Livre TOP≫HOME≫
Livre

このページは、青山南さんの本の感想のページです。

line
「ピーターとペーターの狭間で」本の雑誌社(2006年6月読了)★★★★

ジョン・アーヴィングの作品は、今では「ガープの世界」という題名で本やビデオが並んでいますが、この題名で定着するまでには紆余曲折がありました。村上春樹氏は「ガープ的世界の成り立ち」、青山南氏は「ガープが世界を見れば」、斉藤英治氏は「ガープ的世界」、そのほかにも「世界、ガープ発」「ガープによる世界」「ガープによる世界解釈」など、様々な題名が登場し、静かながらも苛烈なる戦いを繰り広げていたのです… という「ガープ戦史」など、青山さんの日々の翻訳の仕事を通して描く裏話エッセイ集。

この本が最初に出版されたのは1987年なのですが、最初の「失語症で何が悪い」が「本の雑誌」に発表されたのが1981年2月。今から25年ほど前のエッセイということになります。ということで、「翻訳家という楽天家たち」に比べると、どうしても話題がやや古く感じられてしまうのが難点だったのですが、それでもやはり翻訳という仕事や作家をめぐるあれこれは面白かったです。
例えば、冒頭の「失語症で何が悪い」は、5つも6つも続く「Hi」をどうやって訳すかというエピソード。たまに出てくる「Hi」なら、「やあ」でも「よお」でも「こんにちわ」でもいけますが、この時訳していた本の登場人物たちは失語症でボキャブラリーが貧困、「Hi」が5つも6つも続けて登場していたのだそうです。全部おなじ言葉に統一するのも味気ないと感じた青山さんは、結局「やあ」「おやっ」「なんだい」「よお」「へえ」「ケェッ」、最後の合唱はみんなまとめて「参ったね」と訳してしまったとのこと。確かに「やあ」が5つも6つも並んでは、読んでいる側も食傷してしまいますし、実際に別人格の人間が話している以上、それはありません。しかし英語としての文章は、あくまでも「Hi」。翻訳には、そういうセンスも求められるのですね。「やあ」のバリエーションや、最後の「Hi」を「参ったね」と訳してしまうセンスが楽しいです。他にも色々と興味深いエピソードが色々とあったのですが、私もリチャード・ブローティガンの「愛のゆくえ」はとても面白く読んだので、「ブローティガン釣り」や「翻訳書のタイトルについて」は、特に楽しく読めました。実際「愛のゆくえ」という題名はどうかと思っていたので、青山南さんの意見には全くの同感。この題名では、人にオススメしづらいですし、そもそも売れるとは思えないのですが、どうなのでしょう。しかしこの題名を元々出したのは新潮社だそうですが、最近出たハヤカワepi文庫版の題名も、同じく「愛のゆくえ」。既にすっかり定着してしまったのでしょうか。そしてボリス・ヴィアンの「日々の泡」と「うたかたの日々」は未だにどちらも健在ですが、今後どうなるのか楽しみですね。(という私も「日々の泡」の方が好きです) 
中には、村上春樹氏の「風の歌を聴け」に登場するデレク・ハートフィールドに関するエピソードも。ハートフィールドは、架空の人物ですよね? 青山さんにすっかり騙されそうになりました。


「外人のTOKYO暮らし」朝日文庫(2006年6月読了)★★★★

カリブ海の西インド諸島出身の黒人モデル・テリ・コールマン、西荻窪で古本屋を開いたリチャード・トッド、ボート・ピープルとしてベトナムを出国、今はベトナム料理店を営むトラン・ティ・ディェップなど、東京で暮らす外国人15人に青山南さんがインタビュー。

東京にいる外国人を取材するという上で、青山南さんがつけた条件は、フリーランサーであり、30〜40代だということ。フリーランサーであるということは、自分の意思で東京にいるということと。30〜40代だということは、自分なりの人生観を作り始めた年齢だということです。そして青山さんがこれらの人々に取材したのは1987年からおよそ2年。日本はバブル景気に湧く頃であり、外国人たちが経済的にも稼ぎやすかった時期。日本にそれほど思い入れのなかった人々は、当然バブルがはじけて暮らしにくくなった日本にいる必然性もなく、文庫版あとがきでも、今はもうこの半分も東京にいないとありました。
ここに登場する人々の話を読んでいると、日本に生まれて日本で育ち、日本の教育を受けた人間の窮屈さが実感させられて、自分たちの嗅覚に従って暮らしやすい国に移っていく人々のフットワークの軽さが少し羨ましくなってしまいます。もちろん外国でも一生自分の国だけで暮らす人は多いはずですし、日本に生まれたからといって、日本から出て行きにくいわけではないのですが、それでも例えば英語圏の人間に比べれば、言葉の壁が日本人とは桁違いに薄いはず。英語圏の人々にとっては英語を使えれば意思の疎通ができる国は多いですが、日本は一歩国を出た途端に外国語を使う必要に迫られるのですから。しかも島国だけあって、日頃から外国語に親しんでいる人間も少ないはず。江戸時代の鎖国が終わっても、やはり日本人にとって、外国で暮らすという行動には、依然として高いハードルがあるのではないかと思います。もちろん言葉の問題は些細なことに過ぎませんし、本気で国を出るつもりになれば、特に難しいことなどないはずなのですが…。1つの国に暮らし続けることにも、気軽に移り住んでいくことにも、それぞれの幸せがあるでしょうし、隣の芝生が青く見えるだけなのかもしれませんね。


「翻訳家という楽天家たち」ちくま文庫(2006年5月読了)★★★★★お気に入り

現代アメリカ文学を訳してらっしゃるという青山南さんのエッセイ集。翻訳そのものにまつわるエピソードもあれば、作家の話もあり、ゴシップあり、アメリカン・ポップカルチャーの話題などもあり、盛りだくさんです。

色々と興味深い話があったのですが、その中でも特に印象に残ったのは、かつて速読者「スピーダー」だったウィリアム・H・ギャスについての話題。速読者にとって、速読とは田園の中をサイクリングで快走していくようなものだったのですね。そして、「『速読者は、名人が魚をさばくみたいに、本をさばく。エラは捨て、尾も、ウロコも、ヒレも捨てる。たちまちのうちに骨のない切り身がずらりと並ぶ』 その点、遅読者はエラとか尾とかウロコとかヒレばっかながめている、とギャスは言う。うーん、その通りだ。まったく。そういえばあら煮も好きだし。」という言葉がとても印象に残りました。これも言われてみると納得。私も読むのは速い方ですが(速読者ほどではありませんけれど)、最初の1回目の読み方はギャスの言うような感じです。そして尾やウロコやヒレやあらをゆっくり楽しめるようになるのは2回目以降。
その他にも面白い話題が色々とありました。名前の表記をめぐる論争についての話や、実際に来日したアン・ビーティに「変な質問ですが、御自分の名前を言ってみてください」という質問があったというエピソード。チェコ語が分からないという翻訳者に、クンデラが「じゃあ、どうやって翻訳したの?」と聞くと、「こころ、です」という答えが即座に返ってきて、「かれとはとても気が合ったので、わたしはあやうく、こころのテレパシーかなにかで翻訳することも可能なのかもしれない、と信じそうになった」というエピソード。カナダの作家・モーデカイ・リッチラーに来た翻訳者からの質問状と、それを読んだ青山さんの感想。そしてロレンス・ダレルの翻訳をやっていた富士川義之氏が、どうしても分からない文章についてダレルに問い合わせた時、「分からないところは飛ばせ」という返事が来たというエピソード。その話を発展させて、「あなたの本のなかで分からないところを飛ばしてもいいですか?」という質問にアメリカの作家たちがどう答えるかの予想(コメント付き)などなど。
読むのも翻訳するのも遅くて苦労しているように書いてらっしゃる青山南さんですが、この文章を読んでいると、翻訳家という仕事が本当に楽しそうに見えてきます。この本の中にも、昨今の日本の翻訳業界には「英語が好きなんで、翻訳でもやろうと思うんですが」と主婦の再就職的にこの仕事を選ぶ人が多いとあったのですが、この本によってさらに増えてしまうのではないでしょうか。しかし、楽天家の方が翻訳という仕事には向いているようですが、それは元々がとても神経を使う細かい作業で、あまりきっちりとした、失敗を気に病むような性格だと続かないというようなことなのでしょうね。


「大事なことは、ぜーんぶ娘たちに教わった」毎日新聞社(2008年7月読了)★★★★

翻訳家の青山南さんの奥様は、フリーのライター。お2人に百合子ちゃんと日出子ちゃんという2人のお子さんが出来て、時間が自由になる青山南さんも子育てに参戦したという子育てエッセイ。巻末にはピアニストの伊藤エイミーまどか・正敏夫妻、絵本作家の五味太郎、NHKの「おかあさんといっしょ」の歌のお兄さんだった坂田おさむ、清水國明さんとの対談、一般人の悩み相談室も。

プロローグの「夕日をながめるぜいたく」が面白いです。「ひとりの男とひとりの女がひっそりと暮らしている空間に赤んぼが出現したらどういうことになるか?」という文章から始まるのですが、実感がこもっていますね。まず部屋が狭くなる… 赤んぼの寝る布団が家の中の一番良い場所にあるため、狭い部屋はますます狭くなり、赤んぼを踏みつけないため、自由に歩けなくなる… 数ヶ月過ぎてそれにも慣れた頃、赤んぼは右に左に動きだしてさらに狭くなるのですが、狭い部屋にも既に慣れてきているので、さらに狭くなったことには無自覚になってしまう… そして寝返りという、さらに部屋が狭くなる日を心待ちにするようにさえなる…。
世の中、主夫も徐々に増えているようですが、一般的な会社勤めをしている人にはやはりある程度以上子育ての時間を作り出すのは無理。少し妻の手伝いをしたり、休日に子供の相手をした程度で、子育てを積極的にこなしていると思う男性も多いかもしれません。しかし翻訳家という時間の自由になる仕事の青山南さんは子育てに正面から向き合っていて、すっかり子育てをするお父さんとなっているのが微笑ましいです。ご本人はすぐヒステリーを起こすようなことを書かれていますが、きっと娘さんたちの自慢のお父さんなのでしょうね。


「小説はゴシップが楽しい」晶文社(2008年7月読了)★★★

ゴシップというと下世話な噂話を想像してしまいますが、この本はそういった興味本位の噂話の本ではなく、作品や作家、出版業界をめぐる様々な話題のこと。「小説そのものも楽しいが、その周辺のことを知るともっと楽しい」という本です。作品が生まれた裏事情や作家の辿ってきた道など、本を読んでいるだけでは分からない部分をテーマにすることを通して、1980年のアメリカ小説を概観します。

エッセイとしては読みやすいのですが、私はあまりアメリカ小説を読んでいないので、その辺りが少しネックになってしまったようです。もちろん知らなくても興味深く読める部分は沢山あります。たとえば映画「わが心のボルチモア」の毎年繰り返される感謝祭のシーンから、ユダヤ人が登場する他の作品に話が流れていく「感謝祭の七面鳥」の章や、映画を観てから原作を読んで驚いたという「ノラの映画とメグの小説」の章、ウィリアム・ギャディスとウィリアム・ギャスという2人の作家の名前が取り違えられる「ギャスの作品か、ギャディスの作品か?」の章などはとても面白く読めたのですが… 部分的にはとても楽しめても、私の方に十分な知識がないために、あまり実感として迫ってこない部分が多々ありました。実際、ポール・オースターのようにある程度読んでいる作家のエピソードに関してはとても面白く読めたので、もっと色々知っていれば、もっと楽しめたのでしょう。
そんな私にとって一番面白かったのは、コラムに関する章。「それにしても、あれはどうにかならないものか。読んだコラムがおもしろかったときにそれをたたえるためにつかう、「良質の短篇小説でも読むような」とか「一級品の掌編にでもめぐりあったような」という常套句。あれはよそうよ。」という部分。確かに良いコラムを褒めるのに、短編小説を引き合いに出す必要は全くないはずですが、私も知らず知らずのうちにやってしまっているような…。青山南さんが書いてらっしゃるように「コラムは、うまくいった場合でも、よくできた短篇程度のものにすぎない、という意識がかくれている」という意識はないと思うのですが、しかし実はそうなのかもしれません。そして「これはもはやスポーツライティングではない」などといい始めるのですね。
そして作家といえば、デビュー前には出版社に原稿を送っても断り状と共につき返され、デビューした後もボツにされてしまうことがつき物。これはある程度は仕方ないのないことですが、やはり作家の将来を左右しかねないようですね。時にはウィリアム・スタイロンやアーサー・C・クラークのようにボツ体験がない作家もいるようですが、やはり成功するには純粋な才能の他にも、確固とした自信や強い精神力が必要ということなのでしょう。せっせと投稿し続けて、しまいには出版社がそのパワフルさに負けてしまう、ジョン・アップダイクやジョイス・キャロル・オーツのようなケースもあるようです。そしてその中で印象に残ったのは、スティーヴン・キングのエピソード。人気のキングですらこれまでに短篇60篇と長篇4篇がボツになっているそうですが、そういったことにまるでめげずに「ぼくはいくらでも書けるから、そんなの、ものの数じゃないヨ」と明るいのだそうです。やはりこういう作家が最後まで生き残るのでしょうね。


「英語になったニッポン小説」集英社(2006年6月読了)★★★★★

吉本ばなな「キッチン」、村上龍「69」、小林恭二「迷宮生活」、李良枝「由煕」、高橋源一郎「虹の彼方に」、津島佑子「山を走る女」、村上春樹「象の消滅」、島田雅彦「夢使い」、金井美恵子「兎」、椎名誠「岳物語」、山田詠美「トラッシュ」といった、11編の英訳された作品をとりあげて、原作と英語版の対比をしながら、文化の違いや言語の違いを見ていく本。

日本の古典文学や近代文学も、海外では多数英訳されているのですが、本書が出版されたのは1996年。ここに紹介されている作品は比較的新しい作品ばかり。日本という国への興味が高まり、英訳がどっと刊行されることになった「ここ10年間に英訳の出た新しい作家のもの」を選んだのだそうです。翻訳家の青山南さんの本だけあって、翻訳家の立場からの意見も沢山入っていて、翻訳家志望の人にとても勉強になりそうな1冊です。
単に日本語と英訳を対比させるだけでなく、日本語版と英語版の雰囲気の違いや、その原因として考えられること、日本特有の固有名詞や、その言葉によって伝わるものなど、様々な部分が取り上げられていて、とても興味深いです。。例えば村上龍さんの「69」で、「林家三平そっくりの男」という言葉を単なる容貌を説明するような言葉に置き換えたことから失われてしまった日本語のニュアンス、という浅丘ルリ子をブリジッド・バルドーと意訳してしまったことから、石原裕次郎と浅丘ルリ子がワンセットになってこその原文の微妙なバランスが崩れてしまっていることなどを指摘。李良枝さんの「由煕」では、原文とその英訳、さらに英訳から青山さんが訳した日本語も対比されています。英語と日本語がちゃんぽんで登場する島田雅彦さんの「夢使い」は、その英語部分が英語版では改めて訳しなおされていたのだそうです。それはおそらく、より自然な会話としての英語にするため。しかし話している内容はきちんと英語に翻訳されていても、英語と日本語の入り乱れた会話の雰囲気は、英語版からは伝わってこないのです。椎名誠さんの「岳物語」でも、文章の順番が緻密に入れ替えられて端正になった分、椎名誠さんの「勢いのままだらだらと書いた」雰囲気はなくなってしまっています。しかし逆に吉本ばななさんの「キッチン」では、英語になったからこそ理解できるようになった部分というのもあるのです。
単に1つの言葉を他の言語の言葉に置き換えるだけでは翻訳はできないと分かっていても、ここまで翻訳者の手が入っているものなのですね。行間のニュアンスまで上手く訳されているものがあれば、まるで違う雰囲気の作品になってしまっているものもあり、言葉の後ろに見え隠れする文化までを伝えることの難しさを実感させられます。


「眺めたり触ったり」早川書房(2006年6月読了)★★★★★お気に入り

自分の本の読み方の遅さを昔結構悩んだという青山南さん。きちんと読んでいるから遅いのか、それとも集中力がないから遅いのか。しかしきちんと読むとはどういうことなのか。そんな話から始まる、青山南さんの読書にまつわるエッセイ。

これまで読んだエッセイでも薄々感じていたのですが、私の本の読み方はどうやら青山南さんとは正反対のようです。面白い本は一気に読んでしまいますし、読んでいるうちに夢中になって気がついたら朝になっていた、というのもあります。「父は、夢中で本を読んでいたので、母に言われるまで、家のなかが知らないインディアンで一杯なのに気がつかなかった」というナーシッサ・コーンウォールの言葉もよく分かります。歩きながら本を読むことも多いですし、面白くない本を読むのを途中で決意してやめることもあります。もちろん拾い読みの楽しさや、索引読みの便利さなど、頷きたくなるような部分も多いのですが、本の読み方がまるで違うからこそ、ここまで楽しめるのかもしれないと思ってしまうほど、青山さんの読書や本に関する話はとても面白いです。
池澤直樹さんが言う「小説って、読むのにあるスピードがいるでしょう」という言葉には青山さんも頷いてらっしゃいますし、私も同感。本当にそうですね。「じっさい、かなりのスピードで読むなら、たいていの小説はそこそこおもしろい」という状態は、まさに私のことかもしれません。じっくりゆっくり読むのに向いている本もありますし、私自身ゆっくり読むこともありますが、基本的に自分のペースで読めないと本は驚くほど面白くなくなってしまいます。「時間もかからなかったし、まあいいか、と評価が甘くなるのか?」というのは少し違うのですが…。それでも確かに「これだけ時間をかけたのに」とがっくりくる度合いは、私の場合遥かに少ないと思います。
様々なエピソードの中でとても印象的だったのが、アーウィン・ショーのインタビューの中にあった、ニューヨーカーの編集者が言っていたという、小説の最後のパラグラフをばっさり切る話。なるほどそうやって余韻が残る作品になるというのは、言われてみるとそうかもしれないですね。とても分かる気がします。


「気になる言葉、気が散る日々」本の雑誌社(2006年7月読了)★★★★

「ピーターとペーターの狭間で」「翻訳家という楽天家たち」と同じように、本の雑誌社に掲載された翻訳にまつわるエッセイを1冊の本にまとめたもの。

本の雑誌社の他の2冊と同じような系統のエピソードですが、「ピーターとペーターの狭間で」は純粋な翻訳秘話が楽しかったですし、「翻訳家という楽天家たち」は、翻訳だけでなく読書周辺の話題が楽しく、そして今作ではさらに話題が広がったよう。面白そうな本の紹介が色々とあり、読みたくなってしまいました。この文章が書かれる2年ほど前からアメリカで幅をきかすようになった「ポリティカリー・コレクト」な言葉が遂に本になってしまった「ジ・オフィシャル・ポリティカリー・コレクト・ディクショナリー・アンド・ハンドブック」(どうやらこれは後に文藝春秋から刊行された「当世アメリカ・タブー語事典-多文化アメリカと付き合うための英語ユーモア・ブック」のようです)や、以前から読んでみたいと思っていた、一部で有名だという「新明解国語辞典」、同じ翻訳家としてヒロインに共感させられてしまったという多和田葉子さんの「アルファベットの傷口」などなど。「頭の中の涼しい風」の章では、リフォームのために一時的に家を出ることになった青山南さんのエピソードが書かれているのですが、本の荷造りで書架があいてくるのを見るのは快感で、アンドレ・ジッドが「ジッドの日記」に書いていた「頭の中を涼しい風が通る」と表現がぴったり、という話を読むと、これまた読んでみたくなってしまいます。
本の裏表紙のバーコードとの闘いを続ける絵本作家・レイン・スミスのエピソード「バーコード・バトルロイヤル」もとても面白いですね。憎むべきバーコードを2つつけて、眼鏡のようにつるで繋いでいたり、しかも片方を眼鏡のレンズを割るように粉々にしていたり、絵本に登場するニワトリにバーコードに対するいちゃもんをつけさせていたり。これはぜひ実際に見てみたくなってしまいます。そして青山さんの、時々素顔が垣間見えるような文章も相変わらずの魅力。「ゼルダの家で」でのスコット&ゼルダ・フィッツジェラルドのエピソードでは、ヘミングウェイが悪妻だというレッテルを貼って以来長い間黙殺されてきたゼルダが復権していて、モンゴメリーの街ではスコット&ゼルダ・フィッツジェラルド・ミュージアムができ。「ゼルダ」だの「スコット」だの「フィッツジェラルド」だのという通りが出来ていているのだそうですが、「ええい、じゃあ、『セイヤー』はないか、と、これはゼルダの旧姓なのだけど、探したら、まいったね、あった。」と、こういう文章が登場するのがやはり好きです。

Livre TOP≫HOME≫
JardinSoleil

Copyright 2000-2011 Shiki. All rights reserved.