の人間には見えない。そのような現象は、本来ミステリでは存在し得ないもの。そもそもミステリとは、どれほど非理論的な出来事がおきても、最終的には理論的に解明されるべきものなのですから。ここまでミステリ的なお膳立てを整えた作者が、論理的な解明を与えられないはずがないと思うのですが、それを敢えてこのように混乱させた意図は一体何だったのでしょう。
式根が毒茸を食べたことによって、物語は現実なのか幻想なのか分からなくなり始めます。そして幻想へと行き過ぎてしまいそうになるたびに、誰かが現実に引き戻そうとします。しかしその「現実」とされるものが本当に現実なのかどうかも、読者には分からないのです。奥泉さんが感銘を受けたというアントニー・バークリーの「毒入りチョコレート事件」並みに、推理する人間の数だけ真実がある物語。この「葦と百合」には、読んだ人間の数だけ真実が存在するようです。肝心なのは、読む人それぞれが真実と思われるものを探り出すということなのでしょうか。
葦が、地に足のついた現実であるとすれば、百合は幻想の象徴なのでしょうか。それとも、葦でありたいという理想に対する、現実としての百合なのでしょうか。法月綸太郎さんは、解説の中で葦は「地下茎的リアリズム」、百合は「球根的ロマン主義」とされていますね。しかし文中で「腐った百合は雑草よりも臭い」と語られているのが意味深長。この言葉の持つ色々な意味を考えさせられます。

「鳥類学者のファンタジア」集英社文庫(2004年5月読了)★★★★★お気に入り
「柱の陰に熱心な聴き手がいる」ことを想像しながら演奏する36歳のジャズ・ピアニストのフォギーこと池永希梨子(芸名・池永霧子)は、国分寺のジャズ喫茶で演奏中、本当に柱の陰に何者かの気配を感じます。気配を感じることしかできない希梨子に対し、霊感の強い教え子の佐知子は、実際に黒い服の女性を目撃していました。そして、その日絶好調の波を感じた希梨子が、オリジナルの「Foggy's Mood」を演奏した時、希梨子にもその黒い服の女性がはっきりと見えたのです。店を出て行く女性の後を追った希梨子に、その女性は「ピュタゴラスの天体」「オルフェウスの音階」などの謎の言葉と、霧子という名前を残して霧の中に姿を消します。動揺する希梨子。しかしじきに、1944年にベルリンで行方不明となった、会ったことのない祖母・曾根崎霧子のことを思い出します。曾根崎霧子は少女時代、天才少女ピアニストとして名高かった女性。結婚して希梨子の父を生んだ後、出奔していたのです。希梨子と佐知子は、早速霧子のことを調べ始めます。そしてその夏、父の三回忌の法事に出席するために庄内へと向かった希梨子は、父の実家の土蔵で古いオルゴールを見つけた時、ナチスドイツが支配するドイツにタイムスリップすることに。

タイムスリップ物ということで、ジャンルとしてはSFファンタジーでいいのでしょうか。全編を通してジャズが流れつつ、「オルフェウスの音階」や「ピュタゴラスの天体」といった怪しげなモチーフが登場します。そして「ロンギヌスの槍」が登場する頃には、怪しさ全開。オカルト好きのナチスドイツという背景にあまりにもフィットしていて、読みながらワクワクしてしまいました。突拍子がないはずの「水晶宮」や「宇宙のオルガン」などの存在も、この作品の中ではごく自然に感じられてしまったほど。しかもフォギー視線の不思議な文章がまた、その雰囲気を盛り上げているのです。
そしてこの物語で一番驚かされたのが、タイムスリップした女主人公・希梨子の柔軟性と適応力、そして大らかさ。彼女にしても弟子の「佐知子ちゃん」にしても、2度と現代には帰れないかもしれないというのに、まるで暢気に現地での生活を謳歌しています。この気楽さがいいですね。元々ジャズというのは、クラシックという形式を大切にした世界の常識を打ち破り、さらに自由になることによって発展してきたジャンルだと思いますし、そんなジャズの世界でプロとして活躍している希梨子にとっては、これもまた1つのセッション、そして1つのピアノソロに過ぎなかったのかもしれませんね。物語自体の決着の付け方もいかにもジャズらしいもの。分からない部分が残ってしまっても、理詰めで説明してしまおうとしないところが良い感じ。それでいて、綺麗に着地したという印象もあるのです。ここまでエンターテイメントに徹していると、気持ちがいいですね。
そして、私がこの作品の中で一番好きだったのは、何と言っても最後のミントンズのシーン。ここは物語の筋としてはおまけのような場面ではあるのですが、ジャズを知っている人にはとても嬉しいサービス。特に「チュニジアの夜」の演奏シーンには思わず興奮してしまいました。このドライブ感が最高。一緒にミントンズの空間にいるような、息詰まる臨場感です。そして「--But not so bad.」の台詞が、あまりにかっこいいですね。希梨子と一緒になって感動してしまいました。ちなみにこの「鳥類学者のファンタジア」という題名は、チャーリー・パーカーの「鳥類学者」という曲から。
奥泉さんの「『吾輩は猫である』殺人事件」でも、光る猫について書かれているそうなので、そちらもぜひ読んでみたいものです。(しかし作中で作者自ら宣伝とは・笑)

「モーダルな事象」文藝春秋(2006年2月読了)★★★★
東大阪の生駒山の麓にある敷島学園麗華女子短期大学で日本近代文学を教えている、桑幸こと桑潟幸一助教授。芥川龍之介と太宰治を研究しながらも、なかなか芽が出ないまま、三流女子大で教える生活。そんなある日、京阪大学の山室啓太郎名誉教授が名誉会長を務める「日本語文学研究会」が「日本近代文学者総覧」という書物の出版企画の中心となったことで、桑幸も恩師・梅木教授を通じて「日本語文学研究会」に名を連ねていたことから、本の執筆に参加することになります。本当は太宰を狙っていた桑幸。しかし太宰を担当することになったのは、高澤樹江という若手研究者。桑幸は結局、23項目にも及ぶ執筆項目を誇ることになるものの、その半分は、長年文学を研究してきた桑幸ですら名前を聞いたことのないような人物ばかりでした。しかしその中の1人に、溝口俊平の名があったのです。そして数年後、「近代日本文学者総覧」を出版した研修館書房の猿渡幹男が、溝口俊平の遺稿を見つけたと、桑幸の元を訪れて…。

三流大学教授・桑幸と、ジャズ・シンガーのアキこと北川亜貴江とその元夫・諸橋倫敦の元夫婦(めおと)探偵の視点から交互に描かれていきます。アキは「鳥類学者のファンタジア」の主人公・フォギーの友達で、フォギーともよく一緒にセッションもしているので、フォギー自身も登場するのですが、彼女はほんの脇役。
桑幸のパートは伝奇的であり、元夫婦探偵のパートはミステリ。この2つの視点を比べると、桑幸の場面の方が断然面白かったです。MD世界心霊教会という新興宗教団体やアトランチィスのコインにロンギヌス、そしてフィボナッチの数列などのお馴染みのオカルティックなモチーフも登場しますし、マニアックなユーモアもたっぷりで、こちらが奥泉光さんの本領発揮と言えそう。「哀しく、切なく、でもほのぼの幸せなき持ちになれる」と世間一般で絶賛される絶賛される溝口俊平の童話集「明星のちかい」には、誰かが良い作品だと保証さえしてくれれば、何も考えずにベストセラーに飛びつき、とりあえず読んで安心する現代の人々への強烈な皮肉が含まれているようですね。桑幸本人は、見かけも中身も人並み以下で、本人が不満な割には敷島学園麗華女子短期大学という無名の大学に良く似合った俗物なのですが、なけなしの見栄を張っている様子などがとても微笑ましいです。「桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活」という副題なのに、スタイリッシュという言葉からこれほど遠い人物も珍しいというところが、また可笑しいのです。
それに対して、ミステリパートはやや退屈。ミステリ・マスターズというミステリ系叢書からの配本ということで、この部分が大きく書かれることになったのでしょうけれど、それにしても少し長すぎるのではないでしょうか。特に2章では何度も寝そうになりました…。この辺りを少し整理した方が、おそらく焦点の絞られた作品になったと思いますし、もっと奥泉さんらしい作品となったのではないかと思います。しかし最終章で桑幸と元夫婦探偵の視点がめまぐるしい移り変わり、クライマックスを迎える辺りは、やはりとても面白かったです。
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