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このページは、いしいしんじさんの本の感想のページです。

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「ぶらんこ乗り」理論社(2003年7月読了)★★★★

高校から帰ってきた「私」は、おばあちゃんが見つけた古いノートの束を渡されます。それは弟が4歳の頃から色々なことを書きとめていたノート。小さい頃からずば抜けて頭が良かった弟は、絵本はもちろん大人向けの本まで片っ端から読み、時には祖母の元に届いた外国の本をも眺め、周囲から天才児だともてはやされていたのです。その頃から弟は、自分でも物語を作るようになっていました。そして5歳の時に見に行ったサーカスの空中ぶらんこに夢中になり、庭に父さんにブランコを作ってもらうほどブランコにのめりこむほどに。しかし小学生になり、学校のぶらんこに乗っている時、弟は「川のおばけ」が襲われて声を失ってしまうのです。

今はいないという「弟」の残したノートを見ながらの回想。ノートには弟の日記や小さな物語がたくさん書かれています。サーカスの空中ブランコ乗りの夫婦の話が最高ですし、ユーカリ中毒のコアラの話なども面白く、部分的にはとてもいいなと思いながらも、しかし実は途中まではどうしても物語の中に入り込めませんでした。弟の書く物語が平仮名ばかりで読みにくかったせいなのか、それともそれらの物語の真意が掴めなかったせいなのか、それとも水彩画のように柔らかい雰囲気の中に思いがけない残酷さを感じてしまうからなのか… ストーリーとしてはそれほど複雑ではないはずなのに、なぜか頭の中にすんなりと入ってきてくれなかったのです。
それがおばあちゃんがはしごを上ってくる辺りから、一気にストンと入れるようになりました。今や昔の出来事が次々と色々な角度から語られ、それまでは今ひとつ存在感を感じていなかった父さんも母さんもおばあちゃんも、一気に身近に感じられるようになりました。このはがきの場面がとてもいいですね。
読み終わってみると、いいなと思ったりよく分からないと思ったり、読みながら感じるそういう気持ちの揺れ動きもまた、まるでぶらんこのようだったなと思えてきました。ぶらんこが交差する「あっち側」と「こっち側」というのは、まるで現実の世界と夢の世界のよう。ふと、本当に弟は存在したのかなどと考えてしまったのですが… やはり実在はするのでしょうね。一度いいなと思ってからは、何度となくページを繰ってしまいます。なんとも後をひく、不思議な感覚を残す物語でした。

P.31「ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでもこうして」 「おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなこととおもうんだよ」


「トリツカレ男」ビリケン出版(2004年11月読了)★★★★★お気に入り

一度何かに取り付かれてしまうと尋常ではない勢いで取り付かれてしまい、数ヶ月間、他のことには一切気が向かなくなってしまうため、「トリツカレ男」と呼ばれているジュゼッペ。ある春の朝、ラジオから聞こえてきたオペラに取り付かれたかと思うと、夏の終わり頃には、空き地にいたバッタを見て三段跳びに取り付かれ、今度は探偵ごっこに取り付かれてしまうのです。そのジュゼッペが、ある秋晴れの日に公園で出会った風船売りの女の子・ペチカに取り付かれて…。

いしいしんじさんの本も4冊目。どの作品もそれぞれにとても良い話ではあるものの、しかしどこか遠いものを感じることもあったのですが、この作品は違いました。今までに読んだ4冊の中で、一番好きです。まるで、子供の頃大好きだった海外ファンタジーを読んでいるような印象。優しくて懐かしくて、読んでいるだけで嬉しくなってしまうような作品です。特別似ているわけではないのですが、この作品を読んでいる間ずっと、私はカレル・チャペックの「長い長いお医者さんの話」を思い出していました。
あまりに純粋で誠実で真っ直ぐなジュゼッペの姿が切ないながらも、とても暖かくて、読んでいると心の中が、ペチカが焼きたいと思っているパンの湯気のようにほかほかしてしまいますし、その幸せな気持ちがパンの湯気のようにそこらじゅうに広まって、一緒にいる人も幸せにしてくれそう。「取り付かれる」と言うと、あまりいいニュアンスに感じられない言葉なのですが、本気で何かに夢中になることは、とても素敵なことですよね。今まで様々なものに無駄に取り付かれてきたように見えたジュゼッペですが、ペチカの笑顔のために、そこで得たものを色々と生かせたという展開も好きです。ツイスト親分やハツカネズミ、ペチカのお母さんもいい味を出していますね。


「麦ふみクーツェ」理論社(2003年7月読了)★★★★★

石畳の敷かれた港町で育った「ぼく」が初めてクーツェに出会ったのは、真夏の蒸し暑い夜のこと。夜中に目を覚ますと、両隣のベッドには「父さん」も「おじいちゃん」もおらず、「ぼく」はうちの中に1人きり。思わずシーツの中にもぐりこんだ「ぼく」の耳に、どこからか「とん、たたん」という音が聞こえてきます。シーツから頭を出してみると、部屋には光が満ち溢れ、窓の外には見たこともないような黄色くだだっ広い土地が広がっていました。そして玄関先では、全身黄色の変てこな身なりをした人間がうつむいたまま、やたらと大きな黒い革靴で足元の黄色い土を踏んでいたのです。それがクーツェ。その情景自体は夢だったものの、それからというもの「ぼく」のベッドの丁度真上の天井裏には、常にワインボトル大のクーツェがおり、「とん、たたん」と足ぶみを続けることに。

第18回坪田譲治文学賞受賞作品。
舞台はどこかの港町。日本ではなく、外国のような雰囲気。ねこの鳴きまねが上手い「ぼく」のことや街の吹奏楽団の活躍、海鳥をぎっしりと乗せた一艘の漁船の入港、大量に降ってきたねずみの雨、その後の街の人々の音痴騒動、口の上手いセールスマンのことなど、色々なエピソードが雑多に詰め込まれている、おもちゃ箱のような作品。そこに登場するおじーちゃんに父さん、用務員さん、郵便局長さん、ちょうちょおじさんたちなども、決してかっこいいとは言えないですし、むしろ壊れかけているおもちゃのように「へんてこ」なのですが、とても味わい深いです。そしてそれらの様々なモチーフを結び付けているのは音楽。物語の中心には常に音楽が存在し、全てを1つに繋ぎ合わせ、登場人物を暖かく彩っているようです。もちろん明るく暖かいモチーフだけではありません。体の大きすぎる「ぼく」は同年代の友達に馴染めないですし、凄惨な死もあれば天災もあり、売春宿や娼婦も登場します。騙す人間もいれば騙される人間もいて、事故で盲目になったり、成長が止まっていたりする人も。しかしまさにそれが、「いい悪いってことはないよ、麦ふみするのに」ということなのでしょう。そしてその麦の象徴として存在するのが「ぼく」なのですね。
児童書のような形態ですが、この作品は子供より大人の方が楽しめるのではないでしょうか。もちろん子供が読んでも楽しめるとは思うのですが、子供の時代に読む子供の物語というよりも、大人になってから子供の頃を懐かしみながら読む物語のような気がします。どこか宮崎駿のアニメの世界にも共通するような…。
「なぐりあうこどものためのファンファーレ」「すべてはてこところのおかげ」「なげく恐竜のためのセレナーデ」「赤い犬と芽のみえないボクサーのワルツ」などの曲の題名も素敵です。音楽を聴くのももちろん楽しいことですが、合奏することの楽しさを思い出させてくれますね。読んでいると無性に合奏したくなってしまいました。…生きていくということ自体、合奏するのと同じようなことなのかもしれませんね。

P.161「ぼくがおもうに、一流の音楽家っていうのは、音の先にひろがるひどい風景のなかから、たったひとつでもいい、かすかに鳴ってるきれいな音をひろいあげ、ぼくたちの耳におおきく、とてつもなくおおきくひびかせてくれる、そういう技術をもったひとのことだよ」


「プラネタリウムのふたご」講談社(2003年9月読了)★★★

秋ふかいプラネタリウム。午後4時の投影が始まって間もなく響き渡ったのは、赤ん坊の泣き声。椅子の下にふたごの赤ん坊が置き去りにされていたのです。「泣き男」と呼ばれているプラネタリウムの解説員が仕方なく赤ん坊を家に連れて帰ることになるのですが、翌朝、村のはずれで赤ん坊の母親らしき女性の死体が発見され、ふたごはそのまま泣き男に引き取られることになります。その2人についた名前は、テンペルとタットル。泣き男がテンペルタットル彗星について話していた時に泣き出したことからついた名前でした。毎日泣き男の星の解説を聞きながらすくすくと育つふたご。2人は14歳の夏に郵便配達の仕事を始め、工場と小学校、プラネタリウム、そして村はずれに住む目の見えない老女の家に手紙を配ってまわります。そんな頃、村にやってきたのは、魔術師テオ一座の興行。華麗な手品に2人は夢中になります。

これまでのいしいさんの作品同様、どこか知らない国の知らない場所を舞台としたような物語。今回の主役は、美しい銀髪のふたご、テンペルとタットル。泣き男に育てられ、ずっと一緒に過ごしてきた2人は、14歳の時、唐突に全く違う道を歩みだすことになります。1人は手品師として、もう1人はプラネタリウムの星の語り部として。…この2つの進路は一見まるで違ったもののようにも見えるのですが、しかし実は大きな共通点があるのですね。それは手品もプラネタリウムも、決して現実ではない作り物の世界であり、しかしその作り物によって、見る人々にこの上ない幸せを作り出すということ。大切なのはそれが本物か偽物かということではなく、いかに心の底から本気で作り上げるかということ。そして見る側がいかに気持ちよくだまされるかということ…。だます側だまされる側、双方の認識があってこそ、作り上げられる幸せな瞬間です。「フラッシュのひとたきでプラネタリウムの魔法は無残にとけ」てしまいますし、手品師の昼間のテントを覗くのもマナー違反。
ただ、所々よく分からないまま残ってしまった部分がありました。例えば村を出て行った時のテンペルのこと、例えば「栓抜き」は、なぜそんなことをしなければならなかったのかということ。感覚のままに素直に受け止めるべき物語なのだろうとは思うのですが、やはりどうにも気になります。そして読後、私の中に残ったのはなんとも言えない哀しさ。切なかったです。しかし包み込むようなプラネタリウムの夜空の情景がとても素敵な物語です。

P.319「ひょっとしたら、より多くだまされるほど、ひとってしあわせなんじゃないんだろうか」


「絵描きの植田さん」新潮文庫(2008年1月読了)★★★★★

2年前、1匹の家ねずみ起こした事故のせいで耳がほとんど聞こえなくなり、恋人も失ってしまった絵描きの植田さんは3ヵ月後、画材一式とわずかな着替えを携えて、都会から遠く離れた高原の一軒家に引っ越すことに。

雪景色に包まれた、とても静かな物語。植田さんと高原の町の人たち、そしてイルマとメリ親娘の交流が、静かに描かれていきます。耳のほとんど聞こえない植田さんの日々は、鳥のさえずりも聞こえないとても静かなもの。私には、植田さんがそれほど心を閉ざしているようには思えなかったのですが、それでも高原の小屋での孤独な生活を居心地良く感じているのは確か。「自分はずいぶん長く、この世の物音をきこうとしてこなかったのかもしれない。耳が悪くなっただけじゃない、みずから耳をふさぎ、かたく身をちぢめ、音を遠ざけていたんだ。それはまた、自分で音を出さずにいる、ということでもある。ちょうど冬の山奥でかたく凍りついた岩のように」という言葉がとても印象に残ります。事故の後も絵を描き続けていた植田さんですが、オシダさんやメリとの交流によって、それまで雪のように真っ白だったキャンバスが少しずつ色づいてくるようですね。そして途中で挿入される植田さんの描いた絵は、植田真さんという方が描いた絵。この植田真さんが本当にこの物語の植田さんなのかと思ってしまいそうになるほど、絵の雰囲気が物語の雰囲気に良く合っていて、絵を見ながらメリと同じ気持ちになれたような気がしたほど。この場面で次々に挿入される絵の数々は、植田さんの感情が久しぶりにほとばしり出たような印象ですね。
メリとオシダさんが一緒に植田さんの作品ファイルを見ている場面、窪地の「ばけもの」を見に行く場面、凍結した湖でのスケートの場面、火祭りの場面… それぞれの場面がとても印象的で、情景が鮮やかに浮かびます。そして火祭りでの山の神への人々の祈りの言葉の素朴で暖かいこと。横領事件やイジメ問題が絶えない「向こう側」とは、まるで別天地のようですね。

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