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このページは、泉鏡花さんの本の感想のページです。

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「夜叉ヶ池・天守物語」岩波文庫(2005年11月読了)★★★★★お気に入り
【夜叉ヶ池】…越前国大野郡鹿見村琴弾谷。この地にはその昔、水害に苦しむ村人たちのために越の大徳泰澄が行力によって竜神を封じ込めたという伝説があり、一昼夜に三度ずつ金を撞かなければ、大雨、大雷、大風とともに夜叉ヶ池から津浪が起こり、竜神が村も里も水の底に葬ってしまうと言われていました。その鐘楼のある家を、山沢学円という旅の文学士が訪れます。その家に住んでいたのは地元の娘・百合と、一昨年の夏以来姿をくらましていた学円の親友の萩原晃。晃がこの地を訪れた丁度時、それまで鐘楼守だった老人が急死に、晃がその後を引き継いでいたのです。
【天守物語】…晩秋の播州姫路、白鷺城。天守の五重には、二代以前の当城主に襲われそうになって自害し果てた美しい夫人が魔のものとなり、その眷属たちと共に住んでいました。そこに五百里離れた猪苗代から、亀姫が遊びに訪れます。亀姫は、彼女の住む猪苗代亀ヶ城の主・武田衛門之介の生首を手土産にしており、それに対して富姫は白鷺城主の武田家の家宝の兜を用意していたのですが、それでは不足と、急遽武田播磨守秘蔵の白鷹を捕えて亀姫に与えることに。すると亀姫が帰った後で、主君秘蔵の鷹を逃がして不興を買った若き鷹匠・姫川図書之助が現れます。

どちらも戯曲ではありますが、意外と読みやすく、泉鏡花らしい艶やかで流麗な文章が魅力的。そして人間ではない、妖しいものたちの幽玄な世界が、一幅の絵巻物のように繰り広げられていきます。「天守物語」の富姫が、夜叉ヶ池の主・白雪姫を訪れたとある通り、2つの物語は繋がっており、白雪姫も富姫も痛ましい亡くなり方をして物の怪になっているという共通項があります。
色々と印象に残る場面がありますが、「夜叉ヶ池」で特に心に残ったのは、物の怪である白雪姫の方が村人との約束を律儀に守っていること。白雪姫は、本当は剣ヶ峰千蛇ヶ池の若君のところに行きたいのに、白雪姫にしても若君にしても、居場所を移すとそこの水が溢れることになるため、「ええ、怨めしい…」と言いつつも我慢しているのです。それなのに、人間の方が、浅はかな考えから古くからの約束を簡単に破ろうとするのが何とも皮肉。しかし一たび約束が破られると、洪水を察した人間は鐘を突いてくれと臆面もなく晃に頼み、一方、物の怪「一人も余さず尽く屠り殺す」のです。考えさせられてしまいますね。「夜叉ヶ池」の百合と晃が本当に幸せになれるのは、人間としての生を捨てて物の怪の眷属となってからですし、白雪姫も富姫も人間でいる時には敵わなかった恋を成就します。死んで初めて成就する恋。醜い俗世と、物の怪の美しい世界が対照的。鏡花はそれほど俗世に絶望していたのでしょうか。
「夜叉ヶ池」では、「鯉七」「蟹五郎」「鯖江太郎」「鯖波次郎」、「天守物語」では「桔梗」「萩」「女郎花」「葛」「撫子」と、それぞれの眷属の名も凝っていますね。雨乞いのために村人たちが夜叉ヶ池に色々な物を投げ込み、鯉七が迷惑がっている様子が可笑しかったです。

P.25「僕、そのものが一条(ひとくだり)の物語になった訳だ」

「春昼・春昼後刻」岩波文庫(2005年12月読了)★★★★★
【春昼】…ほかほかと暖かい春の日、久能谷の観音堂を訪ねた散策子は、1枚の懐紙の切端にすらすらとした女文字で、小野小町の歌と「玉脇みを」という名が書かれているのを見かけます。そんな散策子に出家は、その歌を書きとめた美女と、その美女に恋こがれて死んだ男の話をするのです。
【春昼後刻】…出家の庵を辞した散策子は、その帰り道に「みを」と出会うことに。行きがけに、蛇が家の中に入るのを見て、そこにいた親仁にそのことを散策子に礼が言いたいというのです。

眠気を誘うような春の昼下がり。菜種の花の真黄色、山裾の翠、青麦の畠、紅の日の光、春の海は真蒼な酒のよう、空は緑の油の様、と目にも鮮やかで、土も人肌に温かく、鶯や目白が囀っているという長閑な情景。「お爺さん、お爺さん。」「はあ、私けえ。」という冒頭のやりとりからも、ゆったりとした時間が流れているのが感じられます。しかしそこに出家の「一人殺した」という言葉が突然現れて、歩いている途中でいきなり現れた青大将や赤楝蛇のように、読者をぎょっとさせるのですね。一旦そうなってみると、出家の話に登場する艶やかで優しげな美女も、どこか不気味に感じられてくるのが不思議なほど。幻想の中で死んだはずの客人とその美女との間で、○△□などのモチーフが繋がった時。「春昼」と「春昼後刻」の境目が曖昧になり、2つの世界が互いに溶け合って重なっていくようです。
全てが終わって、最初から読み返してみると、読み始めた時はうららかで長閑だったはずの春の情景がやけに濃密に感じられてきます。

「泉鏡花短篇集 川村二郎編」岩波文庫(2005年11月読了)★★★★
【竜潭譚】…良く晴れた午後。1人家を出て満開の躑躅の道を行った千里。あまりの美しさに怖くなり、帰ろうとするのですが、じきに道に迷ってしまいます。探しに来た姉が千里を見つけるものの、毒虫がかすった千里の顔は変わり果て、姉も自分の弟とは分からず…。
【薬草取】…医科大学の学生・高坂光行は、医者の薬では治らない身内の病気のために薬草を取りに医王山へ。その途中麓の二俣村に住む花売りの娘に出会い、四季の花が一時に咲く美女ヶ原へと一緒に向かいます。
【二、三羽――十二、三羽】…引っ越すたびに「雀はどうしたろう」と言っていた祖母。いつも飯粒を小窓に載せて雀を可愛がっていたのです。そして特に雀に興味がなかった「私」も、妻がふとした拍子に庭で仔雀をつかまえたことから、しみじみ可愛らしくなることに。
【雛がたり】… 幼い頃に母が大切にしていた雛人形の思い出が、静岡の町を訪れた時の話になり、そして妖しい情景へと…。
【七宝の柱】…「私」は、毛越寺から平泉の中尊寺へ。国宝級の美術品を見て回ります。
【若菜のうち】…夫婦は春の修善寺へ。散歩の折、姉妹らしい女の子の2人連れに行き合います。そして秋の末、またしても修善寺を訪れた2人に同じような出来事が。
【栃の実】…福井から麻生津の橋を渡り、武生へ。少し前の洪水のため道が塞がり、栃木峠から中の河内を越すことになるのですが、体調が悪くなり、駕籠を頼むことに。
【貝の穴に河童のいる事】…印旛沼の河童の三郎が、馬蛤貝に隠れた時に太い洋杖で打って怪我をさせた別嬪の娘に仕返しをしたいと鎮守の姫神へと願い出ます。
【国貞えがく】…立田織次は、14、5年ぶりに平吉の元へ。学生時代に教科書を買うために売った母の形見の錦絵を買い戻してくれたのが平吉だったのです。

この中で一番印象に残ったのは、「竜潭譚」と「薬草取」。これは2編とも神隠し譚で、どちらも満開の花の情景が妖しくも美しいです。「竜潭譚」は、満開の躑躅。「行(ゆ)く方(かた)も躑躅(つつじ)なり。来(こ)し方(かた)も躑躅(つつじ)なり」 あまりに咲き誇っているので、土まで赤く見えてくるほど。しかし「竜潭譚」の躑躅が満開な様は、あまりに美しすぎて少し怖くも感じられます。躑躅の花は「七宝の柱」にも登場するのですが、こちらの表記は「つつじ」。それが薄ら寒い気候と良く合っていて、同じ花でもまるで違う雰囲気を醸し出していました。ちなみに斑猫(ハンミョウ)という虫は実在する毒虫で、「道教え」「道しるべ」とも呼ばれるのだそう。まさに異界への案内人となっていますね。そして「薬草取」も同じように満開の花の情景なのですが、こちらは四季折々の様々な花。躑躅に山吹、牡丹に芍薬、菊も桔梗も女郎花も朝顔も、野生で一斉に咲いているのです。そうなると、怖いというよりも幻想的な雰囲気が漂います。
「二、三羽――十二、三羽」は、一見エッセイのようで、雀たちの様子がとても可愛らしく、ことに初めて目にする月見草や卯の花を怖がってご飯を食べに来られなくなるというのが楽しく、ほのぼのと読み進めていたのですが、ふと気がつけば、いつの間にやら鏡花版「雀のお宿」に招かれていて驚きました。日常の生活の中にふと忍びこむ不思議ですね。「雛がたり」もエッセイ風。冒頭から過剰なほどの艶やかな色彩と美しさに圧倒されましたが、後半の、現実と幻想の一瞬の交錯が凄いです。雛壇の下に寝ていると雛の話し声が聞こえるというのも、あながち有り得ない話ではないような気がしてきます。
紀行文など現実的な作品が予想外に多かったため、その分少し物足りなさも残りましたが、相変わらずの幻想的で華麗な描写が、やはり美しかったです。

「高野聖・眉かくしの霊」岩波文庫(2005年11月読了)★★★★★
【高野聖】…名古屋で同じ一折の鮨を求めたことがきっかけで道連れになった旅僧が語った物語。それは僧が飛騨の山越をして松本へと向かった時の物語。天生峠というの辺りで幾度となく大蛇に遭遇し、森の中では蛭の群れに襲われた僧は、やっとの思いで森を抜け、疲れきった身体で一軒の山家を通りがかります。そこにいたのは22〜3歳ほどの白痴の少年と美しい婦人。もうこれ以上歩けないと、僧はその家に泊めてもらうことに。
【眉かくしの霊】…霜月の半ば。木曾の桟橋、寝覚の床などを見物するつもりで上松までの切符を持っていた境賛吉は、ふと木曾街道の奈良井の駅で泊まりたくなり、侘しそうな旅籠屋を選んで入ることに。その宿はなかなか良く、夕食にこの辺りで佳品と評判の鶫の丸焼きを食べた彼はご機嫌に。しかし湯に入ろうとした時、無人のはずのその湯には女性の人影が…。

「高野聖」のように美女の姿をした妖怪に誘惑され、徳の高い僧がそれを退けるという物語は、それほど珍しくなく、中国の妖怪譚や上田秋成の「雨月物語」にもありますが、やはりこれは泉鏡花の世界にぴったりですね。幻想的で、しかも艶っぽい魅力。山の中で遭遇した大蛇や、森を抜けている時の蛭の大群などがとても不気味だからこそ、その後の水辺のシーンが一層生きてくるのでしょう。「可い工合に身に染みる」水、「それから両方の肩から、背、横腹、臀、さらさら水をかけてはさすってくれる」婦人、そして「うとうとする様子で、疵の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合」…という表現が、何とも言えずエロティック。しかしこの表現だと恋人というよりはむしろ、母親のようなイメージでもありました。そして全てが終わってみると、夢を見ていたような気さえしてきます。
「眉かくしの霊」で堺の前に登場する物の怪は、柳橋の芸者お艶。元々美しいにも関わらず、「桔梗ヶ池の美しい奥様」に憧れて眉を落としてしまったせいで、物の怪と間違えた猟師に撃たれ、自分も物の怪となってしまうことに。最後の「似合いますか」が効いています。しかしこちらの作品は、「高野聖」ほどには惹きこまれなかったです。

「海神別荘 他二篇」岩波文庫(2005年12月読了)★★★★★
【海神別荘】…わたつみの財宝と引き換えに、海底へと捧げられた1人の美女。竜宮の若き公子は彼女の輿入れを待ち望んでいました。美女は自分が死ぬのではなく、海底で豪奢な暮らしを出来ることに喜ぶのですが、どうしても父親に自分が生きていることを伝えたいというのです。
【山吹】…料亭の娘から小糸川子爵夫人となったお縫。しかし姑や小姑の仕打ちに耐え切れず、家出して修善寺まで逃げ出すことに。そこには以前実家の料亭で見かけていた洋画家・島津正がいました。しかしお縫は既に死ぬ決意を固めていたのです。
【多神教】…美濃と三河の国境の山中の社に、大阪で俳優をしている男を呪い殺すために丑の刻参りをしていたお沢。しかしまさに満願のその日に、うっかり懐から金鎚や五寸釘を落としてしまい、神職や禰宜らにとがめられることに。

やはり鏡花の戯曲は読みやすいです。特に「海神別荘」は、「夜叉ヶ池」「天守物語」と共に3大戯曲とされているのだそう。海底の世界の豪華絢爛な美しさが絶品ですね。ここに登場する若い公子はどうやら「浦島太郎」に登場する乙姫の弟らしく、この物語は「浦島太郎」の女性版となっています。父親に元気な姿を見せたいと思う美女は、玉手箱こそ渡されないのですが、人間の目には美女の姿そのままには見えない… というなかなかシビアな結末。「山吹」は、あまり泉鏡花らしさを感じることができなかった作品。むしろ谷潤一郎的な雰囲気ですね。「山吹」は、媛神が神職や禰宜の言うことを聞き入れようとはせず、逆に同じ女性であるお沢の味方をするというところが面白かったです。毎日祈り奉っているのにと訴える神職に、「私は些とも頼みはしません。こころざしは受けますが、三宝にのったものは、あとで、食べるのは、あなた方ではありませんか」という言葉がいいですね。

「鏡花百物語集-文豪怪談傑作選特別篇」ちくま文庫(2009年9月読了)★★★★
大正から昭和初期にかけては、怪談文芸の黄金時期。その時代に「妖怪(おばけ)の隊長」と呼ばれた泉鏡花と名だたる文人墨客・名優たちが中心となり、百物語怪談会が繰り返し催されることになったのだそう。この本はその会の模様、そこで語られた数々の怪談と、そこから誕生した怪談小説や随筆作品を1冊にまとめたもの。

泉鏡花の名前に惹かれて読んだ本なのですが、これは一昨年刊行の特別編「百物語怪談会-文豪怪談傑作選・特別篇」の続編ともいえる本なのだそうです。「百物語怪談会-文豪怪談傑作選・特別篇」は、やはり鏡花を中心とする顔ぶれによる怪談会のアンソロジーで、明治末期に開かれたもの。そしてこちらは大正から昭和にかけて。
怪談会のメンバーは、泉鏡花、松崎天民、平山蘆江、久保田万太郎、長谷川伸、芥川龍之介、菊池寛、柳田國夫、里見ク、長谷川時雨などなど。今では考えられない豪華メンバーによる怪談会は、意外と言っていいほど面白く、それらの模様が新聞や雑誌で詳報されたというのも納得できるレベルの高さ。
特に印象に残ったのは、妖怪好きの新派俳優・喜多村緑郎の語る悲恋話でしょうか。2つの話が双子のように感じられるのですが、これは本当に2つの違う話だったのでしょうか。それとも語っていくうちに変化したのでしょうか。この話は泉鏡花にも感銘を与えたようで、「浮舟」という作品にも仕立てられて、この本に収められています。誰が語る話も、文章として読んでしまうとごく短い話なのですが、本職の小説家はもちろん、それ以外の人々もとても語り上手ですね。そして芥川龍之介や柳田國夫も参加している怪談会実録。これが本当に面白いのです。この時代の怪談は今のホラーとは違い、相手を怖がらせるだけが主眼ではなかったということなのでしょうか。ただ「怖い」のではなく、そこはかとない幻想味を感じさせたり、郷愁を漂わせたり、どこか和やかな趣きがありますね。語り手も楽しんで語っていますし、聞き手の側もそんな出来事があったのかと、話を楽しもうという姿勢が、読んでいてまた楽しい一因なのかもしれません。しかしそうですか、死神や厄病神らしき姿を見た時は、頑張って睨みつけてやらないといけないのですね。心しておきます。
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