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このページは、井辻朱美さんの本の感想のページです。

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「エルガーノの歌」ハヤカワ文庫JA(2006年7月読了)★★★★★お気に入り
【魔界の花】…祭りの花の香りに誘われて人界に下りて来た魔物は、美しい娘に姿を変えて祭りへ。そして遠くから来たらしい1人の若者に出会います。
【北の娘】…聖地回復の騎士として出征していたウーラントが北の地にある故郷の国に戻った時、いとこのエディスは既に婚礼をあげて都へ行っていました。
【イスファタル】…北の国の王子・イスファタルは魔物たちを自由にする呪文を知り、それによって多くの魔物を捕らえ、庭園で彼らの得意とするものを作らせていました。
【谷の女神】…ゴートのエルスラッドは、南の砂ばかりの国への冒険を渇望し、谷の女神の祝福を求めます。女神の愛を受けたものは不死になるという伝説があるのです。
【雲】…道化師・アルビレオがサーカスの一団に加わって1年。彼は緑や青や黄色の星を操り、猛獣使いと決闘の場を演じ、奇術師である親方の助手を務めて客の心を掴んでいました。
【海の王子】…何百年もの間、北の海の王子は常に北方の漁師と共にあり、尊崇を受けていました。しかしある年、潮にあやしい赤い色が混ざって魚が1匹もかからなくなります。
【イシルハーンの賭け】…ガザの神殿が組まれていく様子を飽きずに眺めていたのは、既に幽霊となっている少女。彼女の楽しげな様子にイシルハーンは苛立ちます。
【北方の太陽】…北方の銀嶺王国の狼の一族の長の息子・グットルムの嫁に来たのは、熊の一族の若い族長の妹・シュンネーヴェ。アラウルはいとこの花嫁に心惹かれます。
【魔物の贈り物】…山間の小さな村落に暮らす少年は、母親の病いを治すために、南の果ての海辺へ行きます。占いの老婆に、魔物の持つ指環で病が治ると聞いたのです。
【黄金の髪のロムセイ】…狩人のドリンが山の中で金の髪の娘に出会います。それは女神・ロムセイ。願い事を1つ叶えてもらえると聞いたドリンは、ロムセイを妻に望みます。
【赤い石】…戦士ファライトの胸に下がっているのは、滴の形をした血の色の石。それは危険が近づくと警告し、土壇場では腕に常ならぬ力を増し加えてくれるのです。
【ファラオの娘】…リナルドが山で見かけたのは淡い影。その影はリナルドにつきまとい、白い犬やファラオの娘・ネフェテルリの姿に身を変えます。
【エルガーノの歌】…エルガーノは王に仕えてあまたの戦いに出た歴戦の騎士。従者となったコーヒー色の肌の男を見ているうちに暑い国々を見たくなり、従者と共に南へと向かいます。しかし彼が南に行っている間に婚約者だった姫の父の土地は他の領主に奪われ、姫はエルガーノを許そうとはしなかったのです。エルガーノは王によって追放となり、それ以来、歌の作り手となることに。

多神教の神話のように、どこか懐かしい古い世界の物語13編。その世界はまるでタニス・リーや神月摩由璃さんの描き出す世界のよう。吟遊詩人が各地を彷徨っていた時代の物語。きっと井辻さんも子供の頃から叙事詩とか神話がお好きだったに違いない… と思いながら読んでいたら、あとがきに、子供の頃から「ロビン・フッドの冒険」「アーサー王」「ローランの歌」のような古い伝承がお好きだとありました。「もちろんトールキンやC・S・ルイスやマクドナルドも好きですけれど、それは彼らをオリジナルとして好きというよりも、わたしの好きな世界を再現してくれた、ひとつのヴァリエーションとして好きなような気がします」とも。…この言葉はとても良く分かります。あまりきちんと考えたことはなかったですが、私が「ナルニア」や「指輪物語」をあれだけ愛読したのも、古い叙事詩や伝承に通じる匂いがあるからですし。ただ、私の場合は、どちらも同じぐらいのレベルで好きなので、どちらが上とは決められないのですが。
最初の12編は、どれもかなり短いです。しかしその短さに関わらず、どの作品も情景が色鮮やかに目の前に浮かんでくるよう。私が特に好きなのは、魔物と神が出会う「魔界の花」、王子イスタファルが自分の属するべき世界を魔物に教えられて見出す「イスファタル」、神々が絶対ではなく時には人間にしてやられてしまう「イシルハーンの賭け」や「黄金の髪のロムセイ」。これはもう一神教の神話には存在し得ない世界ですね。
そしてそれらの12編に比べ、「エルガーノの歌」だけはかなり長く、中編と言って差し支えないよ物語。「序曲 黒い真珠」「第二曲 古譚」「第三曲 死神」「第四曲 イニスフレイ姫」「第五曲 侏儒」「間奏曲」「第六曲 海の王国」「終曲 たてごと」という7章に分かれています。このエルガーノが歌い語る詩もとても素敵ですね。

「パルメランの夢」ハヤカワ文庫JA(2006年7月読了)★★★★
掌から鉱物が出るようになってしまったと、小さな古ぼけた時計屋のファン・フウリク博士を訪れた「ぼく」。最初は掌から鉱物が出て、それが足の裏や肩にまで広がり、そのうち咳き込むたびに金粉が出てしまうという、近頃街で流行っている奇病なのです。博士は、時計の沢山ある家にこの病が起こるのだと言い、「ぼく」の治療に取り掛かります。そしてその治療によって、「ぼく」は、自分が遊園地で将棋をさしていた自動人形のパルメランだと思い出し、ほかならぬ自分がその奇病を街に広めていたと悟ることに。博士は胸に辰砂の砂時計をセットし、それをひっくり返すためにパルメランの胸の中にもぐりこみます。

幻想的な連作短編集ですが、「エルガーノの歌」のような古い叙事詩や伝承の雰囲気というよりは、「風街物語」に近い、童話のような雰囲気。風の中に漂う夢の断片のような物語です。
パルメランの胸の中に住み着いているのは、将棋の天才のメルツェルという小男とファン・フウリク博士。そして途中から旅に加わるのは、遍歴帽子屋のロフローニョ。このロフローニョの作る帽子がとても魅力的なのです。探し物がすぐに見つかる繻子の帽子、黒いタフタに紫のスミレと紗のヴェールがあしらわれた頭痛を取る帽子、ラシャの布のふちのない丸い帽子に星座が銀糸とビーズでかがってある、心の火照りを沈める帽子。その他にも色々登場します。彼の帽子には様々な効能があって、それは最初にかぶった人のものになってしまうというのが特徴。ロフローニョ自身の帽子は羽飾り付きの灰色の帽子で、何でも忘れられるという効能付き。定番商品もあるのかもしれませんが、むしろインスピレーションを受けるたびにロフローニョが作り上げているようです。あとがきに「帽子というものは、都会では不要不急のものになってしまいました。それだけに帽子を作るというのは、お菓子を作る(あるいは物語を作る)のにも似て、楽しいことのような気がします」とありますが、全くその通りですね。なので、パルメランの登場する物語よりも、ロフローニョが前面に登場する「ロフローニョの四季」の方が好きだったかもしれません。
「ロフローニョの四季」の「秋」でロフローニョが入る時計店は、まるでファン・フウリク博士の時計店のよう。そして「木馬」では、ロフローニョはメリーゴーラウンドの木馬で遠い国へと旅をします。そのメリーゴーラウンドが、またしても冒頭の「ファン・フウリク博士の陰謀」にも登場し、まるで物語全体が素敵な音楽を奏でながらぐるぐると回っているかのようです。

収録:「パルメランの夢」…「ファン・フウリク博士の陰謀」「パルメランとももいろ水晶の物語」「斜視の天使」「時間管理局の医師の手記」「遍歴帽子屋ロフローニョ」「惑星祭りの夜」「夏至のイルカ」「隕石の原」「サールナートの壁」
「ロフローニョの四季」…「春」「夏」「秋」「冬」「木馬」

「ヘルメ・ハイネの水晶の塔」上下 講談社X文庫(2006年8月読了)★★★★
秋のはじめの穏やかに晴れたある日のこと、水晶通りにやって来たのは、マーレン・マードルフ。夏の国で家政婦をしていた彼女は、ある日街に降ってきたプラタナスの葉の形をした「お手伝いさん求む」のちらしを見て、飛行機に乗ってハルメ・ハイネの塔までやって来たのです。ヘルメ・ハイネは亜麻色の髪と灰色の目をして、全体に血の気の薄そうな印象の魔法使い。人間の言葉を話す白いオウムのダーヴィッドと暮らしています。最初はすげなくマーレンを断ろうとするヘルメ・ハイネでしたが、どうやらちらしを出したのは先代のハルメ・ハイネで、しかもそれが100年ほど前のことらしいと分かり、とりあえずマーレンを雇ってみることに。マーレンは塔の隣にある薬屋のミス・ダルシラの家に寝起きして、ハルメ・ハイネの塔に掃除に通い始めます。

上巻は、ほのぼのと柔らかい色彩に包まれた暖かい雰囲気の物語。ここに描かれている街も、少し不思議でありながら、とても居心地が良さそうで、風街の延長線上にありそうな存在。主人公のマーレンが魔女の箒のようなふるい箒をどこへでも持ち歩いているというのも、ハウスキーピングのライセンスがメアリー・ポピンズ・ライセンスという名前なのも微笑ましいです。マーレンがいた夏の国というのは、地球上の孤児がみな集まっているという場所なのですが、それも全く暗いイメージではありません。マーレン自身にとっては、4人もいたずらっ子がいたりする家での家政婦の仕事は大変だったようですが、むしろ子供が沢山いて賑やかで楽しそうと思ってしまうほど。しかし下巻に近づくに連れて、その暖かな色彩はどんどん薄れ、温度までもがどんどん下がっていきます。井辻さんによるあとがきにも前半はカラーで描き、後半はモノクロで描くというイメージだったとあり納得。
下巻に入ると、舞台はトロールの森へと移るのですが、そこは全くの冷たい灰色の世界。時々思い出したかのように原色に戻ってしまった色彩が飛び散っているのですが、基本的には無彩色。空間も時間も螺旋のように巻きながら閉じていってしまい、どこにも逃げ場がありません。マーレン自身も、自分の心の奥底に潜んでいた本当の気持ちを目の当たりにさせられることになりますし、ここにあるのは厳しい現実のみ。前半の夢のような雰囲気が嘘のような、まるで悪い夢でも見ているような、何とも言えないない世界。それでいて、とても強烈な吸引力があるのですね。世界そのものが苦々しいもので満たされていくのを感じながらも、それでも読むのをやめられない、そんな魅力があります。終盤は、まさしく井辻さんが「エルガーノの夢」のあとがきに書かれていた、「とほうもなく非合理で、小説のようなちゃんとした構造をもっていなくて、断片的で」「詩のような夢のような、奇形であいまいで、それだから美しい」叙事詩や伝説の世界。整合性があり、きちんとしているだけが小説の魅力ではない、そんな思いが伝わってきたような気がしました。

「トヴィウスの森の物語」ハヤカワハィ!ブックス(2006年8月読了)★★★★
若き騎士トヴィウスは、極悪な盗賊を捕まえたことから森の半分を恩賞として与えられ、その盗賊は村人たちによって森の中央にそびえる美しい樫の木に吊るされて射殺されます。そして、かつてはその周囲で豊穣の儀式が行われていた聖なる木は、いつしか多くの極悪人に裁きを下してきた<首くくりの木>として恐れられるようになるのです。そして数代後。マルコム・トヴィウス少年は、乳母や守役に守に入ってはいけないと禁じられていたにも関わらず、遊び仲間の村の少年と共に森の中へと入っていきます。<首くくりの木>にたどり着いた2人は、いつしか地をのたうつこぶだらけの木の根や、ふしくれだったかまくびをもたげている木の枝を竜に見立てて遊び始めるのですが、マルコムが最後に切り込んだ太刀先が一番低い枝の一本の細枝を落とした時、幹の後ろから1人の瀟洒な服装の若者が現れます。そしてマルコムはその若者、魔物のギルメットにハルツの魔王の城まで連れて行かれることに。

黒い森に白い滝、ミルクのように白く輝く氷河。霧の立ち込める黒い大理石の城には、影のヴェールのうしろに姿を隠し、岩々の洞窟を吹き抜ける風のような冷たい声を出す魔王。糸を紡いだり織ったり、廊下や階段を拭き掃除している真っ白な髪の老女たち、地下の鍛冶場で仕事をしている性悪な小鬼たち。死んだ罪人から生えてくるという野菜。なんとも禍々しい雰囲気がありながら、美しい若者の姿をした魔物・ギルガメット・ローランスの存在によって妖しい美しさをも感じさせる世界。それに対して、昼間はハリモグラの姿をしていながらも、夜になると可愛らしい姿になる妖精たちの世界は、素朴ながらもとても暖かいもの。一見この魔王の城と妖精の家が、トヴィアスの屋敷を挟んで対極のようにも思えるのですが、しかし実は表裏一体だったのですね。マルコムが輪をくぐることによって、モノトーンだった魔王の城の情景が美しい色彩に溢れた妖精の広間へと変わる場面が印象に残ります。森のあちら側とこちら側、魔王の城と妖精の広間を繋ぐのは魔物のギルガメット。このギルガメットの内面もまた、表裏一体となっているのですね。井辻さんの作品らしく、非合理ながらもとても詩的。まるでバレエか何かの舞台を観ているような印象が残る作品でした。
「幽霊屋敷のコトン」と対になる作品であり、一番基底を流れているのが「水と血と樹木の神話」とのことなのですが、井辻さんご自身も書かれている通り、「幽霊屋敷のコトン」の可愛らしい雰囲気に比べ、同じ「水」でもこちらは本当にファンタジックなファンタジー。美しさの中に、迂闊に触れば切れてしまいそうな厳しさを秘めています。

「幽霊屋敷のコトン」講談社X文庫(2006年8月読了)★★★
アーカンソウ家に伝わる古い屋敷を受け継いで管理しているコトンこと、ミリー・スカーレ・アーカンソウ。その屋敷には実は、優しかった姉のロザロップ、生きていた頃は幼いコトンをいじめてばかりいて、海に亡くなった従兄のドナン、地質学者だった曽祖父、長く放浪して歩いていたという内気なヨールキップなど、アーカンソウ一族の幽霊たちがコトンと共に暮らしており、コトンは屋敷を幽霊屋敷として観光客に公開して生計を立てているのです。そんなある日、コトンの前に現れたのは新聞記者だというジョン・ハートランド。幽霊屋敷の取材をしたいというハートランドは、1週間後にカメラマンと女性記者を連れて、再びこの屋敷を訪れます。そしてその記事を見て、様々な人々がアーカンソウ屋敷に幽霊を見に来るようになります。その中の1人、占い師のデオン女史は、コトンが屋敷に運を吸い取られており、このままではコトンも屋敷も危ないから、屋敷の手入れをした方がいいと言うのですが…。

おとぎ話のように可愛らしい物語。主人公のコトンが現実離れをした、いつでも夢をみているような少女なこともあって、彼女自身がまるで幽霊の1人のよう。そしてコトンの水の夢や、冒頭の雨とぬかるみが泥を撥ねる場面、そんな時に持ち歩く黒い鳥(雨傘)のチェルシー、屋敷を取り巻く水溜りなどから、とても水の匂いの濃い物語。
ジョン・ハートランドはいかにも恋人役に相応しいですし、デオン女史は見るからに怪しく、とても分かりやすいのですが、その中でコトンを取り巻く幽霊たちがとても魅力的。特に意地悪で口が悪いながらも根っこの部分で優しいドナンが印象深かったです。
この物語の中で一番印象に残ったのは、コトンの祖父がコトンに毎日日記をつけることを約束させて、「いいかい、おまえが書かなければ、一日は枯れた薔薇の花びらのように、くずれてどこにもないものになってしまうのだよ」と言う言葉。その約束通り、コトンは毎日日記をつけています。私はてっきり、それが何か重要な伏線になるのかと思っていたのですが…。しかし伏線云々はともかく、実際問題として、日記を書いていなければ、日々はただ通り過ぎていってしまうもの。そこに何を書いたという内容が大切なのではなく、書き続けるということ自体が大切なのですよね。私がこの6年半書き続けている読了本の感想もまた然り。何も書かずに次から次へと本を読み続けていれば、それらの本の印象は、とっくの昔にほろほろと崩れ去ってしまっているはず。しかし何かしら書いてさえいれば、それを書いた時のことを、書いていないことも含めて色々と思い出せるもの。それは自分にとって、とても大きな実りとなっていると思います。

「夢の仕掛け-わたしのファンタジーめぐり」NTT出版(2006年10月読了)★★★★
ファンタジーとは一体何なのでしょう。現実世界とは一味違った別世界を作り出し、その中で生きる楽しみを謳歌するのは、ファンタジーと呼ばれる物語群の特徴ですが、現実世界を脇にのけて遊ぶための空間に、一体どのような意味があるのでしょうか。トールキンが「指輪物語」を書いた頃のように「逃避すべき牢獄」があるわけでもなく、のっぺらぼうで無機質で居心地の良い温室があるばかりの現代において、ファンタジーを逃避であるとか空想的であると言うのは全く当たっていないと考えた井辻朱美さんが、60年代頃から英米でファンタジーが復興し始めたその理由、なぜ今ファンタジーなのかという理由を、様々なファンタジー作品を通して9つの角度から考察していく本です。

枠物語、死後譚、多重人格、人形、動物、場所… といったキーワードから様々なファンタジー作品を考察していくのですが、その中で特に興味深かったのは、私自身がとても好きな枠物語。多くの古典ファンタジーでは、枠と中身は全く異質なものであり、枠が現実なら、中の絵は夢と幻想。外から眺めている限り、絵は作り物にしか見えないけれど、枠そのものも、絵を真実らしく見せるという役割を持っており、いったんその枠の中に入ってしまうと、その枠の中にこそ広大な真実の世界があることに気づくもの。しかし時に枠は裏返され、内側こそが外側のような感覚をもたらす… という辺り。ここの引き合いに出されていたナルニアシリーズでは、確かにカスピアンが異世界から来る子供たちこそを枠だと思っていたのは感じていましたし、実際にカスピアンはその世界を一度見てみたいと願っています。ナルニアを読んで漠然と感じていた「枠の裏返し」がすっきりと解説されていて、長年のもやもやが解消された気がしました。
そしてさらに、死後譚にはこの世の生に喜びをもたらすための意味があり、過去への時間遡行も、この空間時間にとらわれた自分を解放する1つの手だて。逃避ではなく、あくまでも別の選択肢によって自分を拡大する試み。枠物語も枠と中の絵という二重構造なのですが、死後譚や時間遡行もまた、二重構造。そしてそのようにして空間や時間を二重にすることこそが、ファンタジーの特徴だということ。そして多重人格は2つの物語を並列して語り、人形は主人公の内部の人格を外に投影し、動物は絶対的な無私の愛を持って主人公を守る… 考えてみれば当然のことなのですが、改めて気づくファンタジーの基本的構造には目から鱗でした。

「風街物語-完全版」アトリエOCTA(2006年7月読了)★★★★★お気に入り
賢人会議に属している魔法使い・ルッフィアモンテは、鶴に乗った仙人に連れられて北方の神々の鍛冶場へ。そこには黒い巨大な竃が据えられていました。これこそが、不老不死の仙丹を焼き上げる太上老君の魔法の竃。盗人の神ロキが、太上老君の昼寝中に盗み出してきたのです。ルッフィアモンテは自分も何か焼いてみようと思い、厨房にあったねり粉をこねて饅頭を作り、その饅頭のかたまりの中にもぐりこみます。その時、戻って来た料理女の鉄の靴に蹴飛ばされ、ルッフィアモンテ入りの饅頭は竃の中へ。それからしばらく経ち、ロキが竃のふたを開けると、そこにはほかほかに焼けた、ルッフィアモンテ入りの焼き菓子が。ロキはぬけぬけと嘘をつくルッフィアモンテが気に入り、地球の端っこにささやかな、ありとあらゆる風の流れ込むおもちゃのような街を作るのが望みだというルッフィアモンテの望みを叶えることに。

海外ファンタジー作品を多数訳してらっしゃる井辻朱美さんご自身のファンタジー作品。地球上のどこかに存在するはずの風街が舞台。一年中風が強く、たくさんの夢が吹き寄せられてくる、そんな風街にやって来たマーチ博士が書き綴った物語。連作短編集です。
街の南には「眠り男たちの森」、裏には《夜》の山脈があり、《夜》に通じる道は、まがまがしい夢が漂い出てくる《妖神たちの小路》。《夜》の山脈の向こうには、碁盤縞の平原が。街の広場の敷石は見る方向によって変わり、噴水は穂の中に色々なものを映し、特に雨上がりには淡い虹と一緒に遠い国の遠い風物を映し出すといいます。通りには、誰もが目移りしてしまってなかなか買えない仮面屋や、笑顔で何でも売りつけるフィガロの標本屋があり、鞄屋の自慢は「ものを出したあと、鞄の口の中へ鞄の底を突っ込めば、くちがねだけになってしまうという鞄」、家具屋にあるのは、毎回割れ方が違うため毎日新しい自分を発見できるというタマゴ鏡、傘屋に見えるのは、開くたびに美しい女の絵が涙を流す傘や奇妙なだまし傘。その他にも、子供の成長に合わせて育つ刺青や、水道工事人が掘り当てる絶品のポトフ、危険を予知して姿を変える黒ウサギ、空の網をかついで満足そうな化石収集家、夜の流星が落ちた跡を嗅ぐ犬、ある日突然来る喪服の日、雨天のみ開館の映画館、《夜》から飛んできた、よい匂いのする粘土のような夢を拾って売る掃除夫の話などなど… 人間も動物もそれ以外の不思議な存在も一緒くたになって暮らしている風街の物語は、連作短編集とはいっても、それぞれの物語に連続性はそれほどなく、まるで夢の場面場面のスケッチを見ているよう。少し強い風が吹いたら、忘れてしまいそうなほどの淡々とした夢です。しかしそのスケッチを見ている間は、イマジネーションがどんどん広がり、透明感のある明るさを持つ情景が出来上がっていき、街は奥行きを増してゆきます。
メアリー・ポピンズが来るのは、実はこの街から? 一番強い火星猫の名前は「スーパーカリフラジリスティックエクスピーアールイードーシャス」なのです。ロビン・グッドフェロウがチョコレットの中に閉じ込められる珍事件とは、稲垣足穂の「チョコレット」でしょうか。そのほかにも北欧神話や中国の神話、千一夜物語、ミヒャエル・エンデ「モモ」、トールキン「指輪物語」、ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」など様々な既存の神話や有名ファンタジー作品が一緒くたになった楽しさもあります。このままマーチ博士や下宿屋のメリー、標本屋のフィガロ、魔女が大きなボール紙から作った指物職人・マルコたちと一緒に過ごしていたくなるような、居心地のいい街の物語です。

収録作品:「不死の竃」「眠り男の森」「マーチ博士の備忘禄」「チェスの平原」「噴水綺譚」「オルゲルビュヒライン」「人形芝居」「ロビン・グッドフェロウの災難」「少女と傘」「夢の掃除人」「まがまがしい伝説」「春一番」「魔女のしもべ」「指環の魔人」「花瓶-あるいは硝子の屈折率について」「珈琲の魔物」「地震の話」「扉綺譚」「ファルファレーシュ」「ドラゴンの夢」

「ファンタジーの森から」アトリエOCTA(2006年9月読了)★★★★
【ファンタジーの森から】…「幻想文学」に連載していたファンタジー論。
【短歌】…「水族」や他の短歌作品の紹介、短歌のモチーフとして恐竜、今の短歌を巡る考察。
【オペラと人形】…「ニーベルングの指環」をはじめとするワーグナーオペラ、そして人形について。
【ファンタジーと心理学】…トールキンの「第三世界」、一元的ファンタジーと二元的ファンタジー、TDLに体験する光と闇について。

「ファンタジーの森から」は、なぜ場所がファンタジーにおいて大きな役割を果たすのかという考察「場所をめぐる物語」から始まり、「死後譚をめぐって」、「『枠物語』あるいはすべての物語」、「神話の力」、「甦生譚をめぐって」、「メタ・ドラマとしての能」、「人形譚をめぐって」、「名前のファンタジー」、「想像上の友達」、「ファンタジーとRPG」など、興味深い考察が展開されていいきます。これは「わたしにとって、なぜファンタジーか」という問いに対して立てられた答なのだそうで、それは今私自身にとっても一番興味のある問題だったので、とても面白かったです。中でも一番印象に残ったのは、今ファンタジーが広く読まれつつある理由。20世紀に入って小説は色々な意味で変わり、ミステリの隆盛と共に世界はどんどん断片化。現実の世界でも小説の世界でも、様々な人間の世界が迷宮のように絡まりあい、人々は手探りでその中を進んでいかなければならないような状況。そのような状況の中で、「いっぽうで世界が断片化してゆくのに対する補償として、世界の全体性を回復したいという衝動のためではあるまいか」と、井辻さんは書いています。
そして井辻朱美さんの短歌を、今回初めて読んだのですが、こういった神話世界を詠んだ短歌があるなど全く知らなかったので、とても新鮮でした。素敵ですね。私の場合、日本古来の短歌のイメージがどうしても頭にこびりついていて、俵万智さんや穂村弘さんのいわゆる口語短歌、詠み手の感覚がごく身近に感じられる短歌も素敵だなと思いつつ、どこかしっくりと来ないものを感じていたのですが、古い神話や伝承の世界、それも日本の神話や伝承ではない素材にも、短歌が驚くほど馴染んでいるのには驚かされましたし、もっと色々と読んでみたくなりました。
そしてこの短歌の章で印象に残ったのは、「最近のヤングアダルト向けの小説を読んでいると、いちいちの場面がアニメでしか浮かんでこないのである」という文章。私はヤングアダルト向け小説というよりも、いわゆるライトノベルと呼ばれている作品が、この文章に当てはまるのではないかと思うのですが、確かにそういった作品は、どの場面をとってもアニメのよう。私自身、映像が浮かぶ作品はとても好きではあるのですが、確かに「だが、そこには実写の持つ苦渋に満ちた重さがないこと、物質の持つ鈍い抵抗感が欠けていることもまたたしかなのだ」だと思います。もちろん井辻さんが書いてらっしゃるように、アニメと実写映画の価値は比較できないもの。また別のジャンルと言えるでしょう。そこで「アニメ」「ライトノベル」「口語短歌」と、これはこれで面白いと思いつつも、どこか自分には馴染みきれない部分の共通点が見えてきてとても興味深かったです。

「遙かよりくる飛行船」理論社(2006年9月読了)★★★★
アスナ・グウェンドーリンが北海の島・ハイブラセイルを出て、新大陸の都市・プリオシン市で働き始めて5年。いつしか空には、何食わぬ顔をして浮かんでいる飛行船がありました。その飛行船は神出鬼没。しかし飛行船を見かけた日は、アスナにとって何かしらか良いことがあるのです。そんなある日、アスナの勤める会社にやって来たのは、ネヴィル・リーデンブロックという研究者。会社のビルの柱や壁には色々な化石が埋まっており、それを見たいとやって来る人間が時々おり、語学に堪能なアスナが案内することになっていました。ネヴィルは2度目に来た時に、会社に生えているゼラニウムの植木鉢を見つけ、アスナにこういうのが見つかる場所は地層がおかしくなっているのだと言います。数日前にゴミ捨て場で拾ったゼラニウムの植木鉢のことを思い出したアスナはぎくりとするのですが…。

沢山の国から沢山の人々が訪れるため、地層が緩くモザイクのようになっていて、そのすきまに地球や滅びた生き物たちの夢の地層が忍び込み、地震や天変地異を起こすというプリオシン市が舞台。それに対して、アスナの出身の島は、ケルトを思わせる古い島。古い中でも古い島で、そこには古い家や血があり、結束力の固い共同体があり、伝統があり、人々は何代も変わらない暮らしを続けています。
故郷の島に重く立ち込めるしがらみを嫌い、そこから逃れたいと願いながらも、都会の薄っぺらな、あぶくのような生活にも満足できず、島を捨ててしまったら自分には何も残らないという虚無感に襲われるアスナ。生粋の島の人間ではないにも関わらず、島の人間になりきろうとしているアスナの恋人・ハリー。パンゲアの草原からやって来たシャーマンの孫娘・マドロン。正体は既に絶滅した翼竜「アンハングエラ」だというネヴィルは、夢の地球からやってきた惑星管理官。それぞれの登場人物たちがこのプリオシン市で出会い、自分自身として生き続けていくために、それぞれにあがいています。しかし、まるで違う出自を持つ彼らを結びつけているのは「愛」。夢と現実が混在したような世界の中で、飛行船が象徴する「愛」が大きく暖かく包み込んでくれる、とても不思議な雰囲気を持った物語でした。

「ファンタジーの魔法空間」岩波書店(2006年9月読了)★★★★
ファンタジーという名称が定着して30年。それ以前から神話や英雄叙事詩、ホフマンやネルヴァル、ゴーティエ、ノヴァーリスがお好きであり、ご自身も多くの英米ファンタジーを紹介する機会に恵まれた井辻さんは、「どうして自分がこのジャンルにもっとも親和感を覚えるのか、なぜこのジャンルだけを特別な、いわば『聖別』されたものと思うのか」と考え続けたのだそうです。そして恐竜や古代文明を求めて博物館めぐりをしていた時に気づいたのは、博物館という場所が、外界とは切り離された凝縮された場所であり、最も古い時代である最下階から上昇するにつれて現代に近づき、出口には土産物屋やカフェが置かれて「現実へのなだらかな再接続が準備されている」こと。そして目を転じると、テーマパークのアトラクションも閉ざされた建物に入ることによって、短い死と再生を体験するもの。それからというもの、それまで読んできたファンタジーを、空間や場所といった隠れたコードから読み直すようになったのだそうです。この本では、幻の空間や実際の家屋といった「家」のファンタジー、それとは逆に空間の中を動くことによって固有の時間体験を作り出す「旅」のファンタジー、そしてファンタジーの中に当たり前のように存在している「魔法」について考察していきます。

第27回日本児童文学学会賞受賞作品。
空間や時間といった観点から様々なファンタジー作品を考察していくというのは面白い試みですね。しかしとても説得力がありました。中でも感銘を受けたのは「家」の章。「台所のマリアさま」を例に取っての、屋根裏部屋と台所の考察はとても面白かったですし、この作品は未読なので、ぜひ読んでみたいです。他にも色々と興味深い話があったのですが、やはり自分が実際に読んでいる本の方が断然分かりやすいですし、色々と腑に落ちますね。「クローディアの秘密」が引き合いに出されている「旅」のファンタジーの章の「編集される時空間」での、「ミュージアムではまず異世界を体験することができる」という言葉にはとても説得力がありました。舞台としての、訪れる人間にとっての、メトロポリタン美術館と大英博物館の違い。そしてここで引き合いに出される「クローディアの秘密」のクローディアも、「鏡のなかのねこ」のエリンも、時空を越えたファンタジー的空間で「自分」を獲得することによって、現実としての「自分」へとリンクさせていくのですね。
そして私にとって一番興味深かったのは、「指輪物語」における回想シーンや歌謡の多さとその役割のくだり。あらすじを聞いただけではそれほど楽しいとは思えない話が、なぜそれほど魅力的なのか。その理由として井辻さんが挙げているのは、「そこでは時間がその瞬間に生まれ、どの瞬間にも停止しうるような、立ち止まりうる相を備えていたからだ」ということ。確かに「指輪物語」には、最近の「つねに息を切らし、もどかしくもせつなく先へ先へとページを繰らされる」ファンタジーにはない、ゆったりとした流れがあります。怒涛のように展開し、見事に収束していく物語も面白いのですが、そういった物語は読んでいるその時は楽しくても、読み終えてしばらく時間が経つと余韻がまるで残っていないことに気づいたりもします。古い叙事詩や神話によく見られるような、時には本筋とは関係ない部分が延々と描かれている部分こそが、私が好きな部分なのかもしれません。そういったことを再発見できたという意味でも、この本を読んだことに大きな意義があったように感じました。
全体的にとても面白かったのですが、この本に紹介されている本に未読のものが多かったので、それが少し残念でした。読んでいなくても分かるように書かれてはいるのですが、やはり自分で実際に読んでからこの本を読むのと、この本で新たに出会うのとでは、納得できる度合いがまるで違うはず。未読の本を読み、その都度こちらの本を読み返してみたいです。おそらく理解もまるで違ってくるのでしょうね。
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